第9話 神の創りたもうた最高傑作

 桜の花びらの唇が請うた。


「これを外すので、ご覧いただきたいのです。できればその、二人で」

「お待ちください」


 ヒューバートが割って入る。


「そのようなことは許されないと閣下もお分かりでしょう。どうしてもと仰るなら私にも同席させて下さい」

「オルドリッチ卿の承諾は得ています。それにもちろん、密室で二人などとは考えていません。あちらを見て下さい」


 オブライエン公爵が手で示した方向に、レースのカーテンが揺れていた。洗濯物を干すように棒にかけられているので、布の向こうが透けて、白みがかって見える。ごく簡易的な仕切りであった。


「カーテンの向こうで、二人になりたいのです。私が何か不埒なことをしようものなら、貴方がたにすぐ分かるようになっています」


 説明を受け、ヒューバートが謝罪する。それをかたい顔付きで受けると、オブライエン公爵がソフィーを見た。部屋中の視線が集中する。この瞬間、公爵だけでなくジェラードも、ヒューバートも、恐らくは控えている使用人たちも、ソフィーを見ていた。


「もちろん、貴女次第です。強制したくはないので、お嫌なら、どうか遠慮なく仰ってください」


 桜色の唇が一瞬引き結ばれ、気が付いたように微笑みの形を作った。白い頬に強張りを見つけ、ソフィーは少し苦しいような心地がした。


「いいえ、拝見しますわ」


 ソフィーがヒューバートの腕からそっと手を引くと、意図を察したオブライエン公爵が手を伸べた。黒い掌に手を重ねる。兄を振り向く気にはなれなかった。明るいブルーの目を見たが最後、やめる、という言葉が口をついて出てきそうだった。


 二人連れ立ってレースのカーテンの向こうに行く。ジェラードとヒューバートからは、向き合う男女の人影が見えていることだろう。二人の横には窓があった。ソフィーは、硝子を叩く雨音が先刻より弱まっている気がした。


「外します」


 そう前置きして、オブライエン公爵はゆっくりと素顔を━━目を、露わにした。


 瞬間、まるで奇跡のようなタイミングで、窓から光が差した。閉め切られた白いレースのカーテン越しにも光が差し込んでくる。


 公爵の全身が照らされる。眼前の美しい光景に、ソフィーは絶句して立ち尽くした。際立って麗しい人が、光を受けたために神々しいほどである。これほど美しい人は、絵画にも物語にも、神話にさえも、いないと思われた。もしこの世界に神がいたなら、こうして青年に育つ前に手中に収めようと躍起になったろう。


「フロレンス嬢……?」


 ソフィーの耳は今や飾りと成り果てた。公爵の戸惑いの声は拾い損ね、足だけが動き、一歩前へと踏み出して目が貪るように観察するのを助けた。


 隠されていた目は、一体に淡い色をしていた。虹彩の色素があまりに薄いので掴みどころがなく、何色ともいい難いほどである。強いていうのなら、微かな赤みを感ぜられる限りなく淡い青といったところか。およそ色素というものが感じられない。だが、その虹彩の中央に位置する瞳は暗い赤に見えた。瞳の赤さが淡い虹彩の見え方に影響しているのかもしれない、と仮定を立ててみる。


 漸く明らかになった目の美しさをある程度堪能した後、次にソフィーが目を向けたのはオブライエン公爵の美貌そのものである。


 高貴さが隠しきれない顔付きは生来のものに思われた。引き締まった輪郭には甘えというものがまるでなく、秀麗な額の下には優れた頭脳が収まっているというのが一目で分かるほどである。すっと鼻筋が通っている様は、生物のそれというより彫刻のそれというべき完璧さであった。あまりに怜悧に整っているため、唇が桜の花びらの色をしているのが妙に印象的である。その薄い肉の色が、この異様なまでに美しい男を唯一人間たらしめていた。


「こんなに……」


 囁き声ではっとした時、ソフィーの手は今にも公爵の腕にかかりそうになっていた。


「まじまじとご覧になる方は、珍しいです」

「あ……失礼いたしました」


 謝罪は口先だけのことで、ソフィーの栗色の目は、不思議な魅力を持つオブライエン公爵の目に釘付けだった。魅入られたように目が離せないのである。元の位置へ下がることもできなかった。


 公爵の虹彩の模様は輝きのもやのように見えた。その中央に赤い瞳がしているので、まるで目の中に、光を放つ深紅のルビーが在るかのようである。血の色の目など、妄言でしかない。ソフィーはその粗野な表現に憤りすらおぼえた。


「カーテンを」


 オブライエン公爵が短く命じる。厚手のカーテンが閉められ、眩し過ぎる光は失せた。今更になって正気を取り戻し、ソフィーの頬は火照ほてった。


「も、申し訳ございません」

「いや、新鮮です。どうぞ、その、ご覧になってください」

「いえそんな……。不躾に見つめてしまってすみません」


 慌てて手を引く。だが、公爵の顔には不快な様子が一つもなかった。


「貴女にだったら、いくら見られても構いません」


 乳のように白い頬に赤みが差す。淡い桜色の唇が笑みを形作った。目元もまた笑みのため細められ、目の印象が薄らいだ。虹彩が美しすぎるために瞼の印象が薄らいでいたことにソフィーは気が付いた。オブライエン公爵は、瞼を縁取る睫毛までも、雪のように白い。


 アルビノ。ソフィーは唐突にその単語を思い出した。


 何故、今の今まで忘れていたのだろうか。アルビノのヒトの虹彩に、血の色という印象がなかったからなのか。だから白髪に血の色の目と聞いても思い出すことができなかったのか。そこまで考えて、結論付けるべきでないとソフィーは思い直した。遺伝子の分野への知識も理解も、乏しい自覚はある。


「貴女にもっと早くお会いできたら良かった」


 万感の思い込もる囁きで、ソフィーは我に返った。返ったは良いが返答に詰まって後ずさる。


「あ……その」


 オブライエン公爵が微苦笑した。


「いや……婚約のことは、その、もちろん存じているのですが。その節は我が儘を言ってすみません。でもそうではなくて……」


 寂しい眼差しがソフィーを捉えた。


「救われたろうと思うのです」


 哀切な声だった。


 この可哀想な男を抱き締めてやりたい。ソフィーは痛切にそう思った。広いのに寂しい背中を、あたたかくなるまでさすってやりたかった。


 だが、触れることは許されないことも分かっていた。一瞬でジェラードとヒューバートが飛んでくるのが目に見えている。それが今、どうしようもなくもどかしい。


 同時にソフィーはこうも思った。この美しい人に自分はまるで釣り合わない、と。

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望郷のプエッラ〜ある伯爵令嬢の憂鬱〜 @FuchiseA

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