第7話 職人の苦悩

 「まぁ、お茶でも飲んで休憩しましょ。なんかバタバタして疲れたでしょ」

 玄関から裏口へ抜ける土間。それに沿って指物をする部屋や漆を塗る部屋が並んでいる。

 今いるのは、その向かいにある居間である。その奥の台所から健吾さんが茶器類を持って現れた。ここは五条通りの裏手にある鳳泉先生の工房である。あれから改めて詳しい事情を聞くため、俺たちはいったん大黒百貨店に戻り、社員の皆様にも挨拶をしてからゴンさんの運転するロールスロイスに乗って、ここまでやって来たのである。

 もちろん漆工房の見学もかねてのことだ。

「間口は狭いですけど奥行きがあるので、意外と広いでしょ。まさに鰻の寝床とはよく言ったものです。今はこんな状態ですけど、ちょっと前まではにぎやかだったんですよ。そりゃもう大勢のお弟子さんを抱える工房だったんですから」

 茶器を並べながら語る健吾さんの表情はひどく悲しげだった。

 伝統的な町屋。そこで行われる職人さんたちの作業風景はさぞや活気に満ちていただろう。だが残念ながら今はもう木を削る音や轆轤を回す音は響かない。そのかわり、どこかの軒下からか夏の名残に忘れ去られた風鈴の音も寂しく、そこに嗚咽が重なり、切なく心に響くのだった。その小さく丸まった背を撫でながらマリリンも眉を八の字に下げていた。

「丸銭百貨店の口車に乗せられて、ほんま情けない。今まで、どれだけお爺ちゃんの世話になったと思てんのやろ。そればかりか、その顔に泥を塗るような真似までしくさって」

 花子さんの涙がポタポタと畳の上にしたたり落ちた。

「きっと丸銭百貨店はダイコクグループへの対抗意識から、こんなことを始めたのだと思いますよ」

「へぇぇ……そうなの?」

 言い募る健吾さんの言葉に確信を得ようと俺はマリリンに視線を向けた。

「はい。食品会社やホテルに百貨店などを傘下に収めるマルゼニグループ。その会長である銭丸栄一郎のダイコクグループに対するライバル意識は相当なものと聞いております」

「ふぅん。なにか恨まれるような事でもしたんやろか?」

「いえ、ただ強欲なだけかと。しかしながら倒産した漆器会社を買い叩いて直営工場を造るのはまだしも。あろうことか京都じゅうの工房から職人を引き抜き、てっとりばやく量産体制を整えるとは、あいかわらず、あくどいやり方をします」

 はたして、その魔の手はもちろん、この梅宮工房にも及んでいた。

 かつて、ここで働いていたお弟子さんたちは丸銭百貨店が提示したお給料の金額に目が眩み、こぞってその工場とやらに転職してしまったのだそうだ。

「でも、それも仕方ありません。工房の給料なんて、そりゃ最貧国なみ。独立して自分の作品を販売できるようになっても、それだけでは、なかなか食っていけない世界ですから」

 その理由はなんといっても漆芸界の衰退にあると建吾さんは言う。つまり漆芸品があまり売れないのだ。なので本職とは別に確実な収入源が必用になってくる。聞けば、純粋に自分の作品だけで生活を成り立たせている職人はかなり稀少な存在なのだとか。

 しかも、漆工芸はその技術を習得するのに多大な時間と努力を必要とする。その上、高い芸術性も求められるので鋭い感性も磨かねばならない。なのに苦労ばかり多く、収入も満足に確保できないというこんな状況では、なかなか後継者も育たないという話だった。

「うーん、やっぱ前途多難だね。それって大問題やん。伝統工芸に従事してる人たちが、その技術だけでは生活できないなんて。これじゃ日本の伝統が消えていくのも無理ないね」

「まぁ、そうでしょうね。ぼくもファミレスでバイトしてますしね。でも、そんな連中に、高い給料を払うなんて話を持ちかければ、そりゃ飛びつきますよ。丸銭百貨店はそうやって集めた職人を総動員し、大量生産した商品を京漆器として全国に流通させ始めたんです。おまけに、いくつかの食品会社を傘下に収める丸銭百貨店は京菓子や京料理などを詰めた重箱なども格安で通販しているんですよ」

「でも、あんな価格帯で利益が出せるのかな?」

「極限までコストを削減しているのでしょう。とはいえ漆器にあんなに沢山の人が群がっている光景なんて初めて見ましたよ。あそこまで品質を落としているとは思いませんでしたけどね。それだけに無力感に苛まれます」

『……まぁ、それでも工場で大量に作られる漆器の模造品よりかは上等やで。そのくらいの価値は素人の目にも分かる。せやから本格的な漆器より安く、模造品より高いあの微妙な価格が生きてくるんやろな。ほんま姑息やで……』

 幽霊男の言うとおりだと思った。

「ともあれ敵ながらあっぱれだよね。実にたくましい商魂やな」

「ご主人様。妙なことに感心をしている場合ではありませんぞ。それらの商品は百貨店のブランド力に裏づけされ、大衆の信用を得ております。このままでは京都の伝統が、そっくりそのままマルゼニグループのあくどいやり口に食い尽くされてしまいますぞ」

「そうですよ。あの程度の品質が標準化されたら漆器の価格は暴落します。他の産地にも影響が出かねません。いえ、ただでさえ数少ない職人を奪われ、休業に追い込まれた京都の工房はまちがいなくトドメを刺されてしまいますよ」

「だから、花子さん、あんなに怒ってたんやね?」

「申し訳ありません。若旦那様の前で、えらい取り乱してしもうて」

 いやいや花子さんの怒りはもっともなことだ。丸銭百貨店のやり方はいくらなんでも酷すぎる。そこに日本の文化を守ろうとする姿勢などは微塵も感じられない。いや、それどころか利潤追求の名のもとに伝統を食い物にしているとしか思えない。その横暴さの裏にあるのは拝金主義の精神だけだろう。その傲慢な行為は絶対に許せるものではない。

「このままでは京漆器が滅びちゃいますよ。今、思えば、だからこそ先生は大黒百貨店の期待に応え、見る者の目を覚まさせようと作品造りに没頭され、新たな作風の境地を見い出そうとしていたのでしょうね。でも、ついに疲労がたたり倒れておしまいに……」

「うちが無理させてしもうたんです。孫に恥をかかせたらあかんと思て、がんばってくれてたんです。せやのに強欲な丸銭百貨店のやり口には勝てへんかった……」

「せめて兄弟子の竜平さんが、今、ここにいてくれたら心強いのですが」

 と肩を落とす二人。その向かいには不自然に開けられたスペースがある。

 そこに、あの幽霊男が座っているのだ。その幽霊が悔しげに口を開く。

『あのなぁ、俺がまだ生きてたとしても、どうにもならん事はどうにもならん。それより健吾、おまえがしっかりせなあかんやろ。おまえかて、もう一人前の職人やろ。先生が頼りにできるんは、おまえしかおらんのやで。なぁ君、このボンクラなんとかしてくれへん』

 と言われてもな。あまりにも問題が多すぎて何から手をつけていいのか分からない。 

「うーん……」と考え込む。

「あ、そろそろ湯かげんも頃あいかな。えっと、五人ぶんでいいですよね」

 健吾さんが思いだしたように茶の用意を始める。

『あのな、そこは俺のも用意せんか。飲むことはできんけど、そこは気持ちの問題やろ』 死んでるくせに、やたらと兄貴風を吹かせる幽霊である。しかし、健吾さんの言うとおりかもしれない。この男がまだ生きていたら、いろいろと協力してもらえたかもしれない。

 いや、ちょっと待てよ。別に幽霊でもかまわへんのとちゃうやろか。

「あのさ、できれば、もう一人ぶん、お願いできませんか?」

「え、五人ぶんで足りると思いますけど…。いえ、まぁ、そう言うなら……」

 なにやら落ちつかない様子で急須に湯をそそぐ健吾さんである。

「そういや兄さん、俺の煎れる茶が一番美味いと誉めてくれてました」

「その竜平さんは花子さんの婚約者やった人ですよね?」

 ついに俺は意を決し、話を切りだした。とたんに二人の両眼が見開かれる。

「え、どうして知ってるんです!」

「いや、まぁ、さっきから、その本人がいろいろと教えてくれるもんで……」

「そんな冗談はやめてください。いくらオーナーでも許しませんよ!」

「だよね。ゴメン。でも、その竜平さんも、いろいろと言いたいことがあるみたいで」

「――っていうか、さっきから、時々、誰もいない場所に目を向けてますよね。やっぱりいるんですか、そこに? いるんですよね。あの俺、見たんです。夜中に先生が作業してる時、その背後に立っていた不気味な影を――」

 あれ? なんか勝手に話の向かう先が怪談じみてきたぞ。これは好都合かも。

「それに兄さんが大事にしていた筆と刷毛。あれ、葬儀の時に棺桶に入れたはずなのに、いつのまにか先生がそれを使っていたんです。その筆と刷毛を使うようになってから、先生、なにかに取り憑かれたように作業に没頭するようになって。やはり、あれは兄さんの仕業だったんだ。やはり思い残すことがあって成仏できてなかったんだ……」

『……まぁ、大体はそのとおりや。爺さんのやり残した仕事を受け継いだら、なんや熱が入りすぎてしもうてな。過労でフラフラしてたら車が突っ込んできてお陀仏や。弁天塗もまだ試作段階やし、そら思い残したことは仰山ある。おまけに工房もこの状態やしな。おちおち成仏なんかしてられへん。せやけど先生の背後に立ってたのは俺とはちがうで』

 うん、やはり、ここは地獄の捜査官としての仕事を優先させるべきだろう。

 それを取っかかりにして何か打開策でも思いつけば、それはそれでめっけものだ。

 俺は、お茶を飲み干してから立ち上がった。

「まぁ、詳しい話は後にして、とりあえず先生の仕事場に案内してくれませんか?」

 なにわともあれ、現世を彷徨う幽霊をこのままにしておくわけにはいかない。

 彷徨える魂をあの世へ導くのも地獄の捜査官としての大切な仕事なのだ。


 きちんと整えられた机。その作業台の上にはいろんな道具が並んでいた。その机の一番下の抽斗を開けると、そこにも一揃えの筆と刷毛が保管されていた。その造作はみごとなものだった。一見して古いものだと分かる。だが、それを認識したとたんである。そこから憎しみや悲しみに満ちた怒りの気配が立ちのぼり、俺は思わず悲鳴を漏らしかけた。

 うん、正直に言うね。実はまだこういった心霊現象には慣れていないんだ。

 いくら地獄の捜査官に任命されたとはいえ恐いものは恐いんだからしょうがない。

『なっ、言うたとおりやろ。これはかなりヤバイやろ。……つっても俺の場合は死んでから、その危うさを後悔したんやけどな。ま、その時はすでに手遅れやったっちゅうわけや』

 しみじみと幽霊男が過去を悔いる。さても、そこに宿る怨念の存在に気づいていたら竜平さんは死なずに済んだかもしれない。直接の死因とは関係ないのかもしれないが、やはり、その呪いが彼の命を縮めたことは紛れもない事実であろう。

 それほどの強い執念が感じられた。愛する者への想いや夢を断たれた無念。非業の死を遂げた悲しみが伝わってくる。さてどうしたものか。ここで閻魔帳を使って、この怨念を浄化するのはたぶん可能だが、それだと宿る無念の想いは永遠に報われないだろう。

 しかも、そこには憎しみとは別に清らかな情愛の念も宿っている。その想いが逆に妄執と化し、悪い影響を及ぼしてきたにちがいない。とはいえ、その大切な想いも一緒くたに呪いを引き剥がし、怨念だけを強引に地獄へ強制送還するのも、いささか乱暴に思える。

 うーん、これは、かなり厄介な事かもしれないぞ。

「あ、これです。これです。これが兄さんの使っていた筆と刷毛です。でも、どうして、これがここにあると分かったのです?」

 いや、まぁ、それは、その本人が『ここや、ここや、ここに呪いの筆と刷毛が!』と騒ぐんだもの探す手間も省けるというものだが――

「……まぁ、それより、まずはこれを見てください」

 俺はさらに別の抽斗を開け、そこに保管されている作品を取りだした。

 それは実にみごとな化粧箱だった。

「なんですかこれは! こんな素晴らしい作品は今まで見たことがありませんよ。螺鈿に蒔絵に漆絵。まったく工程のちがう技術が渾然一体となり、これまた斬新な図柄を描きだしている。これが世にでれば大騒ぎですよ……」

「うん、そうだね。少し大袈裟だけど、俺もそう思うよ」

 それほど素晴らしい作品だった。描かれているテーマは『受胎告知』――聖母マリアが天使ガブリエルから神の子をその身に宿したと報されている光景だ。それは西洋ではしばしば絵画の題材にもなる有名なワンシーンであるが、しかし、その図柄は確かに西洋風なれど闇に浮かぶ純血のマリアや純白の天使を細密な漆絵や蒔絵によって描き、その周囲に施した金色の螺鈿によって一層の輝きを増す手法は、やはり日本伝統の技術であろう。

「まさか、これが幻の弁天塗ですか?」

 泣きはらした目に、ようやく輝きを取り戻した花子さんが身を乗りだす。

 その全身に感動の色が一気に広がっていくのも手に取るように分かった。

「竜平さんが祖父の遺志を継いで現代によみがえらせようとした渾身の作品です」

『――つっても、まだまだやけどな。本物の弁天塗は、そこに堆朱や沈金の技も加えて、さらに立体感まで表現しよるんや』

 沈金とは漆を上塗りした表面に彫刻刀を入れ、その溝に金箔や金粉を埋め込んで模様を描きだす技法である。立体的な絵柄を自在に表現できるのがその特徴だ。

『まぁ、江戸時代ならいざしらず、そんな工芸品は今や日本のどこを探してもないやろな』

 まさに幽霊男の言うとおりだ。もし本当に、そんな技術が現代によみがえれば日本の工芸界に新たな旋風をまき起こすことはまちがいない。

「きっと、この作品を見た先生は自身でも挑戦してみたくなったのでしょう。そして竜平さんの死後、彼が愛用していた筆と刷毛を用いてでも同じような作品を造りたいと、そう思ったのでしょう。棺桶の中から筆と刷毛を持ちだしたのも、きっと先生です」

『そのとおりや。そのクマネズミの腋毛でつくった筆と、女の髪から作られた刷毛は江戸時代初期のものや。もう日本には、そないな道具を作れる職人はおらんやろな』

 そんな幽霊の呟きを耳にしながら、再び俺は漆芸品について語る政恵さんの言葉を思い出していた。

『……漆工芸には様々な道具が必用ですが、現代においてはその道具こそ稀少なのです。ですから、ないものは作るしかないと自ら道具を作る職人もいるくらいです。すでに消滅した道具も多いですからね。なかでもクマネズミの腋毛で作る筆はその最たる物でしょう。なにしろ原料となる琵琶湖のネズミがもう生息していないのですから仕方がありません。そればかりか日本産の漆の生産量は年々減り続け、そのほとんどを質の落ちる輸入品に頼らざるをえなくなっています。これでは漆工芸が衰退するのも無理はありません』

 漆とはもちろん漆という木から取れる樹脂のことだ。それは優れた接着剤であり、塗装剤であり、または保護剤でもある。これほど多くの性質に恵まれた天然樹脂は他にないと言われている。だが、その採れる量はごくわずか。なんと一本の木から採取できる量は半年かかって約コップ一杯分。しかも近年は漆掻き職人の数も減少しており、今や原料の九十パーセント近くを海外から輸入しているのが現状だ。この話を聞いた時、なんとも先の見えない暗いトンネルの中にいるような気分にさせられたものである。

 ともあれ話を元にもどそう。

「……といっても先生は、別に道具を惜しまれたわけではありません。繊細な装飾を施すには、どうしても、その刷毛と筆が必用だと判断したのです」

『ま、理由は、それだけやないのが問題なんやけどな……』

 頻繁に割り込んでくる竜平さんの声は、もちろん花子さんや健吾さんには届いていない。

 それを無視しながら俺は健吾さんに問いかけた。

「これを見ても、まだ何も感じませんか? 職人の魂が震い立ちませんか?」

「そりゃもう鳥肌が立ちます。さすがは兄さん。梅宮鳳泉、竹林竜山。日本が誇る希代の名人二人に育てられた竜平さんはやっぱり天才です。それに比べて俺は…あ、ごめん。花ちゃんの前でこんな話を。竜平さんが亡くなって一番悲しんでいるのは花ちゃんだものな」

「いや、う、うちは、別に、そういう意味では、あまり落ちこんでへんねやけど……」

 まっ赤な顔で俯く花子さん。そこへまたもや幽霊男の不機嫌な声が発せられた。

『ざっくり言われると、へこむわぁ。せやけど、ほんまアホやな。そこまで言われたら、ええ加減に気づけ。花ちゃんが好きなんは俺やのうて、おまえや。 俺と花ちゃんのことは先生と俺の爺さんが昔に交わした約束ごとや。そんなんで縛るつもりは毛頭あらへんと先生も言うてたし、俺もちゃんとその話は断った。……でもな、そうは言うても、おまえがこんな調子やと花ちゃんかて愛想つかしてしまうやろ。君も、そう思わへんか? なぁ無視せんといてぇな。こいつ自分に自信がないだけや。せやけど塗師としての腕は保証したる。それどころか木工や彫刻の腕前は俺よりずっと上や。こいつが持ってる指物や堆朱の技術は、おそらく今の日本じゃ貴重やで。なぁ君、なんとかしたってぇなぁぁ……』

「あぁ、もう鬱陶しい! 言いたいことは自分で言うたらええやんか!」

『せやかて、俺、幽霊やしぃ……』

「そこはなんとかしたるから。さっさと言いたいこと言うて、きっちり成仏しぃやっ!」

 ついに我慢も限界に達した俺は驚きに目を瞠る花子さんや健吾さんを横目に勢いよくショルダーバッグを全開にするや、その中から閻魔帳を取りだした。

「ご、ご主人様、まさか、ここで閻魔帳をお使いになられるのですか?」

 さすがのマリリンもその青い瞳に困惑の色をにじませた。

「だって直接、話してもろたほうがてっとり早いやんか――」

 地獄の捜査官になり、この世に復活をとげた俺には、いろいろと厄介な能力が備わっている。幽霊が見えるのもその力のおかげだ。さらに、この閻魔帳を使うと、他にもまざまな仏様の力を借りることができる。普通の人には見えない幽霊などを一時的に実体化させる『霊験』もその一つだ。

「ですが『霊験』の力を使えば事情を説明せねばなりません。それはそれで面倒では?」

「せやけど、このまままのほうが面倒だよ。ずっとこの幽霊男に取り憑かれて、『なんとかしてぇやぁ~』と、ぼやかれる身にもなってよ。それに三朗さんは言ってたよ。『さまざまな事業を行うのに協力者は欠かせません。ですが、きちんと仲間にするなら、ちゃんと正体を伝えた上で、それでも力になってくれる人こそ大切にすべきです』――ってさ」

「ウケケ、そりゃそうでやんす。あの屋敷に迎え入れるからには、それなりに肝がすわってねぇと頼りになりませんからね」

 部屋にあった灰皿に煙草を押しつけながらゴンさんが喚く。

 俺はそれを仲間の同意と受けとり、閻魔帳を開いた。

「――おんばさらだるまきりく」

 唱えた言葉は千手観音の真言である。やがて『焔羅』という鬼神の姿を描いた表紙が淡く輝き、その開かれた頁から生白い手が無数に溢れだした。

 その手が一時的に異界の扉を開き、そこに亡者の姿を浮かびあがらせる。

「うわぁぁぁ兄さん!」

「――りゅ、竜平さん!」

 普通ではありえない現象に驚く二人に向かって幽霊がばつ悪そうに挨拶した。

「ひ、久しぶりやな。そ、そないに驚かれたらショックやで。とりあえず葬式いらいやな」 まったく、いろんな意味で調子っぱずれな幽霊である。


「おい、ただの所用と言ってた割には、ずいぶんと帰りが遅かったではないか?」

 すでに夕暮れ時である。ここは大黒邸の一階にある洋風ダイニングだ。そのテーブルの一つを囲んで俺たちは土産に買ってきた抹茶ロールや紅茶で、その日の疲れを癒していた。 どちらも大黒百貨店で購入したものである。

 そのケーキを頬ばるや顔に驚き浮かべた大王様であったが、ますます色濃くした疑ぐり深い表情も鋭く、その両眼を露骨に細めてこう続けた。

「まさか、おぬしら仕事と偽り、実は六条河原や小椋池などを密かに訪れ、存分に楽しんできたのではあるまいな?」

 六条河原は、その昔、数多くの罪人が命を奪われた有名な処刑場である。

 また小椋池も、その通の間では知られるいわくつきの観光地だ。まぁ小椋池は別にしても、そのどちらも名所とはいえ、そこそこ有名な心霊スポットである。

「だいたいなんで、その二つをまず最初に口にするのか逆くに質問したくなるよ……。言うとくけど、マジで遊びに行ったわけやないで。そんな暇なかったし。それでもちゃんと土産を買ってきたんやから、いい加減に機嫌を直しなよ」

「むぅぅ、じゃが最近の京都がどうなっておるのか、いささか気になってのぅ……なにしろ、これほど美味な菓子は初めて口にしたぞ。さぞや京女どもが騒いでおろうな」

「いや、別に抹茶ロールはそこまで流行してへんけどな」

 はてさて口では現世の様子を気にしているような素振りを見せているが、明らかに本音は別のところにあるようだ。きっと一緒に京都へ行きたかったにちがいない。

 されど、そこは地獄の盟主たる大王様である。おいそれと我が儘などは口にできない。

 ならば、せめて土産話でもと期待したのだろう。本日は地獄の職務も早めに切りあげて昼過ぎには屋敷に戻り、今か今かと俺たちの帰りを待っていたらしい。

 ところが、まだその頃の俺たちはノロノロと走る車の中にいた。

 なにぶん今日は休日である。またもや京都市内で渋滞に捕まり、帰宅できたのはほんの三十分ほど前のことだった。今やダイニングの窓から見える空はまっ赤に染まり、室内の壁に夕暮れ時のグレデーションを描いている。

 その壁にある扉から一匹の妖怪が現れた。一つ目小僧だ。今日は黒いベストに黒いスラックス。まるでレストランの給仕のような恰好をしている。なるほど壁の向こうは厨房である。その手には妖怪には似つかわしくないジノリの高級ティーポットが抱えられていた。

「そろそろ、お茶のおかわりいかがですか?」

「ひいぃぃぃぃぃぃぃっ、目が一つしかないっ!」

 そりゃだって一つ目小僧だもの。そんな悲鳴をあげたのは健吾さんである。一つ目小僧にお茶のおかわりを注いでもらいながらガタガタびくびくと怯えている。実に見ていて気が滅入ることこの上ない。そこへ大王様のさらにも増して不機嫌な声が発せられた。

「おい、この屋敷の事情は、ちゃんと説明したのであろうな?」

「いや、ほんま情けないやっちゃ。男のくせにビクビクしおってからに」

 竜平さんの呆れ声も混じる。はてさて、この屋敷内は地獄と人界が繋がり、その二つの世界が入り乱れているため、わざわざ閻魔帳を使わなくても、ちゃんと実体化ができてしまうのだ。俺は深く溜息をついた。まったく、これではますますお化け屋敷ではないか。

「そりゃ兄さんはすでに死んでいるから今さらジタバタしても仕方ないけど。普通は妖怪だらけの屋敷に連れ込まれたら誰だってビビるよ。なんか怖そうな人もいるし……」

 健吾さんが恐る恐る指さしたのは大王様の背後に立っている牛頭馬頭コンビだ。

 今はちゃんと人の姿に化け、なぜか黒スーツに身を包んでいるが、あいかわらず、その顔はやくざも裸足で逃げ出しそうなほどの凶悪面だ。

「それに閻魔大王様までいるし……」

「なんじゃと貴様。わらわのことまでビビっておるのか!」

「こらこら、怒鳴ったりしちゃ駄目でちゅよぉ。彼は大事なお客様なんでちゅよぉ」

 つい、そんな言い方になってしまった。

「なんじゃ、その言葉づかいは? 畏敬の念がさっぱり感じられぬぞ」

 いや、そう言われましても。

「は~い、あーんして」

「う、うむ……むぐむぐ」

 大王様は花子さんの膝の上に抱きかかえられていた。しかもスプーンで掬った抹茶ロールを口に運ばれると、それを不機嫌そうな顔をしながらもモグモグと食べている。おまけに先ほど、この屋敷の一室に強力な術を施し、その力を使い果たしたせいか、なぜかいつもより、さらにチンマリとした姿になっているのだ。せめて、いつもは小学校六年生くらいの背格好をしているのに今は明らかに五歳児くらいの姿である。

 おかげで花子さんのご機嫌がますますうるわしく、大変、苦慮しているところだ。

 とはいえ、今さら、それについては多くを語るまい。そんなことより、この屋敷の一室に施された術について、ちゃんと、もう一度、確認しておいたほうがいいだろう。

 なにしろ、この懸案は弁天町の復興にも関わる重要な事柄なのだから。

「あのさ、さっき二階の一室に施した術のことなんやけど、それって、どういう術なの?」

 俺は興味津々の表情も抑え切れず、大王様に訊ねてみた。

「ああ…、『無間空間の術』のことか。うむ、口で説明するのはなかなか難しいな。つまり分かりやすく言うと、その空間の中と現実世界では時の流れ方がちがうのじゃ。その中での一日は現実の世界における数分ほどにしかならない。そのような異空間であるがゆえ疲労感も空腹感も感じることはない。生身の生きた人間でさえ霊的な存在になれるからだ」

 言ってることの半分も理解できなかった。でも、これだけはなんとなく理解した。

「ということは寝食も必要とせず、永遠にも近い時の中で大いに修行が出来るってこと?」「まぁ、そういうことじゃな」

 さすがは腐っても地獄の閻魔大王様である。そんなことが可能だなんて実に驚きだ。

 俺はいささか感心しながら梅宮工房での一幕を思い返した。


 さても、くだんの工房で普通の人の目にも見えるくらいに実体化した竜平さんに幻の弁天塗を復活させろと命じられた健吾さんであったが、やはりというか、その無茶な要求にはさすがに驚きと戸惑いを隠せない様子だった。

「無理、無理、無理、絶対に無理ですよ!」

 そんな健吾さんに竜平さんは言ったものである。

「せやけど、もはや頼りになるのは、おまえしかおらんのや。ええか、おまえにはちゃんと才能がある。やって、やれんことはない。確かにまだまだ修行不足やけど、そこは特訓あるのみやで。好き放題しとる丸銭百貨店をギャフンと言わせるには今すぐ弁手塗を復活させて世間をあっと驚かせるくらいのことはせなあかん。そのくらいの意気込みがないとあかんのや。今や梅宮一門の一番弟子たるおまえが、そんくらいの気概を見せんと不義理を働いたほかの弟子たちも目を覚まさんやろ」

「でも、どう、がんばったって無理ですよ。だいたい、そんな事で丸銭百貨店が反省するとは思えないし、漆芸品を造るのにどれほどの時間がかかると思ってんですか……」

 健吾さんの言う事はしごく当然のことだった。俺と竜平さんはそろって意気消沈とするしかなかった。そこへ突破口を開いてくれたのがマリリンだった。

「いや、でも、もしかすると大王様なら力になってくれるかもしれませんよ」

「なんや姉ちゃん、その大王様って誰のことや?」

「大王様とは地獄の盟主たる閻魔大王様のことですが」

「えぇぇぇ閻魔様やて。姉ちゃん、冗談もたいがいにしとかなあかんでぇぇ……」

「冗談ではありません。地獄に堕ちても知りませんよ。ともあれ、ご説明しましょう。さて、地獄には表と裏の顔があり、例の裏地獄は、別名、無間地獄と呼ばれております。そこは時間があってないがごとき永遠の中に存在します。その異空間を人界に出現させればまことに都合のよい修行部屋が造れましょう。地獄と繋がる大黒邸なら可能かと思います」

 というわけで、その後の展開に不安を募らせて逃げだそうとする健吾さんを取り抑え、さらに無理やり車の中に押し込み、そのまま強引に拉致したというわけである。

一方、花子さんはもとより今日から『弁天町復興プロジェクト』に出向することが決まっていたので手荷物だけ持って、そのまま大黒邸へ向かうロールスロイスに乗り込んだ。

 必用な荷物は後日引っ越し業者を手配する予定である。


「――とはいえ、いきなり無茶な要求をするものよ。いくら、わらわとて無間地獄のごとき異空間を人界に出現させるなど、そう簡単に出来るものではないのだぞ。おかげで霊力を使い果たして、このざまだ。明日までこの姿のままではないか!」

「まぁ一晩くらいええやないの、明日には元の姿に戻れるんでしょ」

 キャンキャンと喚く大王様に俺は少々うんざりしながら一応なだめるのに努めた。

「よくないわ。周囲の者が、いささか、わらわを軽んじておるような気がするぞ!」

 されど、その横で、あいかわらず花子さんは幸せそうな顔である。

「は~い、あーんして」

「う、うむ。むぐむぐ……。まぁよい。土産ももろたしの。だが先にこれだけは忠告しておくぞ。やはり生きている人間には、あのような霊的な異空間は危険な場所なのだ。なので部屋に籠もるのは、こちら側の世界における二時間くらいにしておけ。霊術を施した時計を手渡しておくゆえ常に経過した時間を確認するのだぞ。でないと、やがて時間の停滞に堪えられなくなり、いずれは、その身に反動が降りかかることになるぞ」

「そうなると、どうなっちゃうの?」

「それはもう、ヨボヨボカスカスの即身仏のようなものが出来あがるであろうな」 

「つまり死んじゃうかも……ってことだよね」

 だって即身仏って、お坊さんのミイラみたいなものなんでしょ。

「じゃぁ、お茶も済んだことやし、さっそく修行部屋へ行くとするか」

 幽霊の竜平さんが意気揚々と席から立ちあがる。

 その修行部屋にはすでに梅宮工房から持ち運んだ数々の道具が揃えられていた。

 大黒邸に居座る妖怪たちが準備万端その用意を整えてくれたのである。

 その中には、あの怨念に取り憑かれている筆と刷毛も含まれていた。

「に、兄さん、今の忠告を聞かなかったの? 無理、無理、無理、絶対に無理!」

 脱兎の如く駆けだし、ダイニングルームから脱出しようとする健吾さん。

「いかん、逃がすな、マリリン!」

「――御意」

応じるやマリリンが素早く健吾さんを確保し、その体を軽々と持ち上げる。

 あいかわらずの馬鹿力である。

「ひぃぃぃぃぃ見逃してくれ。俺はまだ死にたくない!」

 そんな絶叫が扉向こうの廊下から聞こえてきたが、やがて静かになった。

 やれやれ、俺は夕飯の準備に取りかかるとするか。

 夕飯が出来あがる頃には、きっと名人と呼べるほどの漆芸家が誕生していることだろう。


そして、その翌日の正午過ぎである。

 俺はいつものようにゴンさんの運転するロールスロイスに乗って大黒邸を後にした。

 車の同乗者はマリリン。花子さん。健吾さん。そして幽霊の竜平さんである。

 といっても目的地は山の麓にある町内である。

 なので、ものの数十分で到着するだろう。にもかかわらず車を利用するのは別にセレブよろしく怠惰を決め込んでるわけではない。まず、ここで問題なのは、この別荘地の広さである。なにしろ外出するには山の麓までの長い道のりを下りねばならず、それを徒歩で行くには、それ相当の体力が必用なのだ。

 おそらくは、たっぷり二時間以上ものハイキングコースを覚悟せねばなるまい。

 やがて深い森が途切れ、ポツポツと旅館が目立つようになってきた。

 はたして今日も悲しきことに町はひっそりと静まり、観光客どころか猫の子一匹歩いていなかった。

「こりゃまた、えらく寂れとんな。遊ぶ所も少なそうやし。なんか退屈そうやで」

 と竜平さん。うん、まったくもって、そのとおり。たいへん貴重な意見をありがとう。

 さて知る人ぞ知る秘湯と言えば聞こえはいいが、この弁天町は温泉以外の他には何も自慢できるものがないので訪れる人も少なく、どこもかしこも閑散としている。あちこちに空き家が目立ち、そこらじゅうにある街頭スピーカーからは、なぜか古いアイドルソングが延々と流されていたりする。それが妙に哀愁をそそる。おまけに、まっ昼間からピンクのネグリジェ姿でうろつく飲み屋の姉ちゃんにも時々遭遇したりするので、そこはなるべく見ないようにしてあげるのが、なぜかこの町における暗黙の掟となっていた。

 と、まぁ、そんな町である。

 まちがいなく、その知名度は近畿圏内ワースト一位に輝いていることだろう。

「でも、これくらい寂れてるほうが、ぼくは好きだなぁ……」

 車外に遠い目を向けて呟く健吾さん。

 されば昨日の夕方である。大王様の術によって異空間と化した例の修行部屋に放り込まれ、それから数時間後に解放された彼であったが、なんとか無事に生還できたからよかったものの、なんと驚いたことに部屋から出てきた時の有様はすっかりヨボヨボカスカスのお爺さんのような姿になっていた。もちろん、その姿を見咎めた大王様が目くじらを立てるという一幕があったにせよ、それが一刻を争う危険な状況であったのは言うまでもない。

『言わんこっちゃない。あと少し部屋から出るのが遅ければ見事な大往生を遂げていたぞ』

 とはいえ、そのまま放置していては命に関わるので大王様が再生術を施し、それによって、なんとか事なきを得たのであるが、心なしか、どこか少し老け込んでしまったかのように見えるのは気のせいだろうか。

 うん、気のせいであってほしいな。

 と、そんな事を思い返しているうちに、やがて町の大通りに到着した。

 いつもどおり町役場の隣にある駐車場に車を止め、しばらく町の中を散策する。

 まったく酷い有様である。毒々しいネオンに壊れたままの看板――すさまじく年季の入った古ぼけた飲み屋がポツポツと寂しげに建ち並んでいる。そんな腐りきった大通りの中ほどに、なぜか立派な寺が建っている。寺の名は妙音寺。そこが本日の目的地であった。


 それから約一時間後。ようやく読経も終わり、すっかり正座に足が痺れて、我慢も限界に達していた俺は、もはや切羽詰まった顔で額に嫌な汗を浮かべていた。そこへ六十絡みのハゲ頭が体の向きを変え、急にこちらをふり向くものだから一気に緊張感も途切れ、込みあげてくる笑いを堪えるのにも必死になっていた。

 やがて、そのハゲ頭――もとい、寺の住職、厳済和尚が、まっ赤な顔をして汗を浮かべる俺と健吾さんを見かねてか、少し呆れながらに助け船を出してくれた。

「もう、足を崩してもかまいませんよ」

 その言葉にほっと息をつき、俺は住職の言葉に甘えることにした。

 さすがは閻魔様に仕えるだけあってマリリンは平然としたものだった。住職の許可が出てもまったく姿勢を崩さない。花子さんも京女の嗜みか、涼しげな表情を維持している。

 最初から足を崩して胡座をかき、退屈そうにしていたゴンさんはまったく蚊帳の外だ。

 そんな俺たちの近くに竜平さんの姿だけがない。まだ成仏したくないと言っていたので、その辺をブラブラしているのだろう。読経を終えた厳済和尚の前には例の筆と刷毛だけが残され、その二つの道具が経文と一緒に並んでいた。

「やはり、お経をあげたくらいでは、そこに宿る怨念は消えませんかな……」

住職が少し落胆した表情で言った。

 どうやら、この厳済和尚、そこそこ霊感が備わっているらしい。

「ぼくもそう思います。お経をあげてもらったのにすみません。でも、その理由は、ご住職が一番よく知っておいでなのでは? そう思い、昨晩お電話させていただいたのですが」

「ふむ、なるほど。つまりオーナーは、この寺に幻の弁天塗が保存されていると知ったうえで、それにまつわる怪談話を信じていらっしゃると?」

「えぇ、まぁ正直に言うと、そのとおりです。妙に思われるかもしれませんが……」

 ちなみに、この寺に伝わるその怪談とやらについては、昨晩、竜平さんからも少し話を聞かせてもらった。なんでも竜平さんのご先祖様は、その弁手塗を手がけた職人さんと、なにやら深い関わりがあったのだそうな。とはいえ、それもやはり大昔の話である。詳しいことは竜平さんも知らないというので、ためしに寺を訪ね、ついでに今や伝説と化している町の遺産も見学させてもらえないかと思いつき、ここはひとつ怨念のお祓いでも依頼してみるかと、寺の住職に面会の約束を取りつけたという次第である。

「ならば、この寺に伝わる、その怪談とやらを、さっそく披露しましょうかの」

 やがて厳済和尚は咳ばらいをひとつ、その昔話とやらを語り始めるのだった。


「さても、今は、もう昔のことですが、かの弁天山には小さな城が建っておりましてな。その城の主には娘がおりました。その名はお琴。たいそう美しい娘だったそうです。ですが、その娘には悲しい運命が待っておりました。やがて娘は叶わぬ恋に身を焦がし、その果てに身を滅ぼしてしまったのです。その想い人の名は小太郎。その当時、京の都で活躍していた漆職人です。それはもう美しい青年でした。おまけに職人としての腕も天下一品。そんな噂がある日、城主の耳に届いたのでしょう。城主は、その者を、この町に招きたいと考えました。ところが彼は都でも有名な職人です。いくら金を積んだところで、なかなか求めには応じてくれませんでした。そこで城主はさらなる条件を出したのです。満足のいく働きをしてくれた暁には我が娘を褒美に与えると――」

 そこまで一気に語るや厳済和尚は目を瞑り、それから一度お鈴をチーンと鳴らした。

「ところが、そこまでするには、やはりそれなりの魂胆があったのです。なんでも城主が仕える紀州徳川家の姫様が、どこぞの大名家に嫁ぐことが決まり、その嫁入り道具を造る職人を選ばねばならなかったのです。きっと城主はそのチャンスを出世の足がかりにしたかったのでしょう。されば自分の娘を与えるつもりなど最初からなかったのです。ですが、このような小さな町に京の都でも有名な職人がやって来ればあっというまに噂になります。おかげで彼と弟子の造る作品は弁天塗と呼ばれ、大層な評判を勝ち得ました。ちなみに弁天様のデザインが多かったので、そう呼ばれたそうです。はたして、その評判は、もちろん娘の耳にも届いたことでしょう。やはり、そんな噂を耳にした娘は、ある日、その評判になっている噂の男をひとめ見たいと思い、町へと出かけ――」

「つまりゾッコンになっちゃったと? なんだか、ありがちな話だね……」

 少々肩すかしな気分を味わいながら俺は厳済和尚の話に割り込んだ。

「そうです。まぁいわゆる一目惚れというやつですな。そんな訳で、いつしか二人は互いに惹かれ合うようになり、小太郎は娘に豪華な装飾を施した琵琶を送って気持ちを伝え、娘もまた自分の髪を切って刷毛を造らせたり、または腕のいい職人に筆を造らせたりして、その気持ちに応じたといいます。そして時は流れ、やがて小太郎はその筆と刷毛を使って立派な嫁入り道具を完成させました。ところが、それが完成した夜のことです。なんと不憫なことに小太郎は何者かによって殺害されてしまったのです。彼を殺したのは城主の家来でした。もちろん、それを知った娘は悲嘆にくれ、その夜のうちに愛しき人の後を追い、井戸に身を投げてしまったのです。その一方で、小太郎の造った嫁入り道具は紀州徳川家の目に止まり、城主は褒美を貰って出世の糸口を掴んだかのように見えたのですが……」

「ちょっと待って。小太郎さんを殺しちゃったのに、どうして褒美が貰えんの?」

「そこはすでに立派な嫁入り道具が完成していたので彼の生死など、どうでもよかったのでしょう。それに、いざとなれば彼の弟子から替え玉を選べばいいだけの話ですからね」

「うわぁ、えげつなぁ。いくら娘を与えたくないからって、そりゃ酷いよね」

「仰るとおり残酷な話です。しからば、その嫁入り道具からは夜な夜な琵琶の音とともに娘の噎び泣く声が聞こえてきたそうです。おかげで不穏な噂が立ち、そんな品を殿様に献上した城主は切腹を命じられ、お家は断絶となり、まもなく井戸から娘と彼女が大切にしていた琵琶も引きあげられ、その亡骸は小太郎とともに埋葬されたそうです。ですが、それでも嫁入り道具からは琵琶の音がやまず、小太郎の筆と刷毛には怨念が宿り続け、それを引き継いだ弟子の命を奪っていきました。そう、ある者は狂気に取り憑かれ、ある者は思い悩ん末に首を吊ったといいます。おまけに娘が身投げした井戸から、ある日突然、熱湯がふき上がったりしたものですから、それには誰もが畏れを抱きました。そこで高名な僧侶が招かれ、呪いを封印する儀式が行われたのです。そして一人生き残った弟子には、ある使命が与えられました。そう、いつか必ず究極の弁天塗を完成させるようにと――」

「なるほど。それが、この町の本当の由来でしたか……」

「ええ、井戸から湧いた温泉は、いつしかお琴の魂を慰めるため弁天の湯と呼ばれるようになり、そんななか、いつか師匠の無念を晴らさんと決意した弟子が、その呪われた筆と刷毛を携え、いずこかへと旅立っていったそうです。その子孫が代々にわたり漆職人を排出してきた竹林一族だったのです」

 その最後の子孫が竜平さんだったのだ。

「つまり簡単にまとめると、宿る無念を晴らさないと呪いは消えないってことか。やっぱり避けては通れへんのやろか? 怨念なんて無視しても、ええような気がするんやけど」

「ですよね。ぼくも怨念なんて勘弁してほしいです。きっと兄さんは呪い殺されたんだ。先生が、お倒れになったのも、そのせいですよ。そんな呪いは寺でなんとかしてください」

 すっかり青ざめた顔の健吾さんが住職に頭を下げる。

「じゃが、何度、お祓いをしても無駄であったとの言い伝えでのぅ。しかも、その筆と刷毛は勝手に持ち主を選ぶのじゃ。じゃから法力を用いて封印するしかなかったのだが……」

「だったら、どうすりゃいいんです? …っていうか誰がそんな封印を解いたんです?」

「あ、すまん。それ、俺やねん……」

 ふと見れば、そこに幽霊の竜平さんがフワフワと浮かんでいた。

 読経も終わったので、そろそろいいかなと思い、寺の本堂まで戻ってきたのだろう。

「今、思いかえせば若気のいたりやな。その怪談は小さい頃から俺も爺さんによう聞かされててな。そりゃ興味も湧くやんか。俺の親父は工芸なんて興味なしの銀行マンやったから病気で死んだ爺さんの遺産は俺が受け継いだんや。その中に、その怪談に出てくる呪いの道具を封印した箱も含まれていたんや。それは表面が見えんくらい仰山のお札が貼られた不気味な箱でな。さすがにゾッとしたけど、つい恐いもの見たさに……」

 なんと、そんなくだらない理由で封印が解かれてしまったのか。

「ほんまに死ぬとは思わんかったけどな。あはははははは……」

 おい、泣きながら笑ってんじゃねぇよ!

「ほほぅ、オーナーは、これまたなんとも図々しい幽霊を連れておりますなぁ」

 もちろん、ここは大黒邸ではないので今は閻魔帳を使って竜平さんを実体化させている。

 さすがは寺の住職である。実体化した幽霊を見ても実に平然としたものだった。

「ともあれ、いかにくだらぬ理由であろうと、いったん封印が解かれた今となっては、また新たな犠牲者が出るやもしれませんぞ。――んん、むむっ、なんと拙僧の見たところ、すでに怨念に取り憑かれておる者がそこにおる」

「――すまん。こうでもせんと、弁天塗の復活なんて夢のまた夢やったさかいに!」

 竜平さんが片手拝みで健吾さんに謝罪する。

「もしかして兄さんはこうなると分かっていて、あの道具を、ぼくに使わせたのか!」

「でもさぁ、竜平さんの死因と怨念とは、やっぱり直接的には関係ないと思うんだよね」

 俺はこれまでの事柄を頭の中で整理しながら言ってみた。

「どうして、そう言い切れるんですか?」とマリリン。

「いやだって、これまでの話からするに、あの道具に宿る怨念は人を呪い殺しているっていうより、むしろ過労死させてるっていうか、ノイローゼに追い込んでいるというか、なんか、そんな感じがするんやもん」

「あの…、オーナー、その憶測になんの意味が? まったく希望が見えませんが?」

「いやいや、そこは俺もオーナーと同じ意見や。なにしろ、あの道具に魅入られた瞬間から漆芸のことで頭が一杯になってしもうてな。気づけば寝るのも惜しんで作業に没頭しとんねん。おそらく小太郎さんにとって、この寺に残る作品はまだまだ道なかばの作品やったのとちがうやろか。もっと腕を磨きたいと思うのは職人にとって当然の欲求やさかいに、人を恨むよりも、そっちの執念のほうが勝っていても不思議やない」

「でも、そんな確証はどこにもないでしょう。頼むから、なんとかしてくださいよ!」

 すると住職は言い切った。「絶対に無理じゃな」

 いや、なにもそこまで言い切らなくても。俺はいささか呆れた気分で言葉を継ぐ。

「けど、見たところ健吾さんは、そこまで切羽詰まった様子には見えないんやけどな」

 少し首を捻りながらも怪訝な面持ちで健吾さんも頷く。

「……そういや、そうですね。確かに、あの筆と刷毛を用いて作業をしていると、なんというか無我夢中になってしまうのですが、今はそれほどでもないというか……」

「もしかすると、怨念の力が弱まってきているのかもしれないよ」

 俺はさらに憶測の上に憶測を重ねた。

 それでも健吾さんの顔色は一向に晴れない。

「でも、やはり、そうとは言い切れないでしょう……」

「いや、オーナーの言うとおりやと思うで。こうなったら、ついでに、その怨念もなんとかしたろやないか。ここは腹をくくって修行を続けよ。大丈夫や。必ずええ作品が造れる。俺も憑いてるから一緒にがんばろ!」

「うぅ、そんな殺生な……もとはと言えば兄さんが全ての元凶じゃないか。なのに、なんでそんなに楽しそうな顔ができるんだよ!」


「ううっ、泣けるほどうまいっす!」

 鍋の出し汁を一口すすっただだけなのに健吾さんはその両眼からボタボタと涙を流し、感涙ここに極まれりとばかりに声を震わせた。

「生きていて本当によかった!」

 まぁ、いささか大袈裟だとは思うが、それも致し方あるまい。

 なんといっても命懸けの修行を成し遂げたのである。

 そのおかげで、ついに、あの幻の弁天塗が完全によみがえったのだ。

 その作品の数々がずらりと室内に並べられていた。

 ここは大黒邸の一階にあるお座敷である。

 その一角で、俺たちは具だくさんのちゃんこ鍋を囲み、その成果に祝杯をあげていた。

「ほんに若旦那様は料理もお上手で頭が下がりますなぁ……」

 花子さんが感心した面持ちで健吾さんの器に鍋の具を取り分ける。その煮え立つ鍋の中には旬の魚介類や鳥の手羽先や豆腐や野菜が煮詰まっていた。作り方はいたってシンプルだ。まず色々な具を鍋に入れて一切の水気もなく蒸しあげる。すると、ゆっくりと火が通るのと同時に具材から旨味の詰まったスープが沁みだしてくる。そこに時間をかけて別に煮出しておいた鶏ガラスープを加え、さらに味に深みを加えれば完成だ。じわじわ蒸したほうが野菜も歯ごたえが残り、肉も柔らかく滋味豊かに仕上がるといった寸法である。しかも凝縮されたスープがこれまた堪らない。手軽に作れる鍋も一手間加えるだけで、さらなる進化を遂げるというわけだ。ともあれ現実の時間に換算すると、およそ数百年分にも及ぶであろう過酷な修行を完遂させた健吾さんにとっては、まさに生きた心地が実感できる、そんなご馳走になったのは言うまでもない。

「しかし、よくぞやり遂げたのぅ。もう少しで大往生するところじゃったのに……」

 舐めるだけで骨まで取れる手羽先の残骸をしつこくしゃぶりながら大王様が健吾さんの苦労を労った。その恍惚とした表情で旺盛な食欲を満たすその視線の先にあるのは厨子棚、鏡台、文台、書棚、硯箱などといった調度品の数々だ。

 それら健吾さんが完成させた作品は、あの妙音寺で見学させてもらった小太郎さんの遺作、『弁天塗大名婚礼調度一式』にも勝るとも劣らぬ――いや、それを、さらに超える超一級の美術工芸品といっても過言ではなかった。

「――ともあれ、これで、ひとまず一件落着でございますな。ご主人様」

 きちんと正座し、背筋をぴんと伸ばしながらマリリンが言った。

「うん。そうだね。一応は……」

 それについては俺も自分の目でちゃんと確認している。そう、健吾さんが、あの呪われた筆と刷毛を用いて修行を重ね、失われた幻の技を苦労の末に現代によみがえらせたのだ。 さぞかし怨念も満足したことだろう。

 あれほど感じられた禍々しさはすっかり消え失せ、むしろ愛しあうお琴さんと小太郎さんの仲むつまじさが、そこには宿っているかのようにも感じられた。

「あのさ、思ったんやけど、あの筆と刷毛は健吾さんが受け継いだららええんとちゃう?」

 唐突ながら俺はずっと考えていたことを口にしてみた。

「そうやな。そうしてくれると俺も安心やな」

「でも、いいんですか。ぼくなんかが竜平さんの大切な道具を受け継いだりなんかして」

「なに言うてんねん。おまえはもう日本一の漆芸家やねんぞ。おまけに究極の弁天塗を完成させ、小太郎さんの無念を晴らしたんや。他に相応しい奴がどこにおるねん?」

「ううっ、ぼくはもっと兄さんと一緒に仕事がしたかったよ」

「うちも、ずっと本当の兄さんのように思うてたのに……」

 花子さんの両眼も健吾さんにつられてか、じょじょに潤み始める。

「すまんな、二人とも。でも最後に、ほんの数日やけど、一緒に過ごせたんやから堪忍したってや。ほんまおおきに。世話になったな。元気で暮らせよ。二人とも幸せにならなあかんで。あ、そろそろやな。もう思い残すこともないし、ぼちぼちと逝きますか――」

 やがて、その姿が淡い光に包まれ、薄くぼやけだした。

 そこに天界からの使者である天女が姿を現し、異界の扉が開かれる。

「に、兄さん!」

「――竜平さん!」

「ほなさいなら、みなさん、お達者でぇ――」

 最後は呆気ないものだった。はたして一瞬にして、この世から消え去ってしまう。

「なんとも名残おしいのぅ……」

 と呟く大王様の声にもどことなく悲しみの響きが感じられた。いや、そうではなかった。彼女の視線は肉の削げ落ちた骨の残骸へと向けられている。見れば、そこだけ、やたらと骨の山がうず高い。その骨の山をマリリンとゴンさんが、いかにも悔しげに睨んでいた。 なるほど。何者かが権力を武器にして鍋の中の手羽先を独占していたのだろう。

 あまった手羽先は、また明日の夕食にでも使おうと思っていたがしょうがない。

 俺は台所へ行き、残りの具材を冷蔵庫から出し、それを持って再び自分の席に戻った。

 その間も二人の嗚咽は続いていた。無理もない。なにしろ突然のお別れだもの。

 しかも、ここ数日、最後の思い出とばかりに、この屋敷で一緒に過ごしてしまったのだ。

 それだけに惜別の悲しみは否応もなく増してしまったことだろう。

「いや、駄目だ。今は泣いてる場合じゃないんだ!」

「そやな。今夜はとことん食って元気ださな! 後の事をうちらに託して竜平さんは成仏しはったんや。めそめそしてる場合やない。勇気だして悪辣な百貨店に立ち向かわんと」「そうだね花ちゃん」

 やおら持ちあがる泣き顔。

 その涙を拭おうともせず、二人は猛烈な勢いで食べ始めた。

「あぁぁぁぁぁぁ……わらわの手羽先がぁぁ!」

「まったく肉ばっかり食ってないで野菜も好き嫌いせずに食べなさい!」

 そんな大王様のお椀を野菜でてんこ盛りにしながら俺はマリリンに命じた。

「まぁ、ここから先は俺の役目だね。さっそく三朗さんに連絡を取ってくれないか」


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