第8話 新たなる道~終章

 京都ダイコクホテル、鳳凰の間。そこは京都でも一二を争う高級ホテルの中にあって、最も贅の限りを尽くしたパーティー会場だ。その夜、その大広間は大勢の人でにぎわっていた。華麗なドレスに気品あるスーツ姿。集いし紳士や淑女が談笑しあい、眩いシャンデリアの光に包まれながら、それぞれが互いの地位や名声を誇示しあっている。

 そんな彼らが囲むテーブルには、さまざまな料理や美酒が並んでいた。

 さすがはダイコクグループが世界に誇る一流ホテルだ。急な申し出にもかかわらず、全力をあげて準備をし、このような最高の舞台を整えてくれたのだろう。

 そんな健気な従業員の皆様方に感謝の念を抱きながら俺はようやく覚悟を決めた。

 やがて正面入り口の扉が閉まり、急に緊張感が高まってきた。

 体の線に沿ってぴっちりと身を包んでいるオーダーメイドのタキシード。

 知的な装いを演出するための伊達眼鏡。

 そんな心もとないアイテムに多少の不安を抱きながら、俺はついに新たなる人生の第一歩を踏み出したのである。


「あら、噂をすればだわ。ようやく新オーナーのご登場よ」

「もしかして、こういう表舞台に出てくるのは、これが初めてなんじゃないかしら?」

「実際に、お姿を拝見するのは初めてだわ。まぁ可愛らしい。まだ十三歳ですってね」

 そんなヒソヒソとした声が俺の耳に届いた。

「――いやいや、いくら世間の注目を集めたかて、そないなもんはビジネス界においては何の役にも立ちまへんでぇ。まぁ、世間じゃ天才少年やと騒がれてますけどな」

「ですが各系列会社の社長はかなりのやり手ですよ。グループ全体とショッピングモールを束ねる茶釜三郎氏をはじめ、ダイコクホテル。大黒百貨店。それにコンビニのラッキーセブン。その主力企業を率いるトップたちを最近ではダイコク四天王と呼ぶ者さえいるそうです。ならば若きオーナーを支える態勢は整っていると思うのですがね」

「ふーん、ダイコク四天王なぁ。ま、そないに優秀な人材がそろてんのやったら、尚のこと、十三歳のガキンチョにオーナーを名乗られるのは我慢ならんのとちゃうやろか?」

 えーい、少しは遠慮しろ。まったく好き放題に言ってくれるものである。

 できれば、もう少し声のボリュームを下げてもらえるとありがたいのだが、噂しあっている列席者たちは俺の耳に届くのもこれみよがしに、そんな会話を楽しんでいるようだ。

 とはいえ招待状を送ってからわずか二週間。

 よくぞこれだけ集めたものだと正直、驚きを隠せない。

 今夜のパーティーには各界からいろんな著名人が集まっている。

 大企業の社長はもちろんのこと政治家や作家に芸能人。

 その中にはマスコミの関係者なんかも入り混じっている。そんな人ごみの中にあって、これまた、一際、目立っていたのが、その、でっぷりと肥えた男の面構えだ。

 そう、マルゼニグループの会長、銭丸栄一郎にちがいない。

 うん、ここはひとつ挨拶でもしておくとしようか。

 さっそく俺は、隣に立つマリリンを従え、その男のもとへと歩みよった。

「あのう、はじめまして。ぼくは大黒摩耶と申します」

「ほほぉぅ、君が、あの噂の天才少年とやらかね?」

「ええ…まぁ、この、ぼくがグループの新オーナーです。今後とも、ぜひお見知りおきを。本日はお忙しいなか、ようこそ、お越しくださいました。つきましては、ささやかなパーティーではございますが、存分に楽しんでいただければ幸いです。さても今宵は我がグループが未来に向けて始動する新たなプロジェクトについてもご説明しようと、さまざまな企画をご用意しております。どうか楽しみにしていてください」

 そして俺は会場の奥にあるステージに向かって指を弾いてみせた。

 やがて、そこに控える楽団員たちがクラシック音楽を奏でだす。

 曲目は『ニュルンベルクのマイスタージンガーより第一幕への前奏曲』

 いまいち選曲がポピュラーすぎて、どうもありふれているような気もするが、やはり、その壮大な調べは、今、ここから何かが始まるような予感をかき立ててくれる。

 と、そんななか、ホテルの従業員たちが移動式のガラスケースを会場内へと運び込み、それをあちこちに展示しだした。おそらく来場者の人たちは一瞬にして美術館の中にでも移動したような、そんな印象を受けたにちがいない。今や所狭しと会場内に並んでいるのは古き日本の伝統工芸や貴重な美術品の数々である。その数量に誰もが驚くなか、やがてステージに立つ司会者が溌剌とした声を張りあげ、この祭典の幕開けを告げるのだった。

「さぁ皆様方、ご覧じあれ。ダイコクグループの新総帥、大黒摩耶オーナーの未公開コレクション、本邦初公開にございます!」

 そして場内がわれんばかりの拍手に包まれた。なにしろ、それは総額数百億円にも及ぶ秘宝の数々である。それは今は亡き大黒社長の夢と情熱だ。

 その想いを受け継いだ俺の使命は、その力を日本のために役立てること。

 さても今宵のパーティーイベントは三郎さんの代表就任祝いを名目としながらもグループの新たな試みを世間に公表することをこそ、その真の目的にかかげている。

「そう言えば会長は芸術にもお詳しいようですね。ここにいる梅宮さんは鑑定家としても優秀な学芸員です。よければ彼女にも、いろいろと教えていただければ嬉しいのですが」

 まずは手始めに、この強欲まみれの男からギャフンと言わせてやろうじゃないか。

「ふむ、ならば拝見しましょうか。む、どれどれ。お、これは中国は唐代の壷ですかな?」

「いえ、ちがいます。江戸時代に焼かれた古伊万里の花瓶です」

 そんな強い口調で躊躇いもなく切り捨てたのは、もちろん、このイベントの一切を取り仕切ってくれた有能な部下である。その背後には、全国からこの日のために集まってくれた有名な鑑定家の先生たちも控えていた。しかし、そんな張り詰めた空気もなんのその銭丸会長は先ほどのウッカリ発言にもめげず、さらに愚かな言葉を口にするのだった。

「まぁ、数は多いようですが、見たとこ、それほど大したものは見当たりませんな」

「いやいや、そう仰いますな。どれもこれも、みごとな品々ではありませんか」

「今や手に入りにくい江戸時代のものが、これほど多く含まれているのも驚きですぞ」

「確かに。大黒百貨店が開催していた漆芸イベントもみごとなものでしたな」

「はて、そう言えば丸銭百貨店も同じようなイベントを開催しておられたようですが?」

 まるで仕組んだかのような会話に続き、そんな問いかけをしてきたのはテレビ番組でもおなじみの鑑定家の先生だった。俺はそれを合図と受け取り、隣に立つマリリンから包装紙にくるまれた箱を受け取る。そして、その中からお椀を一つ取り出した。

「つい先日、ぼくもそのイベントに足を運び、一つ購入させてもらいました。どうです。これほどの高級品がたったの千円とは驚きでしょう」

 そんな、わざとらしさも交えながら例のお椀を先生に手渡す。

 すると先生は筋書きどおりに険しい顔だ。

「むむ、これはいけませんな。こんなものは高級漆器とは言えませんぞ……」

「えっ、そんなまさか? 仮にも有名な百貨店が販売していたのですよ」

「また、そんな冗談を。オーナーは我々の眼力を試そうとしておられるのですな。まぁいいでしょう。これがただの合成樹脂を固めた大量生産品だと証明してあげます。ちょうどいい。そこにワインクーラーがある。君、悪いがこれに水を満たしてきてくれないか?」

「いえ、その必用はございません。ここにスーパー特売のミネラルウォーターがあります」

 そう言うやいなや一・五リットルのペットボトルを例の黒コートから取り出すマリリンである。そのまるで手品師のような鮮やかさに、あちこちから拍手がわき起る。いったい、あのコートの中身はどうなってんだ? と、改めて気になるが、今はそれどころではない。

 やがてワインクーラーの中からワインのボトルが引き抜かれ、中の氷も近くのゴミ箱に捨てられた。そこへミネラルウォーターがドボドボと流し込まれ、さらに例のお椀がその水の中に浸されると、それは呆気なくガラスの底に沈んでしまうのだった。

「あれぇ、普通、天然木で造られた漆器は水に浮くはずじゃぁ?」

「さすがに、それは、わざとらしいですよ……。ですが、これで証明されたでしょう。ただし、これを高級品と偽り、販売していたとすれば、それは実に許せない行為です」

「あのぅ、それについての苦情が多数、消費者センターに寄せられているそうですが?」

「会長どうなんです? やはり商品の品質を偽り、お客様を騙していたのですか?」

 さらに、そこへ今か今かと待ち構えていた記者団たちも参戦する。

 俺は鼻で笑った。会長はまるで茹でダコみたいにまっ赤な顔だ。されど今さら仕組まれた罠に気づいてももう遅い。ここでジタバタすれば、さらに状況はまずくなる一方だ。

 さて、この窮地をどう克服するか見せてもらおうじゃないか。その器量次第ではこちらも今後の出方を考えなければならない。みごとな対応を見せれば油断大敵である。

「お、そうだ。急用を思い出した。今夜はこれにて失礼する」

 まったく、なんて肩すかしな幕引きだ。会場内から一目散に逃げだす銭丸会長を記者団たちが追いかけていく。しかしながら、その醜態に安堵するわけにもいかなかった。

 その引き際のよさはむしろ賞賛すべきである。瞬時に撤退すべしと決断した判断力も侮れない。やはり銭丸栄一郎という男は充分に警戒すべき人物なのである。

 やがて俺は、その去りゆく背中を見送りながらステージへと駆け上がった。

 再びの歓声に包まれる。

 ちょっと照れくさいが、ここはしっかりと務め果たさなければと心を引きしめる。

 そんなステージの周囲には妙音寺からお借りした小太郎さんの作品と、健吾さんが復活させた弁天塗の作品がずらりと展示されていた。

 そして先に待っていた鳳泉先生が出迎えてくれるなか、再び司会者の声が響き、そんな騒然さに、さらなる緊張感を募らせながら俺は先生と熱い握手を交わしたのだった。


「すっかりお元気になられたようですね」

「おかげさまです。それより、この度はなんとお礼を申してよいのやら。オーナーには孫や弟子が、大変お世話になりました。しかも、あの健吾が、こんな素晴らしい作品を手がけることに協力していたとは驚きです。師匠として、これほど嬉しい事はありません。どんな魔法を使えばこんな奇跡が起きるのかは見当もつきませんが、心から感謝いたします」

 鳳泉先生には、健吾さんが、竜平さんやその祖父の竜山先生の遺志を継いで作品造りにに協力していたと説明してある。いくらなんでも、そこに地獄の閻魔大王様が関わっていたなどとは話せないので苦しい説明にはなってしまったが、なんとか信じてくれたようだ。

「いえ、むしろお礼を言いたいのは、ぼくのほうです。健吾さんがいなければ、はたしてどうなっていたことか。これは全て健吾さんの努力による結果ですから」

「なるほど。これは、わしも負けてはおられんようですな」

 そう言うや先生は司会者からマイクを受け取り、来場者に向けてこう告げたのだった。

「ええ、ごほん。……私、梅宮は、実は、これを機に、とある田舎町に引っ越そうかと考えております。さても、ここにおられる大黒摩耶オーナーが新たな修行の場を無償で提供してくださると言うので、その好意に甘えようというわけです。ところで、今や誰もが知っていることではありますが、どこぞのアホな百貨店が伝統ある京漆器を貶めるような真似をしてくれはりましてな――」

 その瞬間、会場内が大きくどよめいた。

 その間を縫うように一人の記者が質問を口にした。

「それについては、我々、マスコミも興味を持っております。ですが、もしそのような事実があったとすれば、ますます先生のお力が、この京都には必用なのではありませんか?」

「いや、これはもう、わし一人がどうこうできる問題やない。それに、これは京都だけの問題でもない。この国の何かを変えんと、また同じようなことが起きるやろ。そのために何が出来るのかをじっくり考えたいのや。いや、それよりも、まずはこれを見てみなはれ」

 そう言って先生はステージを囲む健吾さんの作品を指さした。

「わしの弟子が、かつてその町で造られていた幻の漆芸品を復活させるのに協力したんや。その弟子の才能を見いだしてくれたんが、この若きオーナーや。これ見たら、わしも負けてられへんと思うがな。せやから、もう一度、その町で修行し直したいんや。そしてな、この誠実なオーナーの元で日本の伝統文化を再び世界に誇れるものにしたいと思うとる」

「それはオーナーが提唱する新たな挑戦と何か関係があるのでしょうか?」

「まぁ、そういうわけや。……けれども、それはオーナーの口から語ってもらわんとな」

 そう言うや先生は俺にマイクをさし向けた。

 そのバトンを受けとった瞬間、またしても体に緊張が走った。

 震える手と足。眩い照明にクラクラする頭。

 それに、なんとか耐えながら俺は来場者の皆様と向きあった。


「そう、これは自分でもよく考え、いろんな人たちとも話しあい、そして決めたことです。ぼくは日本の伝統文化に携わる人たちが安心して暮らしていけるような――そんな理想の町造りを推し進める開発事業を立ちあげたいと思っています……」

 カメラのフラッシュが無数に瞬き、ひっきりなしに輝いた。おかげで目の前の光景が少しぼやけて幾分か心が落ちついた。とはいえ無我夢中だったのは言うまでもない。

 ともすれば頭の中がまっ白になる緊張に耐えながら俺は来場者に向けて訴えた。

 そう、今や死にかけ寸前になっている地方の小さな田舎町。

 そこにある小さな温泉街が時代の流れについていけず、滅びゆこうとしている現実。

 でも、それは決してなくしてはならない日本の宝なのだと俺は訴えた。

 さても、ようやく海外からの観光客が増えつつある今日この頃。さらに日本の観光事業を発展させていくには見捨てられたままの地方をよみがえらせ、海外からも認められる新たな観光資源を再発見していかなければならない。

 それは日本の多様な文化や、受け継がれてきた伝統文化をよみがえらせ、さらに、それを守っていく事と同意なんだと俺は思っている。そう、古きよき時代の日本の文化をもう一度――そして今度こそ真剣に考えてみようではないかということだ。

「……ですが、せっかく美しい自然や素晴らしい文化に恵まれていても、そんな場所に巨大なレジャー施設や巨大なホテルが建ち並んでいたら、それこそ海外から訪れた観光客でなくてもガッカリしてしまうでしょう。幸運なことに、とある小さな温泉街は、そんな時代遅れの巨大ホテル建設から逃れることができ、古くは江戸時代から続く温泉宿場の様子を今に残すことができましたが、日本全国にある全ての温泉街がそうだとは限りません。今だに巨大なホテルを建設しようとする動きは根強く残されています。 しかも未だに、多くの観光地が様々な問題を抱えています。そもそもそれらの問題を克服する力が地方にはないのです。新たなビジネス展開に打って出ようにも地場産業や個人が経営する旅館では資金の調達も困難であり、バブル期における施設の巨大化で不良債権を抱えたままになっている経営者も多いなか、さらに施設の大型化による集客独占によってその他の商業もすでに壊滅的な被害を受けており、町そのものが衰退しきっているからです。今現在、地方の多くに残されているのはその残骸です。ようするに、すべては地域全体の活力低下が問題なのです。でも、そろそろ目覚めてもいい頃だと思いませんか? そんな大きな建物に頼らなくても、すでに価値あるものが他にも沢山あることに気づくべきです。目を凝らせば、そこかしこに貴重な宝物が埋もれたままになっていることにも気づけるはずです」

 そう、大きな建物の建設は、それを壊してしまうかもしれない。

 俺はそんな思いを込めて、さらに言葉を続けた。

「ですから現状は厳しいと言わざるをえません。今や日本の貴重な伝統文化が失われつつあるようにも思えます。――だからこそ、ぼくは思うのです。もっと、いろいろ選べる社会だったらいいのにと。……そう、値段が安く、使い捨てにできる商品を選ぶ自由。それと同時に値段が少し高くても孫の代まで受け継がれていく伝統を選ぶ自由があってもいいと思うのです。壊れたものを修理し、また使えるようにする文化があってもいいと思いませんか? はたして、そんな社会になれば、その先にはもっと多くの希望が生みだせるはずです。……ぼくは、その最初の小さな灯火を作りたいと考えています。どうか、その希望の光を温かく見守ってくだされば幸いです」

 そして気がつけば万雷の拍手の中に立っていた。俺は、そんな喧噪のなかで自分の心に問いかけてみた。うーん。本当にこれでよかったのだろうか? いつのまにか大袈裟なことになり、急に不安になってきたのだ。だが、その反面、これでよかったという思いもある。むしろ、この不安は当然なのだ。そう、何かを始めるにあたり最初から成功を確信できる者は少ないだろう。この不安は今生きているという証拠でもあるのだ。

 だからこそ言える。何も行動しなければ何も変わらない。

 俺は、鳴りやまぬ拍手に、そんな想いを抱きながらステージを後にした。

 ちなみに、その日のことは新聞やテレビなどでも取りあげられ、次の日のニュース番組でも全国に向けて放映された。

 おそらく、これで弁天町の知名度も少しは上昇したにちがいない。

 さらに、その数日後のことだ。俺たちにとっては嬉しいニュースが舞い込んできた。 

 なんと、あの丸銭百貨店が例のイベントを中止したというのである。さては、お客様を誤解させてしまう大袈裟な表示が問題となり、マスコミが大騒ぎしたんだそうな。

 おかげでマルゼニグループは記者会見を開いて謝罪することになり、多くの職人を引き抜いて運営していた工場もたちまち閉鎖に追い込まれてしまったそうだ。

 おまけに、お給料の額に魅せられて工房を出ていった弟子たちも鳳泉先生に頭を下げて戻ってきたらしく、先生もそんな弟子たちを、もう一度受け入れることにしたのだとか。

 当然、そんな話を耳にしては騒がずにはいられない。

 その夜はまたしても、にぎやかな宴会になってしまった。


夜空には無数の星が輝き、大地はバラの香りに満ちていた。

 ライトアップされた噴水の飛沫に花の色が入り乱れ、砕け散っては闇に舞う。それはもう幻想的な光景が闇の中に浮かびあがっていた。

 ここは大黒邸の玄関前に広がる英国風のガーデンである。

 俺は近づく冬の気配に多少の痩せ我慢を持ちよりながら庭に置かれたベンチに腰を下ろし、ぼんやりと夜空を覆う銀河の星々を眺めていた。

 不思議と気分はすっきりとしていて、よどみない夜空のように澄みわたっている。なにしろ、ここにきてようやく『未来への道すじ』が見えてきたのだ。

 すべき事は沢山あるが、心は未来に向けての希望に満ちていた。

 そう、まずは復活を遂げた弁天塗を活かし、いかにして町の知名度を全国レベルまで引きあげていくかを考えなければならない。

 他にも町のあちこちにある空き家を新しいお店や工房に改装したり、美術館をオープンさせたりと、なにかと気が遠くなりそうな問題が目白押しだ。

 そのせいか、なんだかワクワクして眠れなかったのだ。

 おまけに、今、心から湧き上がるこの喜びにはまた別の理由もあったりするので、これまた、なんともいえない気分だったりするのである。というのも、ついに念願が叶い、あの地獄での裁判いらい、初めて両親との再会を果たすことができたのだから、これほど嬉しいことはない。そう、今にして思えば、それはまさに苦悩の日々だったのだ。

 なにしろ、今の俺ときたら以前とはまるで別人である。その名も大黒摩耶と改め、今や世界屈指の大富豪でもある。もはや以前の面影すらない、この大きな変化には当の本人ですら戸惑っているのだから、しばらく会わずにいた両親にとっては、どれほど大きなショックになるのやら。それは考えただけでも怖ろしかった。きっと変わり果てた息子の姿に驚き悲しむにちがいない。いや、もしかすると、もう本人だとは解ってもらえないんじゃないだろうか。もし、そうなったら俺はこの先、何を心の支えに生きていけばいいのだろう。そんな不安に悶々と悩み続けた俺は、なんだかんだと言い訳しては両親に会いに行くのを、ずっと後回しにしてきたのである。ところが今日のお昼のことだった。

「おい、悩みがあるならさっさと言わぬか、この愚か者め! まぁ、おぬしのことだ。どうせ、しょうもないことでクヨクヨしているのだろう」

 無理やり、あの鏡の大広間へ連れて行かれた俺は、そこで大王様にしこたま叱られた。

「だいたい姿形などどうでもよいことじゃ。大切なのは、おぬしの心ではないのか?」

 はたして思い悩む俺に、大王様はそう言ったのである。

 まさに、そのとおりだと俺も思った。

 そうして、ようやく決心がついたのである。

 とはいえ、やはり怖じ気づいてしまう心はどうにもならず、結局は大王様に背中を押されて、おっかなびっくり地獄へ舞い戻ることができたという情けない結末だった。

 ただし、これだけは言っておこう。いったいどこの国に、頭から突っ込めと言われて、はい分かりましたと鏡に突撃する馬鹿がいるのだ? そんな俺を容赦なく蹴り飛ばし、さっさと行け! と強引に霊道へ叩き込んだ大王様にも多少の罪はあると思うんだけどな。

 えーい、今、思い出しただけでも少し腹が立つ。

 ともあれ、大黒邸から続く霊道の行きつく先は、これまた一枚の大きな鏡だった。その名も『浄頗梨鏡』といって生きていた時の悪事をあまねく見抜くこの鏡は大王様が住んでいる(はずの)宮殿に置かれており、薄暗い霊道をくぐり抜けた、その先には、これまた豪華絢爛な世界が待ち受けていたのだった。

 その王宮の美しさといったら、もはや言葉では語り尽くせぬほどの素晴らしさで、その場に立ち尽くした俺の口から思わず嫌味の言葉が飛びだしたほどだ。

「なにもこんな豪邸に住んでんなら、わざわざ俺ん家に居候なんかせんでもええやろ」

「いや、ま、そこは、わらわにも、いろいろと事情があっての……」

 はてさて、どんな事情があるにせよ地獄と大黒邸を行き来するなど今やあっというまの出来事である。そう、ほんの数秒とかからない。表裏一体となってしまった二枚の鏡のせいで、もはやお隣さんといっても過言ではないのである。なのに、わざわざ他人ん家に押しかけては毎日毎日ダラダラと過ごしている。これは、どう考えても、ただの嫌がらせとしか思えない。だが、そんな心優しき大王様のおかげで、なにはともあれ両親との面会を果たす事ができたのだから、ここは感謝しても感謝しきれないというのが本当の気持ちだ。

 はたして父も母も元気そうでなによりだった。

 そんな二人が話す地獄での生活があまりにも生ぬるく、しかも、それを楽しんでいる様子に拍子抜けした俺は呆れてものも言えず、ただ涙を堪えるのに必死だった。

 これは後で聞いた話だが、死者の眼は、その人物の魂を見抜くことができるので、たとえ姿や形が変わっても、ちゃんとその本人だと分かるんだってね。

 くそぉぉぉっ。ずっと思い悩んでいた俺がまるで馬鹿みたいじゃねぇか!

 ……と、まぁ、ようするにだ。

 そんなこんなで、すっかり心配ごともなくなった俺は、なんだか少し開放的な気分にもなり、今夜は、がらにもなく星空を見上げているというわけである。といっても、もともとそんな趣味のない俺に宇宙を語る資格はない。そんな大きすぎる夢は天文学者や物理学者に任せておくのがいいだろう。むしろ俺の関心は大昔から変わらぬこの星空のもとで延々と営まれてきた人々の暮らしや生活や文化へと向けられている。

 そう、やはり今も料理人になりたいという夢はある。

 でも、その願いは今やもっと大きな夢へと進化しつつあるようなのだ。もちろん親父のように小さくても美味い料理を提供する洋食屋さんを経営するのも悪くはないんだけど。今の俺は、なぜかもっと大勢の人に幸せな気分になってもらえるような、そんな仕事がしたいと密かに願っているようなのだ。その方法は、自分で料理を作って、お客さんに食べてもらうくらいでは、もはや満足しきれないところまで膨らんでいるのかもしれない。

 いや、まだ、はっきりとした夢の形にはなっていないんだけど。ただ、この頭上に広がる無限の宇宙を見上げていると、もっと大きな夢を描きたくなってくるから不思議である。

 そう、もっと多くの人に笑顔と希望を与えたい。実に子供じみた夢である。

 なんだか胸に秘めているだけで、ちょっぴり恥ずかしくなるような願いでもある。

 でも目指すその先にこそ、本当の夢があるような気がしてならないのだ。

「あ、ご主人様、こんな所におられましたか。散々、捜し回りましたよ」

「若旦那様ぁ。こんな寒い所におったら風邪をひいてしまいますがな」

 やがてマリリンと花子さんの心配する声が聞こえてきた。

 続いてゴンさんのぶっきらぼうな声も聞こえてきた。

「男にゃ、たまには夜空を眺めて野望を膨らませたくなる時もあるんでやんすよ」

「こら、まやや。食後にバックギャモンをする約束ではなかったか!」

 最近、大王様はバックギャモンという双六ゲームがお気に入りで、かなり面倒臭い。

「それより地獄からお電話が入っておりますよ。なにやら隣町の商店街に夜な夜なザラザラと何かを洗うような音が響き、そのせいで近隣の人たちが怖がっているんだそうです」

 さても弁天町に新しい工房ができるまで健吾さんはこの屋敷に住むことになり、それならと、いろいろとお手伝いをしてくれている。実にありがたい。

「なんじゃ……きっと、そいつは、ただの小豆洗いであろう。そんなちんけな妖怪なんぞ無視しておけばよい」

 こらこら、地獄の大王様が、そんな無責任なことを言っちゃっていいのかよ。

 まったく落ちつかない日々である。なにしろ住んでいるこの豪邸は、もはや完全にお化け屋敷の有様だ。付き従う妖怪たちは、どいつもこいつも変わり者ばかり。

 おまけに面倒臭い大王様に居座られ、毎日の我が儘三昧にも付き合わされる。たまには、そっとしておいてほしいが、なかなかそうもいかないところが厄介だ。

 やはり妖怪出没と聞いては放っておくわけにもいかないだろう。地獄の捜査官としての御役目もまた俺にとっては大事な使命なのだ。そう、死は終わりではなかった。俺にとっては新たな人生の始まりだった。さても今宵はどんな怪奇現象が待っているのだろう?

 見上げる夜空には満天の星が輝き、一点の曇りもなく広がる宇宙の彼方から燦然とした光を放っている。そんな闇に浮かぶ光の乱舞に俺はさまざまな夢を描きながら立ち上がり、新たな未来に向けて駆け出して行くのだった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

大黒邸閻魔帳日記 大谷歩 @41394oayumu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る