第4話 寝た子を起こした可能性
オブライエン公爵と見合いする予定だった貴族家がする前に断られたと胸を撫で下ろしている。そんな話がオルドリッチ伯爵邸の空気をそこはかとなく重くしていた。婚約の断りの手紙を出して一週間になるのに、明確な返事がないのも影を落としていた。時間稼ぎのような手紙しかまだ届いていないのだ。
たった今、朝の支度をしているソフィーの部屋も暗い空気が立ち込めている。明るいのは窓の外だけだ。ジョイスまでも、普段の明るさが少し損なわれている。
「まあまだ決まったわけじゃございませんし」
「そうなのよ。流石に自意識過剰よ、お父様たち」
「反対にお嬢様はご自覚が不足しておいでですよ」
少し傷付くくらいきつい言い方だった。ソフィーは驚いてイザベラを見た。だが、イザベラは見つめ返してくるばかりで、撤回しようという様子がない。
「自覚っていっても、私、普通にお話ししただけよ……お顔だって拝見していないわ」
「本当にそうですか?」
問い詰めるような厳しい声色だった。
「お嬢様は興味をお持ちのものに関しては驚くほど覚えておいでですが、興味のないものに関しては忘れてしまわれるでしょう。良く思い出してみてください。本当に、思い当たることはございませんか?」
「イザベラったら。お嬢様を責めたって仕方ないじゃないの」
「いいえ、理由が判明すれば解決できることがあるかもしれません」
イザベラは利発さが隠せぬ目をした、赤毛の美人だ。だからこそ真っ直ぐな目をすると迫力があった。まるで睨まれているようだと思いながら俯く。怖い、とは思うが、ソフィーがイザベラの忠告を活かせなかったのもまた事実だ。
「公爵様はどんな方だったんですか?」
「どんな……背の高い、色の白い方よ。体格は堂々としてらしたから、鍛えてらっしゃるのかも……どうして素顔を知りもしないで疎まれるのか分からないくらいには、ご立派に見えたわ」
「背の高い方なんですね。目立たれることでしょう」
「そうよ、遠目に拝見したって」
はっとソフィーは手を口に当てた。もう縁のない相手だと油断していた自分に気が付く。
「私、お顔を拝見したわ」
途端、メイドたちがざわめいた。
「かなり遠目だったけれど、素顔でいらしたの。それでその、手を振ったのよ。会釈しても見えなさそうで、無視したと思われても困るし」
ソフィーは誤魔化したいあまり早口で説明した。メイドたちがきっとそれだと興奮し出す。だがイザベラだけは、流されなかった。
「反射でしょう、お嬢様。思わずそうなさったんでしょう」
「そんなこと」
「いいえ理由はこの際良いのです。それより朝食の際に皆様にお伝えください」
「こ、こんなことで私に拘るとは思えないわ。お父様だってお笑いになるわよ」
緑の目が今度こそ間違いなく、ぎろりとソフィーを睨んだ。ジョイスが慌ててイザベラを小突く。きつい眼差しが強引に和らげられた。
「お嬢様は……たとえるなら、雛鳥の卵の殻を突いて覗き込まれたようなものです」
「可哀想に。雛は死んでしまったでしょうね」
何となく言わんとするところは分かる気もするが、混ぜっ返す。イザベラはソフィーの返事で微かに顔を
「初めに見たものに付いて行く可能性があるのでは?」
イザベラの不敬な言葉選びで、ソフィーは少しばかり不安になった。きつい表現で自覚を促さなければならないほど、自分は無自覚なのだろうか。
ソフィーの報告は予想通りジェラードによって一笑に付された。流石に
「お兄様?」
ナイフとフォークを置くと、ヒューバートが真っ直ぐにジェラードを見た。
「父上、クリスとソフィーの婚約を発表しましょう」
「ヒューバート、まさかオブライエン公爵閣下がそんな……方だと思っているのかい」
「そもそも見合いまで行く前に振られっぱなしの方ですよ、お相手は。漸く見合いに漕ぎ着けても失神されるやら不快感を示されるやら。女性の好意に耐性をお持ちでないんです。いや、ご自宅での教育しか受けてらっしゃらないのですから、他人からの親切にさえあまり縁がおありではないでしょうね。それなら余計にソフィーに絞った方が楽でしょう」
「お前は少し焦り過ぎだよ」
「いいえ父上が呑気なんです」
手厳しい、と評するにはあまりに失礼な一言だった。空気が張り詰める。だが、ヒューバートは引くどころか却ってたたみかけた。
「返事が遅れているのは不吉ですよ。はいそうですかで済むものを捏ねくり回しておいでなんですから一体どう来ることやら。ダーレントン伯爵家に圧力をかけられているかもしれません。そうしたら伯爵家だってひとたまりもないでしょう。父上は今こそ当たり障りのない人脈を生かす時じゃないですか、婚約発表はしないまでも、婚約が内定していると吹聴してください。ダーレントン伯爵の承諾は得ています」
「う、うんまあそれくらいなら角も立たんだろう」
慇懃無礼を地で行くヒューバートの
「母上は今日もお茶会でしたね。皆さんにお伝えしてください。男なんぞよりずっと情報に敏感に反応してくださるでしょう……」
止まるところを知らなかったヒューバートの舌鋒が、にわかに尻すぼみになる。明るいブルーの目が、執事が持ってきた一通の手紙を凝視していた。ジェラードが手紙を受け取り開封する。深い栗色の目が文章を追って動く。
「ああ」
ジェラードが微かな息を漏らした。
「ヒューバート、私が呑気だったようだ」
求められるまでもなくジェラードが手紙をヒューバートに寄越した。ソフィーは横から手紙を覗き込んだ。途中まで目を通して、耐え難くなって思わず感想が漏れる。
「あらまあ情熱的」
「言ってる場合かい」
ヒューバートが噛み付いた。
「何だこの……浮ついた……決意など知らん……」
手紙には、婚約を決めかねるなどと言って後悔している、だの、ソフィーさえいれば良いというのは嘘偽りのない気持ちだ、だの、だから持参金は必要ない、だの、何不自由ない生活を約束する、だの、今後は社交界にも顔を出す、だのと書かれていた。初めて自分に微笑みかけてくれた彼女は、に続く辺りが盛り上がりの最高潮だろう。ソフィーは途中まで読んで顔を背けた。気恥ずかしくて直視できない。何とも言い難いむず痒さがある。何を参考に書いたのだろうか。
ヒューバートがぶつぶつ言う。
「深夜に書いたのか……? まさか酔っていたのか……?」
ソフィーは意を決して最後の行にだけ目を向けた。ダーレントン伯爵家との婚約が内定の段階で申し訳ないが、諦めきれないので機会が欲しい、と締め括られている。やはり率直なのはオブライエン公爵である。ソフィーは笑いを噛み殺した。公爵家の権力をちらつかせるなり割りの良い取引を匂わすなり、いっそ知らぬふりをしてソフィーに近付くなり、もっと他にもやり方があったろうに。とはいえ圧力にかけては、この一通で効果
「機会って何かしら」
「何だと思う?」
「クリスとの縁談はひとまず止めておけ、こちらとの縁談を検討しろ、みたいなことを婉曲に仰ってるんじゃない?」
「デートとでも言われたらどうしようかと思ったよ。どうしてそういう冷静さを肝心な時に失うかなソフィーは……お前が冷淡ならこんなことにはならなかったんだよ」
背もたれにずるずると凭れ込んで、ヒューバートがむっつりと黙り込んだ。ジェラードとローズも困りきった顔であれこれ話している。誰一人としてまともに朝食を続けようとしないので、ソフィーは一人くらい完食しなくてはとナイフとフォークを握った。お仕えする伯爵家の令嬢の食が細い、と心配するコックのためにも、食品の廃棄を防ぐためにも。
青息吐息で会話のない食堂で、たった一人ソフィーだけが食事を続けた。
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