第46話 鉄の森、蒸気の霧 - 11
「俺がガキに奢られて喜ぶように見えたってか!ふざけんじゃねぇ!」
コップを投げてきた男が怒鳴り散らかしているが、どうにもこちらに来ておらずイネちゃんが1番強い酒を注文した連中が近くの客に飲ませようとした結果、その客が切れて投げたコップが奇跡的にこっちに飛んできたようである。
何もかも想定外の状態ではあるけれど、とりあえずイネちゃんの今の感情は。
「すみませーん同じものをお願いしまーす、支払いはこれをやらかした連中持ちにしてもらってー」
改めて注文しなおしつつ、台無しにした料理の代金を元凶……で言えばイネちゃんになってしまうけれど、そもそも酒を別の人間に振る舞う必要は無かったはずなのにやらかした連中が追跡監視していたことにまでも遡れるので代金を押し付けるのは問題ないはず、迷惑料だよ、うん。
「あぁん?」
当然煽ればこうなるわけで、これで当事者だったイネちゃんたちを追跡していた男連中も巻き込んだ喧嘩になるはず。
想定外の事態だろうことはイネちゃんもだけど追跡してた連中も同じはず……いやまぁこの男が金を握らされてやってる可能性はあるけれど、あの手の輩で同じ組織や知人でなければタダ酒が飲めると言った状態で断るわけがないので、もしかしたら相手側の想定範囲内だったかもしれない。
どちらにしろこれで巻き込める可能性は十分あるし、なんだったらこちらの実力を簡単に見せることが出来るので面子の為に必要なリスクではないと思わせられるかもしれないので問題ない。
ルスカは青ざめて慌てているし、店員の女の人もあちゃーと言った感じの表情を見せつつも厨房に向かって何か言っている様子が見えるので……早くしないと衛兵来ちゃうかな、あの人がイネちゃんの実力的に問題ないと言うことは知らないわけだし。
「ルスカは周辺警戒の訓練のつもりで待機ね。状況次第でやってもらうことが増えるからそのつもりでいてね」
聞こえているかはわからないもののとりあえず指示を出しておいてこちらに向かってきている男に対し向き合える場所に移動する。
「マジでガキじゃねぇか」
「見た目は否定しないけどねぇ、成人してるし傭兵として実績があるって言っても信じないだろうけど……喧嘩するのかい?」
「舐められっぱなしじゃいられねぇからな!」
男は会話中にも関わらず拳をイネちゃんの頭の上から叩きつけるような大振りで振り下ろしてくる。
チンピラかどうかはわからないものの、イネちゃんのような身長の人間相手にもそれなりに戦い慣れしているようで、大振りの振り下ろしは回避される前提で懐に入ってきた時にカウンターを仕掛けている構えが見えている。
それならイネちゃんがやることは1つ、相手の拳を受け止める。
実力を見せるという目的もあるからこれ以外の選択肢はそもそも優先順位的にかなり低いからね、体格差があるとは言っても囮の大振りである以上体重は乗っていない拳を受け止めるのはイネちゃんにしてみれば必死に訓練していた時に想定し続けていたものなので受け止めるだけのエネルギーコントロールは体に染みついている。
「体重の乗ってない囮の大振りは乗ってあげてもいいけど……面倒だからねぇ」
「なっ!」
イネちゃんの言葉と目の前の出来事で男は驚き身体を後ろに移動させようとしたところで、イネちゃんは踏み込み、全体重を乗せて男に肩から勢いよく押し出すイメージで地面を蹴って押し上げてあげると……。
男は言葉を残すことすらできず、自分が身体を引くときのエネルギーに上乗せでイネちゃんのタックルを受けたことでバランスを崩して勢いよく後ろに数歩足をもつれさせながら移動して、イネちゃんを追跡していた連中の机にもたれかかるようにして倒れこんだ。
「大丈夫かい?」
男たちに酒を奢った時点で気づいているということは理解させたはずではあるけれど、一連の流れを見て驚いたような表情を見せて固まっている。
イネちゃんに絡んできた男も今のやり取りで身体を痛めたようで壊れた机を掴みながら立ち上がろうとするも呻きながら立ち上がることが出来ずにいる。
喧嘩が日常茶飯事であろうことは店員さんの会話でわかるものの、周囲の客も喧嘩を楽しみそうに席を向けていた連中も黙っていて先ほどの喧噪が嘘のように静かになっていてどうにも不思議な感じ。
「……まぁそこの席の人に介抱は任せることにするよ」
そう言って席に座るものの、場の空気は凍っていると言って差し支えない状態のままなのに店内の視線は独り占めの状態……だからこそそれぞれの目をさっと確認しやすくて割と助かった。
店内の視線から気配を選別するのは一苦労ではあるけれど、その殆どが信じられないといった驚愕のものと賭けでもしていたのか喜びや悔しさと言ったもので……少なくとも視線の中でわかりやすくイネちゃんに対して一挙手一投足を監視するような感覚は見当たらない。
(うーん、ここで見つからないのは結構困った事態だ)
今後の展開を鑑みるとここで下っ端連中が暴発して集団になって襲ってきてくれた方がありがたかったのだけれど、最低限の統制は取れているというところか今の出来事を報告しに行ったのか……報告されてたら絶対面倒が後でやってくるよなぁ。
「えっと……大丈夫なのはわかるけど、どういう状況?」
店員の女の人がミルクだけを持ってきた。
「んー……絡んできた人をいなしただけだけど?」
「いなすって……吹っ飛ばしてるじゃない!」
吹っ飛ばす……って程じゃないんだけど、格闘技術に対しての知識がない人からすれば吹っ飛ばしたように見えるのか。
知識があれば相手の体幹を崩しただけなのはわかるからね、やられた本人は知識があってもすぐには理解や把握が難しいのもこの手の技術ではあるけど……喧嘩慣れ程度の技量ならまだ呻いているあの男みたいなことになるだけで。
「実力はわかったわ、でもちょっとまずいかもね」
「まずい?」
「今痛がって立ち上がれないあの人ね、この辺のチンピラ連中をまとめ上げてる組織の幹部なのよ」
あー成程、だから追跡してきてた男たちが介抱せずにそそくさと目立たない場所に移動したわけだ。
今あの男の近くにいるのは見た目ガラの悪い人間で、恐らくは部下なんだろう。
「幹部が一撃で負けたから面子的にってこと?」
「そう。数で来るかはわからないけれど……」
「その言い淀みからしてボスは強いってことかな」
「噂程度だけどね、噂。どうにもどこかの商人が組織してるって話もあるのよ」
成程成程……チンピラ連中よりも厄介なパターンと遭遇しちゃったわけだ。
この街、治安が悪いって言っても程があるでしょうよ……踏み込んだのはイネちゃんとは言え流石にこれは治安組織がまともに仕事をしていないレベルにしか思えない。
単純に薄給な上に人が少ないって場合なら多少理解はできるけれど、これ街に来てからの出来事や門番の人の『面倒』の内容を考えると……あの定型文に思えた言葉の本当の意味は治安が悪いから巻き込まれるなよとも捉えることが出来る。
火のない所に煙は立たないとはよく言ったもので、この人の噂ってのも尾ひれとかついていたとしても完全に否定しきれない程度には可能性として考えた方がいいか……それに本当に商人が関わっているのであれば流石に宿を鉄火場にすることはしないだろうし、夜中に暗殺者が送られてくるのを警戒するだけでいいか。
「まぁ……やっちゃったことを考えても仕方ないし、今のやり取りだけなら喧嘩の範疇で捉えてくれればいいかなと思っておきますよ、あちらから売り出した喧嘩だったわけですし」
何より組織抗争に発展する恐れがある状況を収める方に尽力してくれるかもしれないからね、流れ者の傭兵を相手に血眼になるがあまり同業他社的な組織に足元掬われるようなことはしない……はず。
「その理屈が通用すればいいんだけど……まぁ、あの人たちも傭兵相手にそこまで執着しないと思うけどね」
「その根拠は?」
「根拠っていうか、傭兵って職人たちと仲がいいから下手なことしたらこの街にいる恩恵を結構止められちゃうわけね。実際職人の工房を無理して買いあげようとした商人が傭兵に色々調べ上げられてこの街のギルドだけじゃなく、他の街のギルドにまで情報共有しちゃったものだから……」
「以前に痛い目を見た商人がいるってことですね」
そうやって抑止力的にバランスが取れてるわけだ。
商人側もカウンターとして商品を卸さないってしても別の商人を頼られる可能性は十分あるし、商品の仕入れに関しては職人の技術に従属していることがこの世界だと珍しくはないわけでかなり商人側に不利なバランスに感じるけど……そういった点での不確定要素は十分あるし、店員さんも曖昧ながら感じている部分でもあるからこその心配だったんだろうね。
とはいえ今すぐ反撃してこないだろうことはあの男とその取り巻きの動きを見る限りほぼ確実なので、イネちゃんは店員さんにこう告げた。
「ところで、お料理お願いできます?あれから代金取れなさそうなら出すんで」
そういったところでイネちゃんのお腹の虫もそうだそうだと訴えるように鳴る。
その音を聞いた店員さんは噴き出すように笑い。
「そうね、とりあえず大丈夫そうだし持ってくるわね」
ようやく、この街で初めての食事にありつけることが出来そうなのであった……いや本当夕食に関しては事故みたいなものでお預けだったからね、うん。
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