第7話 夢見た少女はいないと知れ

 調査を始めて三日目の夜のこと。ソフィーの部屋にノックの音が響いた。


「今、入っても構わない?」


 兄であるヒューバートの声だった。ソフィーとイザベラは慌ててノート類をまとめ、ベッドのシーツに隠した。借り物である本や新聞記事の写しをクローゼットに積みながら答える。


「少し待って下さいな」


 民話の本の上に、カムフラージュ用の無関係な本を重ねていき、目を通した一冊を開いて机の上に置いた。誤魔化されてくれると良いのだが。イザベラに頷きかける。さっと髪の乱れを整えると、イザベラがドアに手をかけた。


「どうぞ」


 開かれたドアから入室したヒューバートが、待ち受けていたソフィーに笑いかけてすぐ、ソフィーの後ろに視線をやった。机を見ているのだ。


「お兄様、何か御用なの?」

「僕の妹があまりに引きこもっているので心配でね」

「あら、お望み通りでしょ」


 明るいブルーの目が、じっとソフィーを見つめた後に緩んだ。


「良かった。顔色は良いね」

「体調不良ではないもの」

「今はね。お前は寝食も忘れて本に夢中になるから」

「珍しいわね。昔話をしに来たの?」

「まさか。一体何にそんなにも夢中なのか、気になって来たのさ。イザベラは教えてくれなかったからね」


 ヒューバートがイザベラを横目で見る。家族ながら、ソフィーでさえこの視線を受けたくはないと思わされる冷ややかさだった。しかし緑の目は僅かな動揺も見せることなく、青い目を見つめ返すだけである。


 先に折れたのはヒューバートだった。


「君は本当にソフィーに忠実だね」

「ありがとうございます」

「はは、褒めたつもりはなかったんだが」


 爽やかに皮肉ると、ヒューバートはつかつかとソフィーの横を通り過ぎて机の前まで歩き、積まれた本を検分し始めた。イザベラが一瞬嫌な顔をする。ソフィーは苦笑いして六つ年上の兄の背中を眺めた。既に領地経営をしている背中が広く見える。


「読み耽るようなものかい? これ」

「正確には調べ物よ」

「調べ物ねえ」


 振り返ったヒューバートが目を細める。ソフィーは笑ってみせた。


「隠すようなことでもないけれど、態々人に話すようなことでもないのだもの」

「僕にも話したくないようなことなのかな」

「まあ、お兄様なら良いかしら」


 ソフィーは机の引き出しから一冊の本を取り出して積まれた本の上に置いた。ヒューバートの顔が分かりやすく引きる。


「何てものを読んでるんだ」

「何って」

「いや良い。その不埒な本の題名をお前の口から聞きたくない」

「そう言う割にはご存知みたいだけれど?」


 ぐっと黙り込んだ兄の顔は久しぶりに見るものだった。どうやら、図らずも図星をついたらしい。嬉しい誤算だった。


「この小説の内容で二、三気になることがあったから調べていたの。今は禁じられていることでも、昔には許されていたこともあるでしょう? たとえば」

「良い良い。もう止してくれ」

「そう?」


 ソフィーは大人しく本をしまった。ヒューバートはまだ嫌そうな顔をしている。妹に夢を見過ぎだ。


「あんな本何処で見つけてくるんだ」

「お兄様こそ何処で読んだの」


 ブルネットの兄妹はお互いに黙り込んだ。どちらも答えたくないのだ。ややあってソフィーが先に噴き出した。


「この話はやめにしましょう」

「そうだね」


 兄の少し青ざめたような顔がおかしい。


「明日はオルドリッチ公爵にお会いするだろう。根を詰めすぎないで早く寝なさい」

「そうね。そうするわ。おやすみなさい」

「ああ、おやすみ」


 ヒューバートが部屋を出ていく。ソフィーはドアに耳を寄せた。絨毯のせいで靴音が小さいが、規則的な足音が遠ざかるのが聞こえた。


「よろしかったんですか?」

「良くはないけれど、背に腹は代えられないわ。変な誤解を招くのは面倒だもの」

「別の誤解を招きそうな本でしたね」

「良ければ貸すわよ。発禁本になりそうだし」

「そんなに過激なんですか?」

「まあ子供の読み聞かせには向かないわね」


 件の本を差し出すと、戸惑いながらもイザベラは数ページ捲った。目を通す傍から整った顔が強張っていく。


「お嬢様が好まれるような小説とは思えません」

「昔読んだ本に少し似てるのよ。だから懐かしいのかもしれないわ」

「に、似てるって、どうしてこんな本を……」

「貴女も私を美化しすぎてるわね」


 ソフィーは固まっているイザベラから本を取り返し、さっさと机の奥へしまった。


「退屈している人ほど刺激を求めると思うわ。やるやらないは別として、お手軽に追体験できる小説は重宝されるのよ」

「お嬢様は退屈なさってるんですか?」

「近頃はそうでもないわ」

「そうですか」


 イザベラの頬は若干ながら赤みを帯びていた。


「貴女一体何処のページを読んだの?」

「えっ?」

「顔が少し赤いわ」


 ソフィーが近づくとイザベラは後ずさった。構うことなく更に一歩踏み込んで、上背のある相手を見つめる。整った顔が明らかな羞恥を示した。


「可愛いところがあるのね?」

「か、からかわないで下さい。それより調査をしましょう」

「いいえ、もう寝るわ。寝不足でお会いしたい相手ではないもの」


 おやすみの挨拶を言い合って、イザベラが部屋を後にする。その足音が遠ざかるのを確かめて、ソフィーはクローゼットの奥の隠し扉を開いた。中には黴臭くて誰も触りたがらないトランクがある。そこに調査資料の諸々をしまい込んで鍵をかけ、ベッドに潜り込んで目を閉じた。

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