第8話 変貌する公爵閣下

 翌日、ジェラードとソフィー、そしてヒューバートの三人がオブライエン公爵家へ向かった。そして早朝から降り出した雨が弱まった頃、折よく公爵家に到着した。小雨の中、馬車を降りて、真新しい傘に守られながら邸へと入る。


「足元の悪い中、良く来て下さいました」


 明るい声が、オルドリッチ伯爵家の三人を出迎えた。三人ともが驚く。声の主は、オブライエン公爵その人だった。


「濡れませんでしたか?」

「ええ、お陰様で」


 ジェラードが何とか微笑みらしきものを浮かべる。だが、会話に集中できていないのが隣にいるソフィーには分かった。それもその筈だ。オブライエン公爵は、黒い眼鏡こそかけていたが、今日はマントを脱ぎ捨てていた。真白な髪が露わになっている。まるで新雪のように穢れなき色だ。


「ご子息ですか」

「ええ。ヒューバート、ご挨拶を」


 ソフィーは兄とオブライエン公爵が挨拶を交わすのをぼんやりと聞いていた。公爵は存外にはきはき話す。しかし、集中したいという思いと裏腹にどうにも気が逸れた。時折、公爵の黒い眼鏡がソフィーを向くためである。


「お久しぶりです。オルドリッチ伯爵令嬢」


 とうとうオブライエン公爵から声がかかり、ソフィーは反射的に微笑みを浮かべた。


「お久しぶりです。オブライエン公爵閣下」


 その瞬間、オブライエン公爵の唇がふっと緩んだ。


「お会いできて嬉しいです。今日も素敵ですね」


 一瞬、確かに自分が硬直したのが分かった。それくらい思いがけない言葉であり、公爵にあまりにもてらいというものがなかったためでもある。さらりと人を褒められる人物だとは想定外だった。ありがとうと言葉を返すも、上の空に響いたようでソフィーは気が気でなかった。


「喉が渇いていませんか?」

「ええ、少し」

「ではお茶にしましょう。今日はケーキもご用意しました。貴女の口に合うと良いのですが」

「ケーキですか?」

「はい。その、甘いものがお好きなのではと思って」


 公爵の乳のように白い頬に赤みが差す。分かりやすい羞恥の色に、我が目を疑ったソフィーは隣にいるヒューバートを見上げた。だが兄もまた驚きを示していた。見間違いでないことを確信する。


「お気遣いいただきありがとうございます」

「いや、そんな……前回は大したもてなしもできず……」

「そんな風には思いませんでしたけれど」


 歓迎はされていなかったが、礼を欠いたものではなかったと記憶している。正直な感想で世辞ではないと伝わったのか、公爵はほっとしたようだった。


「では、今日はもっと満足していただけると思います」


 ごく自然に隣に来ると、オブライエン公爵が肘を曲げる。それは見慣れたエスコートの姿勢で、ソフィーは流れるように腕を組んだ。公爵の腕は驚くほどぶれなかった。連れ立って歩き始めてから、隣にいたヒューバートにエスコートを頼むべきだったとようやく思い至る。オルドリッチ伯爵家の姿勢としては、この縁談はなかったことにしたいのだ。


「貴女は今日も嫌な顔をなさいませんね」

「それは……御髪のことを仰ってるのでしょうか?」

「はい。この通り白髪ですから」


 公爵が首を傾ける。その拍子に髪が揺れ、艶めいた。単に白髪といってしまうには、明らかに若すぎる髪である。白髪に含まれる老人のニュアンスがそぐわない。


「先日拝見しましたもの」

「あのときもすぐに手を振って下さいましたね」


 桜の花びらの唇が綻んだ。


「そういえば振り返さずに隠れてしまいすみませんでした。あまり驚いたものですから」

「驚かれただけだったのですね。安心いたしましたわ……。不敬だったかと心配しておりましたの」

「不敬だなんてまさか。次は必ず振り返しますよ」


 取り敢えず笑ってみせながら、次があるかしらとソフィーは少し悩んだ。ジェラードもヒューバートも良い顔をしないのは明白である。


「寧ろ、次は私から手を振りましょう」


 公爵が思い付いたように言った。


「閣下がですか?」

「はい」


 機嫌良く答えた公爵は、ここですと言って一つのドアの前で立ち止まった。先日とはまた違う部屋である。通されたそこには、目にも楽しい色とりどりの菓子が用意されていた。とてもこの人数で消費できる量ではない。


 ソフィーは瞠目し、公爵を見上げた。


「貴女が何を好むか分からなかったので」


 公爵がはにかむ。


「嬉しいですけれど、きっと余らせてしまいますわね」

「もし気に入ったなら持ち帰って下さい。貴女のために腕を奮ったそうなので、皿が空になる方が喜びます」


 そこからのオブライエン公爵の振る舞いは完璧だった。とても引き篭もっていた人物とは信じられないほどに。外部との関わりを断っていたのが嘘のように、朗らかに話し、笑い、また耳を傾け、笑わせた。ソフィーは自分の中の警戒心が緩んでいくのを感じ、少し恐ろしくなったほどだった。


「雨が止みましたね」


 不意に公爵が言い、オルドリッチ伯爵家の三人は漸く雨音が止んでいることに気がついた。窓の外の陽光で、レースのカーテンが白く光って見える。雨上がりの空はより明るくなりやすい。公爵がすっくと立ち上がった。


「良ければ庭園を案内させて下さい」

「ええ是非」


 ジェラードが応じる。ソフィーはすぐに隣のヒューバートを見た。青い目に見つめ返され安堵する。さっと立ち上がった兄は妹の意を汲み、今度こそエスコートに名乗りをあげた。


「楽しみだね」

「ええ」


 ヒューバートのエスコートを受け、ソフィーはオブライエン公爵家別邸の庭園を歩いた。庭園は左右対称の整備された美しい場所で、じっくり見ていると庭師の真面目な仕事ぶりが窺えた。


「裏の庭園も案内させて下さい」

「裏ですか?」


 思わず聞き返したソフィーに公爵が微笑する。顔がハットで翳り、少し青く見えるほどで、色の白いのが良く分かった。


「此処は湖畔に建っているんです。裏は、この表の庭園とは趣が違って少し野生的なのですが、花々の向こうに湖が見えて綺麗ですよ」


 案内されるまま裏の庭園へ足を踏み入れ、ソフィーは思わず笑みを溢した。


 確かに綺麗な場所だ。だが、まず思ったのは可愛い場所だということだった。オブライエン公爵の談によれば野生的だが、ソフィーにいわせれば素朴である。色とりどりの花々が咲き乱れているが、権威のための花ではなくそこに生きている花である。気取っていないこの庭園には、妖精が潜んでいるといわれても頷けるだろう。花々の向こうに木々に挟まれて湖が見え、湖面がきらめいている様は、なるほど綺麗な景色といえた。


「素敵」

「良かった」


 ソフィーが思わず漏らした呟きを、公爵もまた呟きで拾った。黒い眼鏡の向こうから確かな視線を感じる。


「本当は湖の傍まで案内したいのですが、足元が悪いので今日はやめておきましょう」


 オブライエン公爵は確かにジェラードと話しているのに、その言葉はソフィーに向けられているように感じられた。自意識過剰だと自分に言い聞かせ、ソフィーはヒューバートにねだって青い花の傍へと行った。公爵から少し距離を取るために。


「困ったことになったな」


 ヒューバートはごく低い声で言った。


「もっと嫌な方なら良かったんだが」

「まだ分からないわよ」

「それはそうだが」


 しっとりと濡れた花びらをソフィーは見つめた。雨粒がひかりにきらめいている。オルドリッチ伯爵家の庭園も、公爵にいわせれば野生的な類で、それこそがソフィーの好みでもあった。


「明日、クリスと会うんだが、ソフィーも来ないか」

「行くわ」


 ソフィーは一も二もなく応じた。ヒューバートが少し意外そうな顔をする。


「久しぶりに会いたいもの」

「閣下がいらっしゃるよ」


 冷静な兄に助けられて、ソフィーは動揺を隠すことに成功した。近付いてきたオブライエン公爵を振り向いて微笑み、花々と湖について賛辞を述べることで会話を庭園に絞る。だが、公爵が季節ごとに変わる花の美しさに言及する内に、空がまた曇り、一行は再び邸の中へ向かった。向かう途中に雨が降り始め、使用人が用意していた傘をさして貴族四人を雨から守った。


 応接間へ戻ってすぐ、オブライエン公爵がソフィーを見た。


「フロレンス嬢。お願いが」


 かたい声であった。緊張が伝染るのを感じるほどに。思わず手に力が篭る。エスコート相手に腕を強く掴まれ、ヒューバートの肩にも力が入った。ソフィーの視線の先で、黒い手袋を嵌めた長い指が、黒い眼鏡を指す。

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