第6話 『悪魔の少年』

「こんなに沢山借りてどうなさるんですか」


 机の上に積まれ、栞を挟まれた本を見て一人のメイドがぼやいた。ソフィーは読書専用の薄手の手袋をはめた。この世界の本のほとんどが、魔法で本棚と結び付けられて管理されている。本が自動的に整理されるという便利な魔法だ。図書館では必ず使われている。


 お陰でソフィーは借りた本を素手で触ることができない。


「もちろん、読むのよ」

「それはそうでしょうが……民話に神話に童話なんて、珍しいですわね」

「そうかしら?」


 図書館から借りた本を読み耽りながら答える。といってもカムフラージュ用のものだ。伯爵令嬢がオブライエン公爵について調査しているなどと知られて嬉しいことは何もない。都合の良いことに、メイドたちの目はお喋りのときの半分も輝きを持たなかった。


「小説は良くお読みになってますけれど、この類は幼い頃に粗方あらかた読んでしまわれたのでは?」

「ええ。懐かしくて読み返しているの」

「さようでしたか」


 メイドたちの誰一人として、踏み込んだ質問をしない。それもその筈で、彼女たちの関心ごとからは、ソフィーが今調べたい事項はもちろん、民話や神話も興味から外れているのだ。そうでなくとも、分厚い書籍はうんざりさせられるものだろうが。本を読み慣れたソフィーでさえ、うんざりするような悪文が散見するものがある。そういう文章は頭が混乱してしまう。


 だからこそノートにまとめる作業が必要だった。こればかりは、流石に見られると誤魔化しが効かない。


「暫く何かお願いすることはないと思うわ。下がってくれて大丈夫よ」


 メイド二人が部屋を出ていく中、イザベラが一人残った。一瞬、邪魔だという思いが過ぎる。それを慌てて打ち消す。最近になってやっと態度が軟化してきていた。このありがたい変化を逃したくはない。


「イザベラ?」


 退室を促すために呼びかけたのに、イザベラは返事をして用事を待つ顔をした。ソフィーは目線をドアへと向けた。より強く退室を促すために。


「お手伝いさせていただけませんか」


 参った、と咄嗟にソフィーは思った。ここまでの態度の軟化は、正直なところ求めていない。


「読むだけだから手伝いはいらないわ。一人で読みたいのよ」


 イザベラが微かに笑った。賢げに緑の目を細めて。


「辣腕で知られる宰相閣下が解決できなかった事件ですよ」


 調査の目的を見透かされ瞠目したソフィーに、イザベラが微笑む。


「鎌をかけたのね」


 溜め息が漏れた。大本命の資料は見られぬよう注意した筈なのに。茶会帰りに図書館へ一人で寄り、借りた資料は布に包んだままこの手で運び、すぐにしまいこんだのだ。


 どうして分かったのだろうか。ソフィーの疑問に先回りしてイザベラが答える。


「公爵閣下のことをお嫌いではないようでしたし……歴史をお調べになるなんて珍しいではありませんか。それもここ数年のこと、となりますと、随分限られますもの」


 先日、図書室に行くのに伴ったのは誰だったか。ソフィーは思い出した。


「ジョイスに聞いたのね」


 ソフィーはちょっと苦い気分になった。ジョイスは良い娘だが、人知れず何かを進めたい時に伴うべきではなかった。


「何より……お忘れですか? お嬢様。六年前の事件についてお話ししたのは私です」

「ああ……」


 自分への失望からソフィーは顔を歪めた。ジョイスに不満を持った分だけ苦い気分になる。


「お嬢様、一人よりは二人です。私も読み書きはできますから」

「いいえ、休んでいて良いのよ。今日は……いえ、いつも私に付きっきりでしょう」

「専属とはそういうことですわ。見合った働きをする必要がございます」

「心配しなくとも、もし公爵家に嫁ぐことになっても、貴女を巻き込んだりしないわ」


 理知的な緑の目が細められる。ソフィーは無意識に顎を引いた。


「だって貴女ここに慣れているでしょう」

「私が慣れている場所は、お嬢様のお傍です」


 揺るぎない明瞭な声だった。


「目的は関係ございません。お嬢様がお調べになりたいのであれば、私もお手伝いいたします」


 相手の揺るぎなさに、ソフィーの方が却って揺らぐ。だが、当時の新聞の写しが目に入り、冷静になった。イザベラに手伝わせるわけにはいかない。


「貴女がそんな風に言ってくれるのは嬉しいわ」

「お嬢様。どうか説得なさるのはおやめください」


 イザベラが新聞の写しを取り上げる。そして殺された伯爵夫妻の治める領地名を、即ちイザベラ自身の出身地を読み上げた。ウォルポート。ソフィーは自分の顔が歪んでいるのが分かった。頬のあたりに力が入っている。


「ウォルポート伯爵……懐かしい響きでございます」

「イザベラ、やめて」

「今更傷付きませんわ」

「嘘よ。お願いだから読まないで。出て行って」


 一瞬声が上擦った。イザベラが新聞の写しを机に戻す。その空いた手が、そっとソフィーの握り締めた手を包む。あたたかかった。体温の高い指が、固い拳を解していく。


「お気遣いありがとうございます、お嬢様。ですがどうかご心配なく」

「貴方のその言葉は信用に値しないわ」


 ソフィーは視界の端にイザベラの手首のリボンを捉えた。メイドたちは基本的にアクセサリー類を身に付けない。特に手は、結婚指輪以外は許されない。だがイザベラの手首には、いつも黒いリボンが巻かれている。


「平気です、お嬢様」


 ソフィーはイザベラを見つめた。


 イザベラは穏やかではあったが、引かなかった。落ち着かないときに出る、リボンを弄る癖も出ていない。ソフィーは深呼吸した。


「分かったわ。でも辛くなったらすぐ教えてちょうだい。無理をしていると分かったら、暫く休ませるよう言うから。良いわね」


 婉曲ながら釘を刺したつもりなのに、はい、と返った声が柔らかで、ソフィーは溜め息を飲み込んだ。これではどちらが主人か分からない。結局折れてしまった。イザベラの眼差しを受け止めきれず、目を逸らす。緑の目は確かに真っ直ぐなのにどこか危ういのだ。だからなのか、見つめられると逆らえなくなる。


「貴方の考え通りよ。何故オブライエン公爵閣下が事件をきっかけに姿を隠すようになったかを知りたいの」


 ソフィーは割り切ることにした。


「事件から何年も経ってることをふまえると、少し異常だわ。いくら犯人が捕まっていないとはいえ」

「襲撃者は白髪に血の色の目の少年だった筈です。……無理もないのではありませんか?」

「そこよ。まず、襲撃者は二人だった筈なの。この記事を読んでちょうだい」


 イザベラが記事に目を走らせ、読み上げる。


「茶髪に茶色の目をした二十代半ばの男と、白髪に血のような赤い目の悪魔の少年……本当ですね。男のことは記憶になかったです。詳細なのに。少年の話題ばかりだったせいでしょうか」

「茶髪の男なんて平凡だから話題性に欠けるのは分かるのよ。その上、少年が殺人を犯したって話なら娯楽として満点だもの、男の印象が薄れるのも頷けるわ。それに少年の身体的特徴がかなり特異だから……ほら『悪魔の少年』って散々書いてるわ。余計に茶髪の男は霞むわよね」

「だとしても……」


 記事を日付を追いながら読んでいき、イザベラが眉根を寄せる。


「この新聞は少年に拘りすぎのような気がします。少年のことばかりじゃないですか」

「他社のも読む? 比較すると面白いわよ」


 緑の目が記事を読み込んでいく。目の動きの速さにソフィーは舌を巻いた。イザベラは頭の回転が速い。


「こちらは……あまり少年に言及していないですね。捜査の状況を軽く載せているばかりで、あまり進展がないことだけは分かりますが」

「ええ。参考までに言っておくと、こっちの新聞社も似たようなものだったわ。わざわざ読むまでもないくらい」

「この二社は購読者の多くを貴族の方が占める新聞ですよね。貴族の方向けの新聞では少年にあまり言及していない、ということでしょうか」


 なかなか鋭い分析だった。ソフィーは頷いた。イザベラが続ける。


「ですが一般市民の多くが読む新聞は少年に拘っていますよね。おそらく、教養より娯楽に天秤を傾けているからでしょうが」

「そうよ。あの新聞社はセンセーショナルな報道を好むわ。当時の公爵閣下に飛び火することは織り込み済みだったでしょうし、むしろ狙っていたかもしれないわね」

「ですが公爵閣下については一言も書いてませんね。流石に堂々と公爵家を敵に回すような真似はしない、ということでしょうか」

「そんなところでしょうね。名誉毀損で訴えられることになるもの。市民の好奇心を煽りつつ決定的なことは書かない……上手いやり方だわ、全く」


 言いながらソフィーは市民向けの他の新聞を手に取った。記事を読み上げようとして、イザベラの表情が目に入る。整った顔が不快そうに歪んでいた。


「止しましょうか」

「いえ、どうか続けて下さい」

「一つ気になっていることがあるのよ。市民向けの新聞全てで共通していた言葉があるの」


 ソフィーは新聞の見出しを示した。


「どこの新聞社も執拗に『悪魔の少年』と書いていたわ。ちょっと変よね。死神でも怪物でも、他にも形容する言葉はあるのに『悪魔の少年』よ」

「はあ……それは単に、メモに書かれていたからなのでは?」

「それはまあ、そうだろうけど……変なメモじゃない?」


 残念ながらイザベラの理解はあまり得られなかったらしい。ソフィーは駄目で元々と一冊の古い民話集を差し出した。古いが傷みが少ないので、読者が少ないのが見て取れる分厚い本である。イザベラが栞を挟んだ箇所を開いた。


「神話やら伝承やら読んでみたけれど、白髪と赤い目に言及しているのはこの一冊しか見つけられなかったわ」

「白い髪に血の色をした目の悪魔……ですか」

「そう。今でこそ漠然と白髪と赤目に悪いイメージがあるけれど、事件前にそんな共通認識があったとは思えないのよ。司書にも確認を取ったから、少なくとも昔からのイメージではない筈。それに王都の人間は流行に興味はあっても地方の民話に興味はないわ。民話どころか宗教だってそう。礼拝に行く信者数も減少傾向にあるくらいだもの。この数年でこうも悪いイメージが広まった理由が分かったら……」


 イザベラ、と呼ぼうとして言葉に詰まった。緑の目が、何処か遠くを見ていた。指はリボンを弄っている。良くない兆候だ。息を吸って、ソフィーは笑みを浮かべた。


「少し疲れたわ。お茶を淹れてくれる?」

「はい。すぐご用意します」


 イザベラが退室する。ソフィーはそっと件の新聞記事をしまった。それから壁掛け時計に目を向けた。短針は六を、長針は十三を示していた。


 持っている物の中で最も気に入っているのは、やはりこの「天玻璃」の時計だ。ソフィーは満足からくる溜め息を吐いた。これまで与えられたあらゆる物をひっくるめても、これには及ばない。


 今このとき、文字盤は上から下に向かって、青が薄らいでいくグラデーションになっている。まるで空のように。そして一番下だけが、炎色のような橙だ。まるで日没直後のように。この橙もいずれは失せて、次第に文字盤全体が宵闇の色へ向かうのを、ソフィーは良く知っていた。文字盤に使われている玻璃が、特別なのだ。


 「天玻璃」と呼ばれているこの玻璃に、かつて島々が一つの大陸だった頃に、天の色が絶えず変化していたことを忘れさせないために存在しているという逸話があったのを、ふとソフィーは思い出した。


「お待たせいたしました」


 戻ってきたイザベラが紅茶を淹れる。良い香りが辺りに広がった。


「ありがとう、イザベラ」


 微笑みを返したイザベラが、ソフィーの視線の移ろいに気付いて先を追い、微笑った。


「またご覧になっていたんですね」

「ええ、ついね」


 ソフィーは素直に認めた。かつての空の色を思い出させてくれる唯一の物。愛さずにはいられるものか。


 厚かましき白い空を意識しないために、ソフィーの部屋の窓はレースのカーテンを常に閉めてあるのだ。

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