第3話 婚約の打診
見合いから三日後のこと。一通の手紙にオルドリッチ伯爵家は震え上がった。
「ソフィー!」
何も知らずに部屋で本を読み
「な、何なのお兄様苦しい……」
「可哀想なソフィー」
「えっ本当に何なの……」
可哀想に可哀想にと言うヒューバートの腕がきつくソフィーを抱き締める。抱き締め返して背中をさすってやっても、力が緩むことはなかった。諦めてされるがまま過ごす。
「すまない……
暫くしてヒューバートはそう言って、漸く腕の力を緩めた。やっと見ることができた顔に、ソフィーは思わず息を呑んだ。六つ年上だからか、最近は大人びた顔ばかり見せてきた兄の目が潤んでいた。母親譲りの明るいブルーの虹彩を、薄らと涙の膜が覆っているのだ。ただごとではない。
「お兄様ったら一体どうしたの?」
「お兄様はね、ソフィー。お前が哀れなので辛いんだよ」
「あ、哀れ……」
「だけど……少し足掻いてみるよ」
そう言い残してヒューバートがソフィーの部屋を出て行く。まるで話が見えなかった。嵐のようでしたね、とジョイスがマイペースにソフィーの乱れた衣服を整える。
「私、ちょっと行ってくるわ」
ヒューバートが、魔法こそ使えないが優秀で、もうオルドリッチは安泰だと言われるような人物だとソフィーは知っている。家族だからこそ、頼りになるのを実感している。そんな人間がソフィーを哀れんで取り乱すという事態は、何とも不吉な予感がした。
階下に向かうにつれ怒鳴り声が聞こえ出した。
「お前が行って何になるというんだ!」
「少なくとも父上よりはましでしょう!」
「何だと! 事態を悪化させることが分からんのか!」
「これ以上悪化する筈がないじゃないですか! 僕はあの子の不幸を黙って見ていられない! そんな冷酷になれるものか!」
平和で知られるオルドリッチの、気弱で知られる伯爵と冷静で知られるその息子が怒鳴り合っていた。ソフィーは黙って半開きのままのドアの影に身を潜め、怒鳴り声に耳を傾けた。何の事態も把握せず行くよりは、少しでも情報があった方が良い。
「冷酷だと!」
ジェラードが怒りで顔を赤くして怒鳴り返す。ソフィーは飛沫が見えるような気がして顔を顰めた。
「あの公爵家からの婚約の打診を! うち程度がどう断ると言うんだ!」
決定的な言葉だった。これで問題の殆どをソフィーも把握することができた。
誤魔化しにしろ何にしろ、気弱なジェラードはばれることを恐れて不正をしない男だ。はったりなど夢のまた夢。高い志でなく気弱ゆえに健全な経営を可能にした、突き抜けた臆病者である。予想される娘の苦労と公爵家から買う不興など、天秤にかけるまでもないのだ。唯々諾々と公爵家との婚約を結ぶのは想像に難くない。
ソフィーは開きっぱなしのドアの間から、細心の注意を払って部屋に入った。興奮しているジェラードとヒューバートは気付かないで怒鳴りあっている。母親であるローズだけが気付いたので、ソフィーは人差し指を唇に押し当ててみせた。
「私の不幸って何ですか?」
少し張っただけで、ソフィーの声は良く通った。争っていた父子が言葉を失い、しん、と沈黙が広がる。
「ソ、ソフィー……来ていたのかい」
怒りで真っ赤になっていたジェラードの顔色が急激に
「上の廊下まで響いておりましたもの。ドアだって半開きで、てっきり招かれていたのかと思いましたわ」
いつになくな
「そ、そうか……うるさくしてすまなかったね。部屋に━━」
「戻らない方が良いですわよね。私の問題でもありますもの、説明のためにお父様の貴重なお時間をいただくわけにはいきませんわ」
あくまでにこやかにジェラードに近付くと、ソフィーは手を差し出した。
「私への婚約の打診ってどんな文面でしたの?」
「そ、それは」
「顔も見ずに婚約の前時代ならいざ知らず、会ったなら顔くらいはちゃんと知れる筈が、この現代でそうはならなかったのだもの。筆跡や文章だけでも拝見したいわ」
にっこりと笑ってジェラードを見つめる。ややあって差し出された手紙をソフィーは受け取った。さっさと目を通していく。是非婚約を結びたいというのが
「うちってそんなに危ないの」
ソフィーは悲劇的に声を詰まらせた。
「危ない?」
「持参金を払えないとお考えなのね、オブライエン公爵閣下は。私、領地は潤っているし治安の良さは指折りと……思い込みだったのね、無知な自分が恥ずかしいわ」
ジェラードの表情が能面のようになった。ソフィーが、我が父ながらぞっとするほどに。ざわめく心を宥める。
今世の父が、数字は得意だが細かいニュアンスを読み解くのに時間を要するのを、ソフィーは知っていた。持参金が不要だと
「オルドリッチが珍しく欲をかいたと噂されるかもしれないけれど、本当は領地を守るためだもの、仕方のないことだわ」
目立たぬようやってきた伯爵家が、方向転換したと判断されればさぞ面倒だろう。ジェラードは責任から逃れたいくせに、責任から逃れたことの責任を感じる方が恐ろしいので貴族などをやっているような男だ。敵意を持たれないように立ち回ってきたのを、ソフィーは知っていた。
「いいや、持参金は心配しなくて良い。そこまで落ちぶれてはいない」
そうでしょうとも、と口元まで出かかったのを飲み込んだ。そんなことはソフィーだって知っている。
臆病だが娘に甘いところのあるジェラードは、書斎に入り浸る娘を叱らない。最近ヒューバートに領地の一部を任せたので、経営で忙しくしている兄の代わりに娘が書類整理を手伝うのを止めもしない。おかげでソフィーは、オルドリッチ伯爵領について多少は把握している。
だからこそ、良く分からない人物と唯々諾々と結婚するつもりはなかった。ソフィーだって、夫を選べるならば選びたいくらいの欲はある。
「でもお父様……」
心配そうな声を出すソフィーにジェラードが頷きかける。ローズだけは茶番に忍び笑いしたが、指摘することはしなかった。
「公爵家と話し合いたいこともある。だが、是が非にでもと言われているからな……。時間稼ぎしたいが、どうしたものか」
「父上。僕はダーレントン伯爵に会って参ります」
それまで静観していたヒューバートが口を開いた。
「きっと協力してくださる筈ですよ。それに僕はクリスと親しいので目立たないでしょう。急げば明日の朝には戻れる筈です。ピアソンを借りますよ」
「クリスを巻き込むの?」
素っ頓狂な声でソフィーは尋ねた。想定外の展開である。
「元々そういう話もあったんだから嘘でもない。まあ駄目で元々だけど交渉してくるよ」
「私とクリスの縁談なんて知らないわ」
「だってソフィーはクリスを夫になんて見られないだろ」
「お互い様よ。何年の付き合いだと思ってるの」
ヒューバートが肩をすくめる。
「ソフィーの気持ちが変わったら儲けものだろ」
「でも私はさて置きクリスに
「クリスは男だ。適齢期も何もないし、令嬢の瑕疵よりは良い。自分の心配をした方が良いよ、ソフィー。それに向こうが決めることだから心配したって仕方がない」
「でも、実現したって流石にあからさまじゃない?」
「それでも、あの公爵家から逃がすためなら許されるよ」
ローズ譲りの明るいブルーの目からすっと温度が消える。一瞬で優しげな面差しが冷ややかになった。
「嫁げば苦労するのが目に見えている。現公爵は唯一の直系なんだ。妻となる人には様々な輩が近付いてくる。同情はするが、僕の妹を嫁がせる理由にはならない」
口調は穏やかで、顔つきは冷ややかだ。ただ冷静なだけに、誇張するとしたって、少しばかり冷酷そうに見えるという程度だ。だが、妹であるソフィーには分かった。ヒューバートは怒っている。交渉するとは言っているが、通すつもりしかないだろう。
「ではお兄様は行ってくるよ」
頼もしくも恐ろしい背中を、ソフィーは見送った。
翌日の早朝、ヒューバートは戻った。ソフィーの部屋の壁掛け時計に使われている「天玻璃」という玻璃の色が、前世でいう朝の空の色に染まる頃だ。この「天玻璃」とは時間経過で色の変わる、特別な玻璃である。
この変色する不思議な玻璃は、ソフィーにとって、かつての空を思い出すよすがである。
だからソフィーは「天玻璃」がこの世界で最も好きだ。この白夜の世界で、懐かしい空の色を唯一思い出させてくれる。それも、青い花やドレスよりずっと巧く。
眠れないで起きていたので、ソフィーは物音ですぐに気付いて兄を出迎えた。転移魔法専用の部屋のドアが開き、共に連れてきたらしい冷えた朝の空気が、僅かに廊下に漏れ出る。その空気を纏って入ってくると、ヒューバートは上着を脱ぐのもそこそこにソフィーを抱き締めた。同行していた魔法士ピアソンが部屋のドアを閉める。
「お兄様、ピアソン、お帰りなさい。クリスは━━」
「ソフィー! 喜べ!」
髪は少し崩れ、服もやや乱れていたが、ヒューバートの顔は晴れやかだった。窓から入る白い光を受け、明るいブルーの目はいつにもまして明るく、輝かんばかりだ。
「上手くいったのかい?」
ジェラードの声だった。たった今起きてきたにしては早い。首を傾げるソフィーに、ジェラードが苦笑する。お前も起きていたんだね、と声をかけられて頷いた。
「伯爵に承諾していただきました。ただ、時期をふまえて婚約の内定ということで口裏を合わせてくださるそうです。元々親しいので殆ど決まっていたもの、という形にすれば、世間の非難は避けられるでしょうから」
早口に言うと、ジェラードは少し遅れて来たローズを抱き締めた。息子と違い、母親のブルーの目は安堵感に緩んでいた。
「ヒュー、お疲れ様。……体が冷えてるわね?」
「クリスと遠乗りをしたので。父上、安心するにはまだ早いと思います。手紙の文面じゃ、随分ソフィーに
「えっ?」
ソフィーは思わず声を上げた。
「私は急いでいるとしか思えなかったわ。一応体裁を整えただけでしょうし……私に拘る理由がないもの」
「僕もオブライエン公爵閣下については深く知らないが、仕事の早い方で簡潔な文を好まれるらしい。見合いなんて、聞く限りじゃ最低限のやり取りしかなさらないそうだしね」
それはソフィーも知っている。無礼から来る最低限のやり取りというより、その気がないと示して安心させる狙いがあるのではないか、という気もしているが。
「婚約の打診とはいえ、ソフィーさえいれば良いなんて、拘っていると見て良い。失神しなかった令嬢の中には美人だっていたんだ」
そこまで言うと、ヒューバートは微笑んだ。
「僕の妹は魔法が使えるのかな」
「私に惚れてると思わない冷静なとこは好きよ」
「嘘だよ。僕の妹はちゃんと可愛いよ。ほら僕だって可愛がっているだろ、魔法かもしれないけれど」
「しつこいわね。魔力なんかほとんどないじゃない、うちの家系」
代々の家系図を思い浮かべて渋い顔でソフィーは言い返した。その中でもソフィーは最も魔法と縁がない内の一人だ。何せ、魔力ゼロな上に魔力アレルギーである。
「でも昔は妖精を見たと言ってたね。何だっけ?」
「もうやめてよ、その話。覚えてないって言ったじゃない……」
「はは。森なんか行くからだよ」
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