第6話 百貨店戦争

 すっかり木の葉も色づき始めた十一月のとある日曜日のことである。

 俺はゴンさんの運転する白いロールスロイスに乗って京都の市街を移動していた。

 その車の窓から見える風景は予想を覆すことなく、どこもかしこも人で溢れかえっていた。さても一年を通じて、なにかと人気の高い京都だが、この時期の風情はことさら格別なのだと言えるだろう。なにしろ茜色に染まる木々が町のあちこちに彩りを添え、これまた幻想的ともいえる情緒を醸しだしているからだ。

 おかげで名物でもある車の混雑は、もはや牛の歩みのようにノロノロしている。

 もちろん覚悟はしていたが、やはりこんなシーズン真っ盛りの休日に京都の中心部へと自家用車で乗り込むのは、きわめて愚かな行為だと改めて認めざるをえなかった。

 やがて純白の車体は、その渋滞から逃がれるように車道わきの横道へそれ、そこから続く地下の駐車場へと下りていった。そして、しばらくその迷路のような空間をさまよい、適当な場所に停車すると、静かにバックして白線のうちギリギリに収まった。

 はたして大黒邸を出発して高速道路をひた走り、片道約二時間もの末に到着したのは、ここ京都の駅前にたつ巨大な商業施設――その名も大黒百貨店である。この百貨店は言わずもがなダイコクグループ傘下の高級デパートで、この京都店以外にも札幌、仙台、東京、横浜、名古屋、大阪、博多、バンコク、シンガポールなどの各都市に合わせて二十もの支店を構えている。

「ふうぅ、やっと着いたぁ~」

 俺は車内に大きく息をはき、そのついでに自分の隣に座る女にこう告げた。

「あのさ、せっかく、ここまで来たんやから買い物につきあってくれてもええやろ?」

「ほう、ご主人様が、かようなデパートでショッピングとは、これまた珍しきことで?」

「はぁ、なに言うてんねん? ショッピングなんて毎日、隣町の商店街でもしてるやろ。誰が大根とか抱えて、その日の献立に悩みながら、うろつき回ってると思てんねん」

「いやはや、これまたダイコクグループの総帥様がダイコン抱えてなどと、よくもまぁ、そんなセンスのない駄洒落を。くっくっくっ」

「いや、別に笑いが取りたかったわけやないねんけどな。――って、このドアホ!」

 はてさて関西人なら、どんな冗談でも笑いさえ取れれば、それはそれで大いに満足できるのだが、この場合は人を小馬鹿にしてるとしか思えない。

「あのな、要するに、他に頼める奴がおらんから大根なんか抱えとんのやろ!」

「ほほぉ、それならば、このマリリン。立派に使命を果たしてごらんに――」

「ふーん、君に、そんな大役が務まるとは知らなんだな」

 腹だちまぎれに、そんな彼女のほっぺを捻りあげる。

「痛い。痛い」

「どーや、思いだしたか。君にナスビを頼んだら何を買うてきた?」

「ナスビの苗」

「うわぉ! まったく予期せぬ楽しき家庭菜園――って、このボケナス! どこの世界に、その日のおかずを一から育てるアホがおんねん。しかも、なんの躊躇いもなく軽トラ一杯分にも相当するナスビの苗を大量に持ち帰りやがって!」

「でも、あれは売れ残り品でした。タダも同然でした。それにちゃんと育ててます!」

 大黒邸の玄関前には、それは立派な英国風ガーデンが広がっている。

 それはもう園芸雑誌がしょっちゅう取材を申し込みに来るほどの素晴らしい庭園だ。

 その一角が、ある日突然、広大なナスビ畑に変貌した。

「あたりまえや、植えたからにはちゃんと育てなしゃーないやろ!」

「……おかげで、たくさん収穫できました」

 とうとう涙目になる自称有能秘書にさすがの怒りも萎えてきた。

「しかも吸血鬼のくせに、トマトならまだしもナスビが大好物やなんて意外性をアピールするにもほどがあるやろ。……いや、それにしてもや。畑に植えて三日で大量に収穫できるとは、まさに驚き桃の木、ナスビの木ってやつやな……」

「ふっふっふ……そこは魔法のなせる技でございますぞ。ご主人様」

 ニヤリとほくそ笑む自称有能秘書に俺は目を細めた。とりあえず自信まんまんのギャグを滑らせた事については、このさい知らんぷりを決め込んでおく。

「ははーん。なるほど。やっぱり、そんなことやと思うてたわ。今度、君とは魔法の使用について、とことん議論する必用があるな」

 とはいえ意外にも彼女は植物の世話をするのが好きなようだ。けなげにも庭の手入れもしてくれるので、そこは大いに助かっている。

「つまりマリリン、大活躍でございます」

「えーい勝ち誇るな。忘れたとは言わせんぞ。醤油をたのめばソースを買い、スパゲッティをたのめばソーメンを買ってくる。そんなボケナスに買い物なんて任せられるかいな。それに君、ちゃんとイワシとサンマの区別くらいはつくようになったんか?」

「でかいのがイワシで、ちっちゃいのがサンマ」

「あかん。もはや絶望的や。まぁええ、そこはとっくに諦めてる。そんなことより言いたいのは、百貨店に来たからには、絶対にデパチカは見とかなあかん、ちゅうことや!」

 そう、なにしろ京都といえば大坂にも負けない美食の都だ。俺はさっそく、お気にのショルダーバッグを開け、中から財布を取りだし、本日のおこづかいをチェックした。

「ところで、ご主人様――」

「なんや、今、忙しいねんけど?」

「レシートやポイントカードで財布をパンパンにするのは、おやめください。今や、あなた様は世界屈指の資産家です。それなりの振るまいを心がけてもらわねば……」

「そうはいうても、誰かが家計をやりくりせんといかんやろ」

「ついでに言えば、私のおこづかいが、一日、五百円というのも……」

「いや、そこは君が決して無駄遣いをしないと誓うなら考えてもええんやけどな」

「ううっ。……まぁ、それはそれとして今日の予定ですが……」

 そこで、しょんぼりと言葉を切り、じっとりと視線を搦めてくるこの女の名はマリリン。地獄の捜査官である俺の補佐を務める外国産の吸血鬼だ。その立場上、なぜか彼女は俺の秘書であることを自らの使命としており、とかく身の回りの世話を焼きたがる。その出で立ちは今日も黒のワンピースに白いドレスシャツ。その上に例の黒コートを羽織っている。 ちなみに俺はTシャツにジーパン。その上にパーカーといった軽装だ。

「さて、残念ながら渋滞で到着がかなり遅れてしまいました。なのでデパチカに寄っている暇はございません。なにしろ本日は百貨店で催される展示販売会に足を運び、次期、人間国宝の呼び声も高い漆芸作家、梅宮鳳泉先生にご挨拶を申しあげ、協力に応じてくれた従業員の方にも感謝の意を伝える予定になっておりますから」

「せやけど、ちょっとくらいは……」

「いえ、そもそも遠路はるばる和歌山から京都くんだり出向くというのに舞妓さんのコスプレも堪能せず、日帰りにするとお決めになられたのは、ご主人様でございますぞ。本日のスケジュールは立て込んでおります」

 うん、まぁ、そこは日帰りにして正解やったと思うんやけどな。

「……っていうか、ゴンさんは一緒に行かないの?」

 見ればゴンさん、さっそく運転席をリクライニングさせて帽子で顔を隠している。

「おいらは、ここで昼寝しているでやんす」

 今日も背広にワイシャツと、どこから見ても運転手の姿をしているが、この狐顔の青年もまた人ではない。その正体は化け狐の妖怪である。

「ならば、ここに残して留守番でもさせておきましょう」

 そう言うや、さっさと車から降りるマリリンであった。


 大黒百貨店の入口は、そこからさほど離れていなかった。

 俺とマリリンは入口付近にあるエレベーターに乗り、ビルの六階をめざした。六階には美術品のギャラリーがある。やがてエレベーターの扉が開き、そんな店内の様子が窺えた。

 本日の目的である展示会は、そのギャラリーの一角で催されている。

 その受付に小柄な女性が座っていた。まだ十代でもとおりそうなあどけない容姿に眼鏡といった取りあわせ。紺色のワンピースに黄色いスカーフはこの百貨店の制服である。

 俺はその女性に展示会の優待チケットを手渡しながらマリリンに訊ねてみた。

「あのさ、いきなり押しかけてもよかったの? 先に報せたほうがよかったんやない?」

「あっ、それは忘れておりました」

「あのな、そこを忘れちゃ秘書としてどうかと思うんやけどな。……まぁいいや。あの、今日、ここで、梅宮鳳泉先生や美術部の方と面会する予定になっているんですけど」

「失礼ですが、どちら様でしょうか?」

「大黒摩耶といいます」

「はい、オオグロ様ですね……って、オーナーやないですか! 只今、部長をお呼びします。部長ぉ、大変どす! 若旦那様がご到着どす。どないしまひょ。お迎えにもあがらずに。はい、支店長を呼んでまいります。ひとまずは応接室にご案内しますよって」

「あのぅ、おかまいなく……」

 と言おうとしたけど、まにあわなかった。

「少々お待ちください」と言い残して女性店員は走り去ってしまう。

「マリリン。つかぬことを聞くけど、若旦那様というのは京都では一般的な呼称なの?」「はて何かお気に召さないことでも?」

「うん、誰も普通に呼んでくれへんから、ちょっと悲しくなっちゃって」

「えっ、普通ですか? それはいけません。私の場合、アイデンティティーを保持するためにも、ご主人様とお呼びしとうございます」

 俺の希望は少しも考慮してくれないのか……。いや、もうこの際どう呼ばれようとそこは我慢するしかないのだろう。それを気にしだすと無明の闇しかないような気がする。

 やがて社員の右往左往する様子がどこからともなく聞こえてきた。

 お得意様用の玉露はどこへしもたん? えっ、切れてる? こんな大事な時になんやのそれ。京都いうたら宇治のお茶やないの! でも茶菓子は抹茶のロールケーキを用意しておりますよ。あのぅキリマンジャロならありま~す。茶菓子が抹茶ならコーヒーはギリでOKやな! 社員の慌てぶりがダダ漏れである。その場に放置されている俺は恥ずかしいのやら居たたまれないのやら。おまけに周囲の目もすごく気になって仕方がない。

「なんや大騒ぎになってるんやけど……」

「まぁ、社員たちの慌てぶりも無理はございますまい。経営権を放棄したとはいえグループの実質的な支配者はご主人様です。ダイコクモールやコンビニのラッキーセブン。大黒百貨店にダイコクホテルなどの系列会社。その株のほとんどを受け継いだご主人様はグループの総帥にして、誰もが認めるオーナーでいらっしゃいます」

「まぁ、そう言われても、まだピンとけーへんのやけど……」

「そこは慣れていただくしかございません」


 さて、そんな俺たちがなぜ京都くんだり、この百貨店を尋ねる事になったのかというと、その理由を説明するには一週間ほど前まで記憶をさかのぼらなければならない。

 さても、その日、大黒邸では、前々から計画していた屋敷内の一斉清掃が行われることになり、はたして、そのイベントには地獄からも大勢の助っ人が集まっていた。

「本日はお集まりいただき、まことにありがとうございます」

 午前八時のことだ。大黒邸一階のロビーに集結した妖怪たちを前にして俺は丁寧な挨拶をした。朝っぱらから百鬼夜行のごとく妖怪がひしめく光景はなんとも名状しがたいものがあったが、屋敷の主としては、やはり礼儀を欠くわけにもいかなかった。

 なにしろ地獄の極卒たちは年中無休。そんな日頃の多忙になんとか都合をつけて足を運んでいただいている。おまけに集まった妖怪のうち数名は引き続き屋敷の専属スタッフとして居残ることが決まっており、その決定を下した十王の一人、五道転輪王様も、その日はこのイベントにご参加とあっては、さすがに緊張の度あいも半端ではなかった。

「とはいえ、そう緊張されてはやりにくうござる。ここは心おきなく我らを使役してくだされ。この広い屋敷に地獄の拠点を築くことができたのも、ひとえに摩耶殿のおかげです。おまけに大王様までお世話になっているのですから、協力するのは当然でござるぞ」

 これは後で聞いた話だが、彼は十王になる前は立派なお侍さんだったそうだ。そのせいか、やけに古風なキャラクターなんだけど……。しかし、そこは現代風にアレンジされた十王様の一人である。なにしろ着ている服は洒落たブランドもののスーツ。おまけに、すらっとした細面に肩まで伸びるサラサラのストレートヘア。そのイケメンぶりは男の俺でもつい見とれてしまうほどレベルが高い。おかげで、その日もだらしなく寝間着姿のままでいた大王様には普段の倍増しで失望せずにはいられなかった。

 寝室にしている個室の扉をドンドンと叩いて強引に起こしたせいか、かなり不機嫌そうにすっかり冷えて固まった朝食のトーストをもぞもぞと咀嚼しながら寝ぼけ面を隠そうともせず、ともすれば立ったまま鼻フーセンを膨らませていた。これには普段から大王様を敬愛してやまない妖怪たちもすっかり呆れはてた様子であった。

「いくらなんでも、あの態度は引くわぁぁ」

「さすがに、あれではアホ丸出しではないか……」

 だが寝ぼけていてもさすがは大王様である。

 悪口には敏感に反応し、絶妙なタイミングで鼻フーセンを破裂させた。

「えーい、誰がアホなお子様じゃ! わらわは地獄の盟主だぞ。なんで掃除なんぞ手伝わねばならんのじゃ。今日はもう少し寝ておるから、すべてが終わったら報告せよ」

 あーあ、すっかり臍を曲げちゃってさ。

「ふーん。せっかく腕によりをかけてカレーを作ったのにいらないんだ。でも今日働いてくれた人たちには、ご馳走するから楽しみにしててよね」

「おぉぉカレーじゃ、カレーじゃ! ご馳走じゃ。摩耶殿は気前がよい」

 妖怪たちの士気が一気に高まる。なんとカレーは地獄でも人気のメニューであるらしい。そこまで喜んでくれるなら頑張って作った甲斐もあるというものだ。俺の作るカレーは親父直伝のレシピを再現したものである。まずベースとなるスープは丁寧に取ったチキンブイヨン。そこに飴色に炒めたタマネギ、人参、トマト、セロリ、キャベツやすり下ろし林檎を放り込み、さらにスジ肉と一緒にトロトロになるまで煮込む。そして、これまた親父から伝授された秘伝のスパイスに加え、さらに隠し味にコーヒー、蜂蜜、ビネガー、ヨーグルトなどを混ぜ込んで完成する。

「ちなみに働かざる者食うべからずの精神にのっとり怠けた者はレトルトのハヤシライスで辛抱してもらいます」

「当然じゃ当然じゃ!」

 俺はにやりとほくそ笑み、大王様を一瞥した。

「うぐぐ、なんという卑劣な。カレーライスを目前にしておきながらハヤシライスで我慢しろとは貴様は鬼か!」

「ちゃんと手伝ってくれたら食べてもええんやけどな」

「えーい分かったわ。人一倍働いてくれるわ!」

と、そんな愛らしい膨れっ面も微妙な隠し味に、その日の一斉清掃は開始されたのだ。


 ところが、その日の夕方だった。ようやく全ての作業が終わり、そろそろお開きにしようかという頃になって一階の玄関広間の右側にある暖炉の下から地下へと続く秘密の通路が発見されたのだ。暖炉には装飾された獅子の彫刻があり、その右目を押すと壁にマントルピースが収納され、その開いた空間から地下へ伸びる階段が現れる仕組みになっていたのである。拭き掃除をしていた一つ目小僧が偶然このカラクリを発見した。

 そこで俺は、大王様やマリリンを従え、その地下室に下りてみることにした。

 階段を下りきった所に扉があり、それを開けると自動的に蛍光灯が灯るようになっていた。地下室の広さは六十畳ほど。その広い空間には所狭しと棚が組まれ、そこには数々のお宝が保存されていた。

「うむ、どれもこれもかなり貴重なものばかりじゃな。陶芸、磁器、絵画。なかでも漆芸品の多さに目を瞠る。この完成度の高さからするに、おそらく江戸時代頃の作品であろう。だが驚きじゃな。その時代の美術工芸はあまり日本には残っておらぬはずじゃからの」

「あのさ、大王様って、こういう美術品にも詳しいの?」

「それほど、詳しいわけではないが、いろいろな時代を見てきたからの」

 へぇぇ、と感心しながら目をやると、大王様は精巧な細工の重箱を手に取り、それをしげしげと眺めていた。ほかにも貝殻細工の美しい硯箱や、細かな彫刻の施された朱色の入れ物など、さまざまな工芸品に興味津々のご様子である。

「ひょっとして、こういうの好き?」

「わらわとて女子じゃもの。綺麗なものは好きじゃ。堆朱の小物入れに、螺鈿細工の硯箱。蒔絵もみごとな漆の重箱。いずれも名のある職人の作品であろう」

「――堆朱って?」

「ふむ、堆朱とは漆を厚く塗り重ね、そこに浮き彫りを施す技術のことじゃ。薄い貝殻を貼りつけて細工をする螺鈿。それと同じく中国や韓国から伝わった技法である。一方、蒔絵は金粉や銀粉を漆の上に散らし、さらに磨きあげて模様を描く日本独自の技術での。そのおかげで漆の工芸品は日本でさらなる発展を遂げたのじゃ」

「あのさ、どうして江戸時代頃の作品があまり残っていないの?」

「それはの、その頃の工芸品の多くが海外へ売り飛ばされてしまったからじゃ」

「ふーん……。でも、なんで、こんなお宝が山のようにあるんだろ?」

「ふむ、詳しいことは三朗にでも訊けば分かるのではないか?」

 はたして、ことの次第はこうだった。


「仕事で海外へ赴くたびに大黒社長がコツコツと買い集めていたのですよ」

 電話を通じて三郎さんはそう言った。

「とくに日本の貴重な漆芸品の多くはアメリカやヨーロッパに集中しておりましてな。社長はそれを、これからの日本のためにと自分の財産を投げうち、コレクションしておいででした。それらの品々は建設を予定していた美術館に収めるつもりだったようです」

「へぇぇ、美術館を建てるつもりだったんだ」

 俺はすごく興味をひかれた。うん、それはすごくいいアイデアだ。

 なにしろ、この山の麓に広がる弁天温泉は近畿圏内においては、おそらく最も注目されていない観光地である。なんといっても和歌山県下には数多くの温泉がひしめきあい、他にもたくさんの観光地がある。古くは江戸時代から続く温泉宿場の様子を今に伝えるも、これといった観光名所もない弁天町はすっかり落ちぶれ、今じゃ日帰りの観光客すら望めない悲惨な状態になっている。今後はいかに訪問者の数を増やしていくかが最大の課題になってくるだろう。そのためには四つの要素が重要だと俺は考えている。

「……これからは単に名所を見て、大きなホテルに泊まる観光はもう時代遅れなんだってね。町全体が一つの遊園地みたいに楽しめる場所にならなくちゃいけない。そんな遊べる観光地を目指さないといけないんだ。見るべきもの。美味しいもの。体験し遊べる楽しさ。そして集まり交流できる場所。そんな魅力が観光客の数を増やすんだと町興しの専門書には書いてあったよ。でも残念やけど、今の弁天町には、これといって面白いものがない。だけど、なければ造ればいいってことだよね」

「そのとおりです。さして観光名所などなくても町のシンボルとなる美術館や博物館を造ったり、時代劇に出てくるような店を増やして雰囲気そのもので魅力を感じさせる。そんな取り組みで観光客を増加させた町はたくさんあります。その第一歩に社長は美術館を考えていたようです。社長は日本の工芸界にも役立ちたいと思っていたのでしょう。なんでも弁天町には、今や伝説と化した幻の漆芸品――その名も弁天塗と呼ばれる名物が存在していたんだそうです。社長は、その復活を夢見ていたようなのですが」

「ふーん。となれば、その社長の夢は俺が受け継ぐべきやと――そういうわけやな」

「さすはがは、おぼっちゃま。この三朗、目から涙が滴り、思わず尻尾を出して……」

「いや、尻尾は出しちゃ駄目だから。それで、その幻の弁天塗とやらは、どうやって復活させるつもりだったの?」

「それがですね。これまた残念なことに、その仕事を依頼していた作家先生が病気でお亡くなりになられ、その仕事を受け継いだお孫さんもまた交通事故であえなく……」

「うわっ、なにその不幸の連続! ――ってことは計画は断念せざるをえないってこと?それはないよ。失われた伝統工芸を復活させるなんて、いかにもテレビ局が飛びつきそうなネタやし、それを上手くアピールできれば観光客の増加にも繋がりそうやのに」

「私もそう思わずにはおれません。ただ救いは、ほんの数点ですが、幻の秘宝が町のお寺に残されております。それを元に、もう一度その取り組みに挑戦するほかありますまい。いくら美術館をオープンさせても幻の漆芸品をよみがえらせ、その技と伝統を後世に伝えるという取り組みがなければ、さすがにマスコミも飛びつかないでしょう。これは弁天町を復興させるための支柱とすべき挑戦ではありますが……しかしながら」

「いや、でも、やってみるよ。挑戦しないと何も始まらないしさ……」

「でしたら、是非とも会っていただきたい人物がおります。その準備は私が致しますので、来週の日曜日に京都の大黒百貨店までお越し願えますか?」


 というわけで、今、俺たちはその百貨店の六階にある美術ギャラリーの応接室にいる。 室内に置かれたテーブルの上には抹茶のロールケーキとコーヒーが用意されていた。

 実に美味そうなんだけど、残念ながらそれを味わうにはもう少し時を待たねばならなかった。というのも室内には今や大勢の社員が勢揃いし、おまけに揃いもそろって競い合うように名刺を差し出してくるので、それどころの話ではない。しかも、その度に大仰な挨拶を受けるのでソファーに腰かける暇もない。怒濤の勢いで人と人が入れ替わり、うず高く名刺が積み上がっていく。あまりの忙しなさに目が回り、すっかり疲労困憊である。

 やがて、その嵐のような通過儀礼が一段落し、やっと落ち着いてケーキにありつくことができた。俺はわくわくしながらフォークを手に取り、小さく切ったスポンジから抹茶色のクリームがこぼれないよう注意しながら口に運んだ。

 う、うまいっ! なんやこれ。超美味やないの。口の中が一瞬にして至福に満たされた。 ふわふわのスポンジに、ねっとりと絡む抹茶のクリームがこの上もなく絶品だ。

 この手のものは、たまに抹茶の風味が生クリームと融合しきれず、嫌な後味を残すものも多いが、そんな雑味は一切なく、それどころか清々しい茶の香気が甘味を引き立て爽やかな口当たりを演出している。これは是非、売っているお店を教えていただきたいものだ。

「ほんに、おいしそうに食べはりますなぁ」

 あまりにもケーキに夢中になっていたので、向かいの席に誰かが座る気配に気づかなかった。ふと見ると、あの受付にいたお姉さんだ。まるで腕白な弟を微笑ましく見守るような視線を向けられた俺は、気恥ずかしさを感じながら差し出された名刺を受け取った。

 名は梅宮花子。この百貨店の美術部工芸課に所属している社員さんである。

「はじめまして。梅宮と申します。この度は茶釜社長の推薦を受けて『弁天町復興プロジェクト』のメンバーになることが決定しております。今後ともよろしくお願いします」

 よどみない自己紹介を受けて俺は大きく目をしばたたいた。

「なんや、そうやったんですか。お姉さんのことは、すでに三郎さんからも報告を受けて聞いております。ぼくがオーナーの大黒摩耶です。こちらこそ、よろしくお願いします」

 なんでも聞くところによると、彼女はこの百貨店に務める前はニューヨークにあるとても有名な美術館で学芸員をしていたんだそうな。なので美術品などの鑑定技術にもかなりの定評があると三郎さんは言っていた。

 ん、待てよ。梅宮っつうと、今日ここで会うことになっているはずの漆芸家の先生と同じ名前じゃなかったか?

「あのぅ、つかぬことを窺いますけど。今日、ここでお会いする事になっている先生は、まだお見えではないのですか?」

 室内に、それらしき人物がいなかったので訊ねてみた。

「……も、申しわけございません。今朝、急な病に倒れはりましてな。せっかくお越しいただきましたのに心苦しいことです。代わりに私が案内役を仰せつかっております」

「ふーん、そうなの。ま、それならしょうがないや。また日を改めるよ。それに、そもそも今日の目的は、お姉さんに会うことやったしね」

 別に気にしないでほしいと伝えると、花子さんは表情に淡い笑みを浮かべてこう言った。

「オーナーはまだ十三歳と聞いておりましたが、これは頼もしいかぎりです。おまけに京人形のように可愛らしいどすな。この梅宮花子。お仕えできることを誇りに思います」


 ほんのりと淡い照明が高級そうな絨毯の上に降りそそいでいた。

 通路の両側には目をひく絵画が所狭しと並び、磨かれたショーケースの中には値段の高そうな工芸品や書画が収められていた。あちこちで繰り広げられる店員と客とのやり取りを気にしなければ、それは実に感性豊かな雰囲気だった。

 そんな一角に、その会場は設けられていた。

 そこには全国から集められた漆器や漆芸品がずらりと展示されていた。

「まずは透明感のある漆で木目をきわだたせた飛騨春慶。多彩な色あいが魅力的な会津塗。もはや華麗としか言いようがない蒔絵に彩られた金沢漆器など……どれもこれも職人さんらが丹精を込めて造りはった品々ばかりでございますよ」

 はんなりと微笑みながら作品を紹介してくれたのは案内役を務める花子さんだ。

「漆は食器やお盆などをさす漆器と、蒔絵などの装飾に彩られた美術品。つまり漆芸品とに分けられますが、今回は普段の食事でも使える漆器を中心に取りそろえました。まだお若い摩耶様には退屈かもしれまへんが、ゆっくりと見てやっておくれやす」

「いや、別に退屈やなんて思わへんよ。……うわ、いいなぁ、この二段重ねの弁当箱!」

「これは会津塗の曲げものどすなぁ」

 曲げものとは素材となる木材を曲げて加工した工芸品のことで、主に弁当箱や丸い重箱などにその技を見ることができる。

「京より伝わる消粉蒔絵と独特の磨き。四百年以上もの伝統を誇る会津絵がまたみごと。

豊かな色合いの図柄と模様がリズミカルで、まるで音楽を奏でいるかのようどすな」

 なんだか聞いているだけでワクワクするような解説だった。

 心から工芸品を愛してやまない。そんな気持ちも伝わってくる。

 いやはや、ここへ来る前に多少なりとも勉強していて正解だったと俺は正直に思った。

 俺はここ数日、大黒邸の二階にある書庫に籠もって、漆工芸に関係のある本に目を通したり、旅館、宝珠荘の女将である政恵さんを質問責めにしたりして、それなりに漆について学んだ。さらに地下室にあった数々の名品や、屋敷で普段使いしている漆器にも観察の目を向け、付け焼き刃ながらも、それなりに美意識を高める努力もしてきたつもりだ。

 なるほど、確かに知識があるのとないのとでは楽しめる度合いもちがってくる。

「その消粉蒔絵っつうのは、確か金箔を水飴で練って、その水飴を洗い落とすことで細かい金粉を作り、それを用いて描く蒔絵のことやね。明るい輝きが特徴やな」

「これは驚きですがな。若旦那様がそこまで漆に詳しいとは。いやぁ、うれしおす!」

「いや、ちょっと本を読んだり、知り合いから教えてもろただけなんやけど」

 それより、その若旦那様ってのは、どうにかならへんの?

「――ん、これもみごとやな。この茶托の薄さ、よほど腕のいい職人さんの仕事やろ?」

 茶托とは、お客様にお茶をお出しする時に使う茶碗の下に敷く平たい皿のことである。

「さすがは若旦那様。お目が高い。この職人さんは薄挽きの達人どす。木目が透けて見えるくらい薄い木地を作れる職人さんはそうはいてまへん。もちろん塗師としての腕前も一流で、その透明感のある木調を活かしながらも丈夫な作品に仕上げております。ただし値段のほうはそこそこしはりますけどな……」

「うーん、来客用に欲しいけど一枚二千円か。セットで買うたら今日の食費代がすべて吹っ飛んでまうな」

「あの、ご主人様、かような場合に備えて三郎殿よりご主人様名義のプラチナカードをお預かりしております。なんなら、ここにある品々全て買い占めても余裕のよっちゃんでございますよ」

 すぐ耳元で囁く悪魔の声。ふり向くとマリリンのドヤ顔とぶつかった。

 そのアホ丸出しの言葉づかいは無視できても、その非常識な発言は看過できない。

「あのなぁ……そういう考えなしの浪費癖こそ慎むべきやと思わんか? それにそんな買い方したら素晴らしい作品を手がけた職人さんに申し訳ないやろ。こういうのは心から気に入った作品をじっくりと選んでやな――って花子さん、どないしたん? いったい何があったかしらんけど、いきなり号泣するのはやめてんか!」

「か、堪忍しておくれやす。若旦那様の美に対する姿勢に思わず感動し、涙がとめどなく」「いやいや、そんな些細な事でいちいち感動してたら世話ないし!」

 うーん。これはまた厄介なキャラが一人増えたんとちゃうやろか。

「ん、お次はお待ちかねの京漆器やな……。うわぁ、これまたみごとな職人技やな!」

 ようやく辿りついたそこは会場の最も奥である。そこに設けられた一際広いスペースに展示されているのは京都で活躍する漆芸作家、梅宮鳳泉先生の作品だ。

 さて、千年の歴史を誇る京の都。その地で育まれた京漆器は各地方に根づく漆工芸品の生みの親とも言える。この京都から伝統や技が伝わり発展した工芸品が多いのだ。

 それゆえ、塗り、形、加飾の全てにおいて文句のつけようがないほど洗練されており、その手触りや用いた時の口触りにまで心を砕いて作られているそうな。

「なるほど、これぞまさに日本の伝統美だね」

 ところが、そんな俺の耳に不愉快な声が飛び込んできた。

「ねぇ、ちょっといくらなんでも高すぎない?」

 見れば、どこぞのご婦人が店員に文句をぶつけていた。

 ここには鳳泉先生の弟子たちが手がけた作品もいくつか並んでおり、その中から、そこそこ値段も手頃なお椀を手にしながらも、なんだかご不満の様子だ。

 それらの漆器は鳳泉先生手ずからの作ではないが、その弟子たる職人たちが丁寧に作った物なので、やはり大量生産品に比べると値段はかなりお高かめである。

「お碗一つが五千円だなんて非常識だわ。お向かいにある丸銭百貨店でも漆器の展示会をやっていましたけど。せいぜい高くても二千円。しかも、あちらで販売されていたお椀のほうが、ずっと表面が輝いていましたわよ。まさかボッタクリじゃありませんこと?」

「とんでもございません。そのような事は決してございません。有名工房の職人が丁寧に仕上げた作品でございますから、この値段は妥当なものかと……」

 慌てて店員が言葉を連ねるが、いかにも成金趣味なご夫人の耳には届いていないようだ。 ますます不信感を募らせている。

「それほんと? 漆器ってそんなに高いの? だったら普通のお椀でいいわよ」

 すっかり困惑気味の店員である。されば昨今、財布の紐がきついのは世の常なれど、そこはしっかり説明をすればちゃんと本物とそうでない物は分かってくれるはずだ。

 主婦の眼力を侮ってはいけないと、いつも商店街のおばちゃんたちにも言われている。

 それに、ダイコクグループの百貨店がボッタクリ呼ばわりされたままではオーナーとしても立つ瀬がない。

「失礼します。少し口を挟ませていただけますか」

 俺は一言そう断ってから横槍を入れることにした。

「やや艶に物足りなさを感じるのは上塗りの漆に油分の少ない溶剤を使っているからです。油の多い漆を使えば輝きは増しますが、そのぶん漆の質は悪くなります。輝きがないのは実は頑丈な証しなのです。普段使いの食器なら、そのくらいが調度よいかと思います」

 そして、さっそく学んだことを披露した。といっても、そのほとんどが政恵さんから教わった知識である。政恵さんは、さすがは老舗旅館の女将である。食器の扱いや選び方についても専門的な知識を持っていた。その政恵さんから俺はこう教ったのだ。

『――漆器というものは、ほんの少し見ただけでは、その価値が分かりません。ぱっと見は派手で美しく見えても、実は高級品でなかったりするので、とてもややこしいのです』

 だから買う側にも、それなりの知識が必用になってくるんだってね。

 いまひとつ普通の家庭では本格的な漆器が使われず、値段の安いプラスチック製品や瀬戸物などが使用されるのは、その値段の問題だけではないと政恵さんは言っていた。

「つまり、お求めやすい値段なのに表面がやたらと輝いているのは油の多い漆を使っているからです。そういう漆器は見た目はよいのですが頑丈とは言えません。使っているうちに色褪せや剥落が生じる恐れがあります」

 はたして漆器が出来あがる工程は実に複雑である。まず素地となる木を削って形を造り、漆を塗る前にもしっかりと下地が整えられる。そして何層にも塗り重ねて磨きあげ、ものによっては、そこに螺鈿や蒔絵などの装飾が施されるのだ。

「そうなると値段は跳ね上がります。滅多に使わない重箱や酒器ならいざしらず普段使いの食器にそこまでの高級志向は必用ありません。といっても乾燥させた天然木を使って素地を作り、ちゃんと下塗り、中塗り、上塗りをしてますから、このくらいの値段にはなります。それだけ手間がかかっているという証拠なのです。そうですよね花子さん」

「はい。そうです。普段使いなら刷毛目が残るくらい粘り気のある漆を使ったお椀をお薦めします。最初は見た目に不満を感じるかもしれませんが、使うほど人の手によって磨かれ艶が増していきます。ですから長持ちすることは保証します。それこそ末代まで使えるほどです。なので決してこの値段は不当なものではございません」

「あら、こちらはどちら様ですの? 可愛らしいおぼっちゃまだこと」

「こちらはダイコクグループの総帥、大黒摩耶オーナでございます」

「まぁ、この子が! 新聞や雑誌で拝見しましたわ。一時はマスコミに騒がれたりして大変だったわね。よかったらサインをいただけないかしら?」

 そう言われては仕方ない。気恥ずかしさを我慢しながら俺は差し出されたスーパーのレシートを受け取り、思いのほかぞんざいな扱いだな……と多少の落胆を隠しながら慣れないサインを記した。そのミミズののたくったような筆致はマリリンが考案したもので上手く書けるようになるまで一週間ほどかかった。マリリンが言うには、これからはサインを求められることも時々あるかもしれないので、しっかり練習しておいてくださいとのこと。

 やがてサインを書き終えると、ご夫人はもうすっかり納得した顔をしていた。

「オーナーの太鼓判があるなら信用できますわ。じゃぁ、このお碗と塗り箸をセットでいただこうかしら」

 なるほど。社会的地位というのも、なにかと便利なものだ。全ての人がそうではないと思いたいが、やはり大抵の人は、その肩書というものに左右されるのだろう。

 でも、そんなものが役に立つのならオーナーという立場もそう悪くない。

 やがて店員も笑顔を取り戻し、ご婦人をレジカウンターへと案内していく。

「お求めいただき、まことにありがとうごいます」

 そしてまた花子さんの目が潤み始めた。

 ところが、その感涙の一幕はまた別の騒々しさに打ち消されてしまったのである。

「先生、病院にもどりましょう。顔色がどす黒くなってますよ。死相が浮き出てますよ」

「おい、老人になんてこと言いよるんや。えーい着物を引っぱるな。鬱陶しいっ!」

「鬱陶しいとはなんです。たった一人だけ残った最後の弟子を捕まえて」

「最期とか言うな。縁起でもない。えーい放せ。わしはダイコクグループの大黒摩耶オーナーに用事があるんや。暢気に病院なんかで寝てられるかい。ううーっ、ゴホゴホ!」

 内容はともかく、どちらも不健康そうなのに、えらく元気なやりとりが聞こえてきた。

 一人は着物姿の男性だ。歳は七十代から八十代。短く刈り揃えた髪型に気むずかしそうな顔。見れば本当に今にも倒れそうな顔色である。そして、もう一人は二十代後半と思しき青年だ。角ばった顔に、どんぐり眼が特徴的で金閣寺VS銀閣寺という謎のプリントTシャツにジーパンといった恰好である。まぁ、その服装の趣味はさておき、もう十一月なのにえらく元気溌剌な姿である。だが、この男も頬がゲッソリと痩け、見るからにやつれた様子だ。まるで悪霊にでも取り憑かれているんじゃないかと思うくらい、目の下にものすごい隈が浮かんでいる。あぁ……なるほど。あれがその原因なのだろう。ふと見れば、もう一人、青白い顔をした男が、その青年の背後からチョロチョロと憑いてきている。

『……そうやで、師匠。健吾の言うとおりでっせ』

 年齢は三十代くらいか。三人の中ではまだ一番健康そうに見えるが、その元気な姿はもはや意味をなさない。おそらく彼の声は、どれほど叫ぼうとも、ほとんどの人には聞こえないだろう。なにしろ、その姿からして薄くぼやけており、おまけに足もない。

 とはいえ今はもう十一月だ。そんな季節外れの幽霊にかまっている場合ではなさそうだ。

「おおっ、花子か、ちょうどよかった。オーナーはどこにおられる?」

 奇妙なTシャツの若者に体を支えられながら老人がヨロヨロと近づいてくる。

「お爺ちゃん、どうしてここに!」

「病院からタクシーを飛ばして来たんや」

「病院でおとなしくしてなあかんやないの!」

「あの、オーナーは、ぼくですが……」

 ご指名を受けた当事者としては黙っていられず、今にも倒れそうな老人に手を差しのべた。老人は俺の腕に掴まるや必死の形相でこう訴えた。

「おぉ、あなたがオーナーですか。時間に遅れて大変失礼なことをいたしました。私が梅宮鳳泉でございます。いやはや、とんだ醜態をさらして申しわけない。どうかこの老いぼれの頼みを聞いてくだされ。このままでは京都の伝統が地に堕ちてしまうのでございます」

「京都の伝統が地に堕ちるってどいうこと?」

「話せば長いのですが、うぅゲホゲホ! くぅぅ、ここまで来ておきながら……」

 老人は、ものすごく苦しそうな表情である。

「マリリン、はやく救急車を呼ばないと――」

「分かりました。すぐに手配してまいります」

「お爺ちゃん。しっかりして。まだ死んだらあかん!」

花子さんが老人の体を激しく揺さぶる。

「ううっ、またしても縁起でもないことを言いよる。あ、あかん、そんなに激しくされたら意識が遠のいて満開のお花畑が――って、ええい、いい加減にせんかい! まだ儂は死なんぞ。日本の漆芸文化を再び世界に誇れるものにするまでは死んでも死に切れんのや。せやから今京都で起きてることは見過ごすわけにはいかんのや。どうかオーナー、漆芸界の名誉を守るために力をお貸しくだされ……」

 だが、その言葉を最後に老人はついに意識を失い、どうっと倒れ込んでしまったのだ。


 京都駅前。そこは数多くのデパートが血みどろの戦いを繰り広げる激戦区である。

 なかでも大黒百貨店と丸銭百貨店の熾烈な争いは、ここ京都においては、ついに仁義なき戦いに突入したと論じる経済評論家もいるくらいで、その過熱ぶりは、かつての大坂梅田における百貨店戦争をも、はるかに凌ぐと、そんな噂も取り沙汰されるほどであった。

 そう、永遠のライバルは国道を挟んで向かいあい今日もバチバチと火花を散らしている。

そんな丸銭百貨店の六階にある美術品ギャラリーの中に、今、俺たちはいる。

 その一角である。そこには先ほど目にしたのと、よく似た光景が広がっていた。

 ただし、その状況は大黒百貨店のそれとはちがい、すさまじい熱気に包まれていた。

 なにしろ『京漆器特別販売会』と題されたその会場には、『職人技』や『高級品』などの文字に混じり、『大幅プライスダウン』、『特別御奉仕価格』などといった必殺文句が入り乱れ、集いし客は皆、競い合うようにして、その激安漆器を買い漁っているのだ。

 そのあまりの騒々しさに俺は正直戸惑いを隠せなかった。

「それにしても、毎度毎度、性懲りもなく、うちらの真似ばかりしくさって……」

「京漆器に限定しているとはいえ、もはや嫌がらせとしか思えないね」

 なにやら怒り絶頂の花子さんである。その横で相槌を打ったのは、あの奇妙なTシャツの青年だ。名は奥山健吾。梅宮鳳泉先生の弟子である。

 さても先生を病院送りにした後、暇だというので俺たちに付いてきたのは別にかまわないのだが、されど一緒に憑いてきたのが、その男だけではなかったというのが、これまた頭の痛い問題である。さらに俺の背後からも、いささか暢気な声が聞こえてきた。

『ほんま、そのとおりやで。大黒百貨店がイベントを開催すると決まって丸銭も同じようなイベントをぶつけて対抗してくるとは聞いとったけど、これは質が悪すぎやろ……。ところで、なぁ~君。もしかして俺のこと見えてるんとちがう? 俺、竹林竜平って言うねん。そこにおる健吾の兄弟子で花ちゃんのもと婚約者やってん。せやんど、俺、この前、飲酒運転しとるおっさんに轢き逃げされてしもうてなぁ~。~なぁ、君、聞いてる?』

 まったく、やれやれである。どうやら、この幽霊、いつのまにか取り憑く相手を変えたらしい。心なしか体が重く感じられるようになってきたんやけどな。

 ……だが、しかしである。

 それを煩わしく思う反面、この思わぬ出会いには少なからず驚かされた。そう、確か竹林竜平といえば、この前、三郎さんが話していた職人さんと同じ名前ではなかったか? 

 そう、それは先週のことだ。三郎さんは彼について、こんな説明をしていたのだ。

『――その祖父は人間国宝の竹林竜山。その師匠は漆芸界の重鎮たる梅宮鳳泉。若くして工芸界に、その名をとどろかせた天才職人です』

 うぅん? なんかイメージしてたのと全然ちがうんやけどな。いや、でも、そこは俺の勝手な思い込みで判断するわけにもいかないだろう。なにしろ師匠たる梅宮鳳泉先生の、その弟子に取り憑いていたのだ。まずは、その本人と見てまちがいない。

 とはいえ、今は面倒なので、やはり無視しておくとしよう。

「ふーん、噂どおりの仁義なき戦いというわけやな」

「別に争うつもりはあらしまへん。一方的に丸銭が喧嘩をふっかけてきよるだけです!」

 あいかわらず頭に血が上ったままの花子さんである。

 だが、それも無理からぬ事であろう。なにしろ大黒百貨店で開催していた展示会は花子さんが苦労して手がけた一世一代のイベントだったのだ。それをそっくり模倣され、しかも、こちらのほうが大盛況とあっては、そりゃ腸が煮えくりかえるのも当然だ。

 そんな花子さんの気持ちが分かるのかマリリンの口調もいささか険しくなっていた。

「ご主人様、マルゼニグループの会長、銭丸栄一郎は実に強欲な経営者です。大坂生まれの商売人からのし上がり、一代で巨大企業を築きあげたことからビジネス界の風雲児とも言われ、この関西圏における政財界への影響力もまたバカにはできませんぞ」

「そうだす。あの男は、あこぎな商売で人を泣かす鬼なんだす。これを見てください」

 そう言うや、花子さんは目の前にあるワゴンの中から漆のお椀を一つ取りだした。

 そのワゴンには大きく筆書きされたポップが貼ってあった。

「なになに、『高級漆器・布着せ本堅地風千円均一』やて。……んんっ?」

 な、なんですと! 俺は愕然とした。愕然なんて言葉を知ってる俺って、ちょっとえらいかな? ともあれ俺が認識している本格漆器の値段とはもはや雲泥の差だ。

 まぁ、この場合、どちらが泥で、どちらが雲なのかは意見の分かれるところだろう。

「うわっ、めっちゃ安っ、なにこれ、こんなん普通じゃありえへんやろ!」

「ええ、そのとおりです。……布着せとは傷みやすいお椀の縁や底に布を貼りつけて補強する技法だす。それを宣言することは一切の手抜きもせず丁寧に造っているという証拠なんどす。せやけど、いくら下地造りに心血を注いだかて、そこに漆を塗ってしまえば、その苦労が見えまへん。せやから、そこは職人さんの魂を信用してもらうしかないのんどす」

 言いたいことは分かる。ほんらい漆器を造るには手間と時間がかかる。原料となる生木を切りだし、それを乾燥させるだけでも二、三年はかかる。その木を加工して木地固めをし、丁寧に下地を造って、そこに漆を塗っては乾かす作業を何度も繰り返して仕上げるとなると、一つのお椀を造るだけでも半年ほどもかかるのだ。

 なので、そこに書いてあることが事実とするなら、この値段はありえない。

「問題は値段だけやあらしまへん。このお椀の底には漆だまりがあります。さらに、こちらの二千円均一のお椀の螺鈿はかなり荒くて、表面との違和感を感じます」

『そりゃ当然やな。どう見ても、これは簡単な吹きつけ塗装やで。螺鈿もプリント印刷されたもんやろ。それを高級漆器と言いはるとは、あまりにも客を馬鹿にしとるで』

 背後の幽霊男も不機嫌さを隠せない様子だ。

「とはいえ漆器に本物も偽物もあらしまへん。器の形をしたもんに漆を塗れば、どれもが漆器だす。せやかて、これを日本の伝統工芸と言い切るのは、あまりにも酷い……」

「だよね。このぶんだと中の木地も怪しいね。もしかすると天然木加工品かもしれない」

 んんっ? 俺はその言葉に少し興味をひかれた。

「天然木加工品? それって天然の木材とどうちがうの?」

「えっと、木を粉末にしたものに合成樹脂を混ぜて固めたものを天然木加工品と言います。その見た目は天然木を削ったものと、そうあまり変わりませんので、ちょっとやそっとでは見わけがつきません。しかも時間も費用もそれほどかけずに大量生産ができます」

「なかなか区別がつかないって、見破ることはできないの?」

「いえ、水に浸ければ分かります。天然木の素材は浮きますが加工品は沈みます。でも、そんなことは誰も知りません。よりによって、あいつらこんなことに手を染めて……」

 その後を引き継ぐように幽霊男も言葉を連ねる。

『せやかて本堅地風とはうまいこと言うで。実に抜け目がない。ちゃんと、その価値に見あった値段やからギリでOKやろ。しかも、これをあくまで高級品と言いはるんは売り手の自由や。せやけど、まじめに仕事をしている職人からすれば、たまったもんやないで』

 そんな幽霊男の鬱憤を耳にしながら俺は政恵さんの言葉を思い出した。

『昨今は、長持ちする物より安くて使い捨てにできる物のほうが売れるのです。ですから外見だけを似せた安価な商品を販売するほうが商業的には利益が出しやすいのです。そんな状況ですから、いい仕事をすればするほど職人は食っていけなくなるのです』

 だから職人は諦めるしかない。売り手の意向に応じてコストを下げるしかない。そうした妥協の上に成り立つ商品を伝統の名のもとに販売する事でなんとかビジネスとして継続させていくしかないのである。だが、そのような堕落が伝えるべく技術を消し去り、少しずつ日本の伝統文化を衰退させていったことは否めない事実であろう。

「こりゃ、思っていた以上に現状は厳しいかもしれへんな……」

 思わず溜息がこぼれた。そこへ店員が近づいてきた。

「なにか問題でもございましたか?」

 不信に満ちた声だった。取りつくろう笑顔は警戒感を物語っている。

 はたして、その背後からもう一人、遠慮もなく顔に迷惑の文字を浮かべた男が現れた。

 ペイズリー柄のスーツに、派手な西陣織のネクタイ。その服装のセンスに目を疑った俺は、まるでゾウリムシの大群がいきなり目の前に現れたかのような錯覚にも襲われた。

 どうやらこの男がイベントの責任者らしい。さらに嫌味な笑みを浮かべてこう言った。

「誰かと思えば梅宮はんどしたか。難儀どすな。聞きましたで、なんや今回のイベントに失敗したせいで、どこぞの田舎に転勤させられるそうでんな。気の毒で心が痛みますわ」

「大きなお世話や! ほんまに心が痛むのは、あんたらがやってるせこい商売やろ。なんやのあれ。量産した半端な商品を本格漆器と嘘をつくやなんて、この恥知らずが!」

「なんの証拠があってそないなことを? 営業妨害で訴えさせてもらいまっせ!」

「な、なにをぉ、この、こんちくしょう! どこへでも出たろやないか!」

「ち、ちょっと落ちついてください……」

 興奮した花子さんは、どうにも手がつけられない。

「――ん、あんた誰や?」

 まだ怒り収まらぬ男の視線が俺にも向けられた。

「いやぁ、名のるほどの者ではありませんよ。それにしても、これほどのお椀が、このお値段とは驚きです。ここは一つ購入させてもらいますので……」

 ぺこりと頭をさげ、近くのワゴンに積まれていたお椀を一つ手に取り、まだ何か言いたそうにしている花子さんを引きずるようにして俺はレジカウンターへと向かった。

 そして、さっさと金を払い、その場を後にする。

 まさか、こんなどうでもいい商品を買う羽目になるとは思いもしなかった。


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