第3話 狸と温泉

 弁天温泉。その名の由来は、この町に唯一ある寺に弁財天が祀られているからだと謂われている。七福神の一柱である弁財天は芸事の神様とも謂われており、その昔、この温泉街にはその『霊験』にあやかりたいと願う芸者さんが大勢働いていて、それがまた大いに評判を呼び、多くの湯治客でにぎわっていたんだそうな。

 しかし、残念ながら今はその面影すら感じられない。

 古くは江戸時代から続く温泉宿場の風情は長い不況の嵐ですっかり色あせてしまったらしく、今では町全体が、なんだかしょぼくれた雰囲気に包まれているからだ。

「まぁ、これも時代の流れなのでしょう。確か、数年前に隣の鳴金市に吸収合併されたようなのですが、そんな事では、その流れは止まらなかったようです」

「で、このさい市は町ごと新しくし、ここに巨大なリゾートホテルを造ろうとしている?」

「でやんす。まったく、なんでも新しくして大きくすりゃいいってもんじゃないっすよね」

 そんなゴンさんの意見には俺も賛成したいところだが生憎と相槌を打つ気にもなれなかった。というのも、どの宿に顔を見せても宿泊を断わられるので、今は気分的にもすっかりヘコンでしまっている最中なのである。なにしろ十月の行楽シーズンとはいえ平日だ。しかも、こんなマイナーな温泉地である。どの旅館も部屋が満室だなんてありえないだろ。

 なのに決まって宿泊を断るのだから、こんなおかしな話があるものか。

 さても大きな車体のロールスロイスは邪魔なので町役場の隣にある駐車場に止めてきたからよいものの、それでも季節外れのロングコートを羽織る謎の金髪美女と運転手の恰好をした男を道づれにダラダラと町の中を歩くのはやはり目立ってしょうがない。ひょっとすると、こいつらのせいで宿泊を断られているんじゃないかと、そんな疑心も湧いてくる。

 そんな疲労を引きずり、石畳の続く坂道をかなり上まで登って来てしまった。

かつては飲食店だったと思しき怪しげな家屋がシャッターを閉じた状態で並び、その中にスマートボールや射的と書かれた看板が埃にまみれて昭和時代の面影を偲ばせている。

 その一角である。ようやく、そこに期待できそうな宿を発見した。なんとも見ているだけで心がなごむ趣のある古めかしい木造二階だての建物だ。その入り口にある紺色の暖簾には宝珠荘と白字で射抜かれた屋号が躍動感あふれる文字で記されていた。

「ご主人様、今度こそ、なにやらウェルカムな感じがしませんか?」

「うん、ここは勇気をだして、かけあってみるっきゃないね」

「ここが駄目なら、いよいよ、あの屋敷しかねぇでやんすからね」

 そんなゴンさんの一言に押され、俺は決死の覚悟で暖簾をくぐった。

「あのぅ、ごめんください」

「あら、いらっしゃい」

 さっそく宿の奥から着物姿の女性がかけつけて笑顔で出迎えてくれた。

「あの宿泊したいんですけど」

 ところが、そう言ったとたんに、その顔色が急変した。またもや断られるのかとガッカリした気分になるが、それにはまた別の理由があったようだ。

 たて続けに暖簾が揺れて、いかにもガラの悪そうな男たちが現れたからである。

「おい宿泊希望だ。さっさと案内しろ」

 すごく横柄な態度である。玄関から外を見ると、どでかい黒ぬりのベンツが道を塞ぐように数台ほど停車し、若いチンピラが数名、門番よろしく辺りを窺いながら立っていた。

「おう、なにをぼさっとつっ立てんだ。客だぞ。さっさと歓迎しろ!」

「お断りします。これ以上、営業妨害を続けるなら警察に通報しますよ」

「人聞きの悪いことを言いくさる。こんなボロ宿なんざ、あっというまに潰せるんやぞ」

「そんな脅しには屈しません。さっさとお引きとりください」

 顔色を失いながらも毅然と立ちむかう女性。そして、その女性を取り囲むいかにも怖そうなお兄さん。その間に挟まれて俺はどうしたものかとオロオロするしなかった。

 ところが、そんな雰囲気もなんのその。その場に割りこむ勇者がいたのである。

「んっ、なんや姉ちゃん? えらいべっぴんやないか」

 なんともいやらしい笑みを浮かべる男どもにマリリンはいささか不機嫌そうなご様子である。その横で俺は猛烈に嫌な予感を募らせていた。やがて、そんなマリリンの口から奇妙な呪文らしき言葉がこぼれるや、その足下に不思議な光の紋様が現れた。そして次の瞬間である。なんと男たちの姿がまるで目に見えない力に引っぱられるかのように次々と宿の外へと弾き飛ばされていったのだ。俺は驚きに目を見開き、ゴンさんに問いかけてみた。

「……な、なにあれ?」

「えっと、あれは、マリリンお得意の魔法でやんすよ」

「…ま、魔法?」

 ゴンさんの発言に俺はおもいきり首をかしげてしまった。

 確か、魔法って百パーセント西洋のものだよね。

「……へぇぇ、でも、そんな特技があるなら、早く言ってほしかったな」

「いやなに、姉御の魔法は、ああいうデリケートな怪奇現象には不向きでやんすからね」

 はてさて、なにがどうデリケートなのかはさておき、ゴンさんの言うその不向きであるところの理由はそれからまもなくして思い知らされた。

「私たちのほうが先客です。順番は守ってください」

「なんじゃぁ、このアマぁ、ふざけた真似してんじゃねぇぞぉぉ!」

 うぅっ、まるで極道映画のワンシーンじゃないか。

 だが、当のマリリンにはまったく動じる気配がない。

「すぐに終わらせますから」

 と一応の気づかいか、そう言ったのを最後に、その姿が闇にひるがえる。

 そう、それは、まさに突風。いや、竜巻のごとしであった。なんと、あの漆黒のロングコートが蝙蝠の翼のように広がるや、路上に停車するベンツの屋根を切り裂いたのだ。

 はたしてフロントガラスから後部座席へと一気に切り取られた車の屋根は宙高く舞ったあと、轟音を響かせて路上に転がった。もはや、その光景には誰もが凍りつくしかない。

 さすがのチンピラたちも、これには度肝を抜かれたようだ。

「お、おい、なんなんだよ、あの女は?」

「こ、怖ぇぇぇぇっ!」

「俺、まだ死にたくねぇっす!」

 チンピラたちは口々にそんなことを言いながら真っ青な顔を突き合わせ、やがて屋根のないベンツに乗り込むや、まるで魂を抜かれたような表情でこの場から立ち去っていった。

 そして、その場に残された俺はというと、ゴンさんと車の屋根を路肩に寄せながら今後のことに頭を悩ませた。

「いやぁ、さすがはマリリンの姉御。妖怪カマイタチもまっ青の攻撃力っすね!」

「いやいや、どう見ても、これはやりすぎだろっ! こんな状況、どう説明するんだよ!」

 あまりの惨状に非難の声しか上がらない。この状況を、どう言い訳すればいいのかと、そっちのほうにばかり頭がいって、ちっとも冷静になれない。

 だが、そんな心配ごとは流通しない二千円札なみに無駄だったようだ。

「ありがとうございます。おかげで助かりました。私はこの宿で女将を務める樋口政恵(ひぐちまさえ)と申します。それにしてもすごいですね。車の屋根が、ふっ飛んじゃいましたよ!」

 嬉々として笑う女将の様子に目が点になった。

 年齢は三十代の半ばくらいか。髪を結い上げたとても綺麗な和装の美人だ。騒ぎに驚き少し興奮しているのか、ほんのりと上気した頬がこれまた色っぽい。こんな状況でもなければ、しばらく会話を楽しみたいところだが、いかんせん。今はそれどころではない。

 この機に乗じてうまく話を誤魔化さねば、――というのにである。

「あのぅ、ご主人様、今の技は『ハリケーンアタック』と申しましてですね。このドラキュラマントに備わっている戦闘機能の一つでございます」

 さも誉めてほしいと言わんばかりにマリリンが得意げな口調を挟み込んだ。

 えーい、おまえは黙ってろ。このバカ吸血鬼め。まったく何を急に言い出すのやら。

 あかん。このまま喋らせたらあかん。ここは俺がなんとかせんとあかん。

「いやぁ、なんて言うか、最近のベンツは派手な機能がついてますね。屋根がふっ飛ぶように外れるなんて。しかも、その屋根を忘れちゃうなんて、とんだウッカリ屋さんだなぁ」

 ううっ、今のは、なかったことにしてください。

 冷や汗がダラダラと背中をつたう。こんな与太話で誤魔化せるわけがない。

 他に車の屋根が吹っ飛ぶような理由は……? さっぱり思いつかねぇよ。

「へぇぇぇ最近のベンツって装備も派手なんですねぇぇ。すごいっ!」

「いやぁ、ほんとびっくりですね」

 ――って、おい大丈夫か。いや待てよ。これはこれで好都合だ。きっと、この人の頭はネジが数本ほど緩んでいる。こうなれば、このまま強引に話を進めるしかない。

「忘れていった車の屋根は路肩に寄せておきましたけど……邪魔なら粗大ゴミに出していただければ幸いです。それより宿泊したいんですけど……」

「あ、そうでしたね。いらっしゃいませ。宝珠荘へようこそ!」


 さて、フロントでチェックインを済ませると、女将は俺たちをこじんまりとした客室に案内した。ごくありふれた和室である。トイレは小さな浴槽付きのユニットバス。テレビと冷蔵庫は備わっているが、基本的に部屋を飾る調度品は床の間の掛け軸と一輪挿のみである。窓から見える景色もべつだん特筆すべきものはなく、その広さも、おそらく三人分の布団を引けば、もう後は座卓のスペースしか残らない。

 要するに最もリーズナブルな客室というわけだ。

 されど、そのことが不満なのか、館内の説明を終えて女将が部屋を退出すると、とたんにマリリンの口から嫌味の言葉が飛び出した。俺が他の二人の意見も訊かずに勝手に宿泊する部屋を決めてしまったことに、きっと反感を抱いているのだろう。

「いささか、ドケチも度がすぎるのではありませんか?」

「ドケチって言うな。節約って言え! そりゃま、確かに、今の俺は高級車に運転手つきの身分やで。常識的に考えても、このレベルの部屋はありえへんとは思う。やけど、いったい、いつまで滞在するのか分からんのに、贅沢するわけにもいかんやろ。まぁ今まで、しがない商店街に住んでた俺やさかい、このくらいの部屋がお似合いなんやと思うで」

 嫌味には嫌味で返しておこう。とは言いつつも実はこんな立派な温泉宿に泊まるのは生まれて初めてのことだ。本心ではこれでもけっこうワクワクしていたりする。おまけにマリリンの説明によると、この宝珠荘は江戸時代から続く老舗の温泉宿で、この界隈でも一、二を争う格式の高い旅館だそうな。それゆえだろうか、最もリーズナブルな客室でさえ、それなりに居心地のよさを感じるし、清潔感に満ちた室内はどこを見回しても埃一つない。確かに手狭ではあるが、どうせ数日のことだ。飯が食えて寝れる場所さえあればどこだって同じだろ。これでも充分贅沢だと思うんだけどな。

「とにかく、今は任務の遂行をまっ先に考えるべきやろ。別に遊びに来とるわけやないんやで」

「まぁ、そうですけど。でも、せっかく宿に泊まるのですから……」

 と、そんなマリリンの愚痴を聞き流しながら、俺は「やれやれ…」と茶をすする。

 そして溜息まじりに今日の出来事をふり返ってみることにした。

 病室で目が覚めてからというもの、まるで嵐のような半日だった。まったく記憶がないことに驚き戸惑ってるところに謎の金髪美女が声をかけてきて死後に体験した地獄での記憶とやらを見せられた。そして改めて焼死した事実を突きつけられると同時に両親の地獄墜ちを知らされたのである。そんな傷心の俺を病院から連れだし、どこへ行くのかと思えば怨霊ひしめく山の中。そこに建つ恐怖の館が俺の住む家だと告げられて心底ふるえあがり、なんとか説得を試みて山を下りてみれば、これまた厄介ごとの二連チャンだ。

 いくら不死身の体になったとはいえ、これでは命がいくつあってもお釣りがこない。

 だが、そんな気苦労など、このバカ吸血鬼は知るよしもないのだろう。

 さっそく室内にあったテレビをつけて子供むけのアニメに釘づけである。

「行けぇ、そこだ。やっちまえ!」

 おいおい、おまえ、小学生以下だな。一方、ゴンさんも冷蔵庫から缶ビールを取りだし、まったくいい気なものである。かくいう俺も、ようやく一息つけた心地だ。

 ここはゆっくりと温泉にでも浸かって、どっと疲れた気分を癒したいところだ。

 俺はさっそく浴衣に着がえて手ぬぐいをひっさげ、部屋を後にした。


浴場に入るとムッとした湯気とともに微かな硫黄の匂いが鼻をかすめた。

 大きな檜風呂には白濁した湯が満ちあふれ、天井からのうす明かりに照らされている。 どうやら他に入浴客はいないようだ。貸し切りの状態である。

 見れば露天風呂もあるらしく、湯気に曇る窓の外には立派な岩風呂が見える。

 ライトアップされた小さな和風の庭園に囲まれ、とても情緒ある空間となっていた。

 ところが、そんな雰囲気の中に、なにやら怪しげなものが混じっていたのである。

 ――んっ、何だあれは? 

 思わず目を瞠った。なんと湯船の中に大きな置物が置いてある。いや、よく見ると、なんだか様子が妙である。なにしろ、かけ湯をしていると、その気になる物体が少し動いたような気がしたのだ。しかも、なにやら鼻歌まで聞こえてきた。

 いや、そのうち気が乗りだしたのか大きな声で歌声を披露しはじめた。そりゃま温泉に浸かれば気分もよくなり、好きな歌を口ずさんでしまう気持ちは解らなくもないのだが、しかし、あれはいったい何なのだ? 俺は湯船に入る前にゴシゴシと目をこすった。

 やっぱり幻覚じゃない。大きな信楽焼の置物でもない。とはいえ、今日、散々不思議なことに遭遇した俺には、もはやこれくらいの珍事は何ほどのことでもなかった。ただ少し目を疑っただけである。なにしろ人の背丈ほどもある大きな狸が気持ちよさそうに湯船に浸かっていたら、そりゃ誰だって少しはビックリしちゃうよね。

 さても、でっぷりと肥えた狸が人語も巧みに歌声を披露している姿はなんとも名状しがたいものがある。実に気持ちよさげに源泉かけ流しの湯を堪能していやがる。そんな様子に俺はほとほと呆れた。よくもまぁ、こんな獣が無事にチェックインできたものである。

 まぁ、あの女将さんなら平気で狸も客として出迎えそうな気がするんだけどな。

 と、そんな馬鹿なことを考えていると、その狸から声をかけられた。

「こんばんわ~。いいお湯ですね~」

 なんとも気さくな狸である。

「え、あっそう? 俺も、今から入るとこやけど……」

 そう応じるしかなかった。そりゃ言いたいことは山ほどあったけれど、こうも堂々とされたら突っ込む気力も萎えるというものだ。――というわけで、俺はその狸の横に並んで湯に浸かり、そんな狸の歌声に耳をかたむけた。

 うーん抜群の歌唱力だ。ただし自慢じゃないが、俺はすごく音痴で音楽の授業も苦手だった。そのうえ狸の歌声に感動させられたとあっては、それこそ人としての立場がない。

 どうにも居心地の悪さを感じた俺は、そそくさとシャワーと向きあうことにした。

 そして備えおきの石鹸などを使い、すみずみまで綺麗にした俺は、そんな劣等感など気の迷いだと気をとりなおし、露天風呂に向かうことにした。

 そこにも狸の歌声が聞こえてきたが、もう気にしないことにした。

 いや駄目だった。あまりの美声に、なぜかとめどなく涙があふれ、父や母のことが思いだされて仕方がない。それでも、なんとか立ちなおり、なんでもない顔をして再び檜風呂へと戻ってみる。その頃になっても狸はまだ風呂から上がる気配を見せなかった。

「あの、のぼせませんか? 俺はそろそろ、あがりますけど………」

 長湯は体に堪えるのではないかと心配になる。ただでさえ分厚い毛皮に包まれているのだ。そんなにホカホカになったら狸のいい出汁が取れそうである。

「おっと、そういえば、そろそろ夕食の時間ですな」

 狸はそう言うと嬉しそうに微笑み、おもむろに立ち上がった。

 そして、ざばーっと湯が踊る。

 そこで俺の目は、ある一点に向けて釘付けになった。

 うわっ、なんやこれ? 大きな玉がブラブラと……。

 ひぃぃぃぃぃ、めっちゃデカっ! 

 思わずボーリングの玉を連想した。しかも、そんな物体が、これまた巨大な袋にやんわりと包まれて金色に輝いている。なんだか見てるだけでありがたい気分になるから不思議である。なので苦労して目をそらし、俺は狸の後を追って湯船から飛びだした。そして手拭いをギュっと絞る。脱衣所へ出る前にある程度、体の湿り気を取るのが人としてのマナーである。ところが、やはり狸は獣だ。そんな人の常識など知るよしもないのか、さっさと出て行ってしまった。いったいどうやって浴衣に着がえるのか気になってしょうがない。なので急いで体を拭き、その後を追いかけた。ところが脱衣所に出てみると狸の姿はなく、そこには入れちがいに入って来たのか、まん丸く太った老紳士が立っていたのだ。

 着てる服はベージュのシャツに茶色のネクタイ。

 そして駱駝色の背広に同じ色のベストである。

 老紳士はニコニコしていた。その両眼はクリッとしていて、どことなく狸めいた雰囲気がある。うーん、まさかね。いや、そのまさかだった。

 おじさんの腰の辺りに揺れているのは紛うことなき尻尾である。

「ねぇ、おじさん。ちゃんと尻尾も隠さないと……」

「おっと、これは失礼しました。たまに尻尾を忘れてしまうのですよ」

 そう言うや、ドロンとした煙がまき起こり、腰の辺りで揺れていた物体が消えた。

「やっぱり狸とか狐って化けるのが得意なの?」

 ゴンさんもきっと人間に化けているんだろうな。と、そんなことを思いながらの質問だ。おじさんは気を悪くした様子もなく、あいかわらずニコニコしながら質問に応じてくれた。

「総じて変化の術は得意ですが、いやはや、お恥ずかしながら、私、化けるのが少し苦手でしてな。お見ぐるしい姿をお見せしました。……あ、私はこいう者でございます」

 いやいや、狸の姿で湯船に浸かっていたのは見苦しくはなかったのかよ――という突っこみはさておきながら……狸のおじさんは金色のカードケースを取り出し、一枚の名刺を差しだした。見ると名刺にはこう書かれていた。

 ダイコクグループ代表取締役、茶釜三朗――と。


 それから、まもなくして俺は三郎さんと一緒に部屋にもどった。

「お、三朗の旦那じゃねぇですかい。よく俺たちがここにいるって分かりましたね」

「今、この辺りの旅館は暴力団の嫌がらせを受けおりましてな。おかげで、どこもかしこも休業しているのです。この旅館の女将さんだけは、がんばって営業を続けていますから、ここへ来るしかないだろうと思い、先回りしただけのことですよ」

「これは、わざわざ一等補佐官の三郎殿に、ご足労をねがい、まことに恐縮です」

「いやなに、私も出張のついでに、おぼっちゃまの顔を拝見しておこうと思いましてね」

 部屋へもどるなりゴンさんが目を丸くして出迎えてくれた。マリリンもいささか面くらった様子でお辞儀をしている。聞くところによると、三郎さんは長年にわたり人界に潜伏している『妖怪変化』で、まだ三等補佐官の地位でしかないマリリンやゴンさんからすれば、それはもう決して頭の上がらない大先輩なんだとか。

 そんな三朗さんが、この人界に派遣されたのは、かれこれ百年以上も前のことだそうな。

 その使命は幕末から現代にかけて激動する日本を転々とし、不幸な魂を救うべく地獄の捜査官とともに人界を調査することだった。

 その捜査官が現在の大王様だと聞いて、なおのこと驚かされた。

 さても激動の時代である。多くの人が大きな苦しみを味わったことだろう。そんな人々に少しでも手を差し延べようと大王様は人知れず力を尽くされ、やがて、その功績により、今の地位を授かったのだという。そこで一匹寂しく人界に残ることになった三郎さんには、かつてのご主人様から新たな使命が下されたのだ。

『――さて、三郎よ。おぬしは妖怪のなかでも断トツに頭がよい。その頭脳明晰さをいかせば、これからの時代に必用な優良企業に就職することも可能であろう。さらに、そこで出世を重ねれば人界における有利な立場を築けると思うのだが』

 そして三郎さんは大王様の命令に従い、苦労の末に出世を重ね、今や大企業のトップの座に収まっている。

 と、まぁ、それはさておき。

 いかなる事情があるにせよ、今や世界屈指の大企業のトップが、わざわざこんな所まで出向いて来たからには、それなりの理由がありそうだ。

 まぁ、その正体は『妖怪変化』の化け狸なんだけどね。

「はい、実は私も摩耶様率いる特別捜査班に加わり、陰ながら、その任務を支えよと大王様から仰せつかりましてな。つきましては、そのご挨拶にまかりこした次第です。女将には、後から三人ばかり知りあいが来るので、食事はそちらの部屋でと伝えていたのですよ」

 なるほど。そういうことになっていたのか。

 風呂から帰ってくると部屋の座卓には豪華な料理が並んでいた。

「それにしても、これは実に豪勢ですな」

「うん、そうだね。……でも、こんな時に、こんな贅沢な食事をしている場合かな?」

 ほんらいなら今こそ食いしん坊根性を発揮する時なのだろうが、しかしながら俺はなんだか申し訳ない気分になってしまい、どうにも居たたまれない心地にもなってしまうのだった。なにしろ両親が地獄での責め苦を味わっているのだ。

 そんな時に暢気に食事を楽しむ気分には到底なれなかった。

「あはは……、やはりご両親様のことを気にしておられるようですな。いやなに、ご心配には及びませんぞ。実は地獄といっても、さほど酷い所ではございませんからな。人間の世界に伝わる地獄のイメージと、実際の地獄とはかなりちがっております。あれは半分ほどが作り話なのですよ。さても地獄は決して責め苦を強いる場所ではありません。というのも地獄には表と裏の顔がございましてな。……まぁ、たとえば表地獄の灼熱地獄は、実は地獄でも有名な温泉保養地なのでございますよ。大王様からの報告では、ご両親様は血の池地獄の温泉でまずは生前の疲れを癒しておられるそうです」

 そんな三郎さんの言葉に俺は思わず耳を疑った。

「はぁ……なんだって、温泉で疲れを癒してる?」

「はい。地獄には八大地獄と八寒地獄とございましてな。八大地獄が表の顔とすれば八寒地獄は裏の顔。なのに、なぜか裏の方が有名になってしまったのです。されば表の八大地獄は傷ついた魂を癒し、罪を悔いる場所でございます。ただし裏地獄の方は、その限りではございません。あそこは鬼神が支配する黄泉の国でございますからね。ですが、ご両親様は表地獄の方におられますからご安心を。そもそも生前に罪を犯した者は、すでにそれなりの裁きを受けている者が多いのです。なのに死後も罰を受けるというのは酷な話でございますよ。とはいえ、ご両親様はまことに気の毒でした。それについては大王様も心を痛めておられました。それゆえ、あなた様にはもう一度、人として生きる機会を与えたかったのでしょう。この先、地獄の捜査官として生きるかどうかは、あなた様の意志に任せるとの仰せ。別に捜査官にならずとも罰はございません。いずれ、ご両親様が地獄での務めを果たされた暁には晴れてともに天界へ旅だてるよう取りはからうとの事ですから」

「なんだよ、それ……。俺、すげぇビビってしもうたやん。なんだか騙された気分だよ」

「……ええ、まぁ、大王様はまだお若いですからね。ちょっとした茶目っ気というか、少々、悪戯の過ぎるところがございましてな。でも、本当は慈悲深いお方なんですよ」

「うん、それは分かってるよ……」

 またしても目から熱いものがあふれそうになった。

 もちろん両親を亡くした寂しさは今もある。ふと気を抜くと、その悲しみに捕らわれそうになる。きっとあの火事で一人生き残っていたとしたら、その絶望にどれだけ心が押し潰されていたことか。病室で目を覚まし、それからの怒濤の急展開でそんな悲嘆は無理やり心の底に追いやられているが、もし、あのまま病院に残っていたら、たとえ記憶を取り戻していたとしても死ぬほど心細かったにちがいない。けれども幸いにして、今の俺は一人じゃない。それがどれほどありがたい事なのか理解できないほど俺は愚かじゃない。そりゃもう一度、父や母と一緒に暮らしたいと願わずにはいられない。活気ある商店街が戻ってほしいと願わずにはいられない。でも、それはもう叶わない願いなのだ。地獄の力をもってしても過ぎた時は戻せない。大王様は可能な限りの手を尽くしてくれたのだ。ならば与えられたこの命。できるだけ有効に使って恩返しをしないと罰が当たるというものだ。

「ちゃんと、やれるかどうかは分からへんけど、捜査官の仕事に挑戦したいと思います」

「そう言っていただけると思っていましたよ。ここへ来た甲斐もありました」

 そして、その後は、にぎやかな宴会になった。俺はすっかり肩の荷をおろし、安心して食事を楽しむことができた。久しぶりに笑った気がする。

 マリリン。ゴンさん。三朗さん。吸血鬼に、妖狐に、化け狸。

 周りににいるのは人ではない妖怪ばかりだが、そんなことは、もうどうでもよかった。

 これが俺の新しい家族なんだと素直にそう思えて、なんとなく心が温かかった。


 さて、その一時間後である。部屋にはすっかり空になった酒瓶がゴロゴロ転がっていた。

 どうやら、この旅館は女将さんの他には仲居のおばちゃんが一人いるだけのようだ。今夜の宿泊客は他に三朗さんのお供をしてきたダイコクグループの社員が数名いるだけという話だが、女将さんたちは、どうも、そちらに付きっきりのようである。

 ――というのも、

「我々はかまいません。どうか社員の世話を焼いてあげてください」

 と、一言、三朗さんが断りを入れてあるからだ。

 なので部屋には前もってビールがケースごと、日本酒や焼酎が一升瓶ごと運び込まれている。それら大量の酒が、ほんの一時間たらずで飲み干されようとしているのだった。

「まぁ数ある妖怪の中でも鬼族は最古だからって、ちょっと他の妖怪に対するデリカシーってものがなさ過ぎるんじゃないっすかね。とにかく品がねぇ。いつもパンツ一枚だし」

「鬼より偉そうな天狗の方がムカツクわよ。なにあの、俺たち知的な妖怪だからって態度。あら、もうポットのお湯が切れたじゃない。私はお湯わりじゃないと駄目なのよ」

 なるほど。地獄の社会にもいろいろとあるようだ。さても妖怪たちは人の心や思念から生まれたせいか、彼らの身の上話を聞いてると、あまりにも人間臭くて笑えてくる。

 だが、そんな話を聞いていると、なんとなくだが疑問も生じてくるというものだ。

 マリリンの話では、俺にはさまざまな知識がインストールされているはずなんだけど、どうも肝心な部分が抜け落ちているような気がしてならない。

「あのさ、そういう妖怪の知識が俺の頭から完全に抜けちゃってる気がするんやけど?」

「おぼっちゃま。そういうことは、そのつど学べばいいんですよ」

 ゴンさんいわく、いきなり妖怪だの怨霊だのという話をされても信じないし、へたすれば頭がおかしくなりかねないので、そのような知識はおのずと経験することで学べるよう、あえてインプットしていないのだとか。まったく、今さらながらに、いらぬお世話である。

 とはいえ、そうは言っても、やはり前もって知っておく心の準備は必用だ。

 やはり、これだけは是非とも訊いておきたい。

「つかぬことを訊くけど、妖怪たちって、みんな、そんなにお酒に強いの?」

「総じて酒には強いですよ。酒は御神酒。古来より『霊験妖力』を増してくれるものなのです。といっても普段から酒盛りばかりしているわけではございませんので誤解なきよう」

 とマリリン。それを聞いて少しだけほっとした。

 いくら大富豪になったからとはいえ、毎日こんなに酒を飲まれてはあまりにも不経済だ。

「まぁ大目に見てやってください。どうやら今回の件、いささかきな臭い匂いがします。もしや一戦まじえることになるやもしれませんぞ」

 と、そこへコンコンと扉をノックする音がした。

「どうぞ」と三朗さんが言葉途中で応じる。

 入って来たのはこの宿の女将である政恵さんと、この宿で働いている仲居さんだ。

「すいません。なんのおかまいもなく」

 女将の政恵さんが申し訳なさそうに頭を下げた。

「いえ、かまいません。社員の面倒を見てほしいと言ったのは私ですから」

「あちら様はそろそろお開きのようです。あら、お酒がすっかり片付いて。足りないようでしたらお持ちしますが?」

「いえ、私どももぼちぼちお開きにしようと思っていたところです。人手が足りないところお世話になりました」

「とんでもございません。こちらこそ、なんのお世話もできなくて。お料理はお口に合いましたでしょうか?」

「ええ、とても美味しかったです。それより暴力団の嫌がらせは続いているのですか?」「はい、連日の嫌がらせに、ほとほと困っております」

 政恵さんと三朗さんのやり取りを聞いていて、ちょっと興味を持った俺は迷ったけれど黙って聞いているのも気になるので口を挟ませてもらった。

「やっぱり、この町では何かが起きているんですか?」

 すると、たちまち政恵さんと仲居さんの表情に翳りが差した。

 こりゃ、まずいことを訊いちゃったかな?

「大丈夫です。この方はダイコクグループの先代社長の御子息、大黒摩耶様です。きっと今回のことでは力になってくれるはずです」

「あら、そうだったんですか。でも、そんな方にご迷惑をおかけするわけには……」

「いーえ、女将さん、私はもう我慢できませんよ!」

 仲居さんが声を荒げた。

「再開発を強引に進める鳴金市の市長こそ諸悪の根元です。怪しい不動産会社と結託し、ならず者を送り込んでは片っ端から営業妨害。あまりにも酷すぎます。このまま泣き寝入りすれば向こうの思う壺ですよ」

「ならず者って、俺たちが出くわしたあのいかにもその筋の方々?」

「そうです。あんな連中が大勢やって来て強引に宿泊し、お客様に乱暴を働くのです。ですから、どの宿も今はご迷惑がかかるからと宿泊をお断りしているんです。女将は頑として抵抗しているものですから日に日に嫌がらせも度を増してきて。おまけに山のほうでも……あ、この話は……」

「いいえ、別にかまいません。その事はおぼっちゃまにも無関係ではありませんから」

「どういうこと?」

「屋敷のあるあの山が、今ちょっとした名所になって困っているのです」

「名所?」

「さても夜な夜な怨霊が徘徊するという噂が流れ、今や有名な心霊スポットとして注目されつつあるのです」

「あぁ、そのことか……」

 さもありなん。なにしろ山の中の屋敷とやらがすでにあのような状態なのだ。そんな噂が立たないほうがおかしいのである。俺は何とも言えない複雑な顔をするしかなかった。

 このままいくと、俺は確実にあのお化け屋敷の住人にされてしまう。

 それを思うと、かなり気の滅入る話だった。

「おかげで従業員は次々に辞めていくし、このままでは連中に脅されて泣く泣く宿を手放すしかありません。もう私たち、どうしたらいいのか……」

 政恵さんと仲居さんは今にも泣き崩れそうである。

「まぁ、できる限りの事はしますから、気を強く持ってがんばってください」

「よろしくお願いします」

 やがて政恵さんと仲居さんは夕食の後片付けに取りかかった。なんだか邪魔になりそうな雰囲気だったので、俺はその間にもうひとっ風呂浴びることにした。


 ひとっ風呂浴びて再び部屋に戻ると、三郎さんがどこか深刻そうな顔つきで俺たちが帰ってくるのを待ちかまえていた。

「遅くなってすいません」

 お茶を飲んでいた三朗さんを向かいにして俺は座卓に腰を下ろした。三朗さんは露天風呂つきの豪華な部屋に宿泊するらしく、そのことについて多少の罪悪感を抱いていたのか、俺たちがもどってくるまで部屋の番をしてくれていたのだ。

 その三朗さんがおもむろに話を切り出した。

「――先ほどの続きをせねばなりません」

 かなり真剣な表情をしていたので俺も自ずと気を引きしめる。

「さても我々が調査したところ、鳴金市とつるんでいる、とある不動産会社は、暴力団員の他にも怪しげな集団と関わっているという、そんな情報が浮上してまいりました。まだ実体は掴めておりませんが、彼らは裏陰陽師と呼ばれているそうです」

「うらおんみょうじ?」

「はい。彼らは陰陽師の末裔を名乗っているようですが、それは、かつての陰陽師とはちがい、もっぱら呪術を用いて闇の仕事をする危険な連中であると認識しております」

「へぇぇ、俺も陰陽師ってのは聞いたことがあるよ。小説やコミックでよく見るよね」

「はい。陰陽師はそもそも古来より時の権力者と密接に関わり、時には政治をも動かしてきた霊能者たちでございます」

「ああ、そういや。そんな噂、おいらも聞いたことがありやすぜ。そんな連中なら人界に霊道を造りだし、そこに数多の怨念を封じ込めることも朝飯前ですぜ」

「私も同じ意見です。そればかりか大黒社長の事件にも彼らが関与していたのではないかと疑っております。そもそも、この町の再開発は社長が自ら行おうとしていた事業だったのですから」

「ま、町の再開発だって!」

「落ちついてください、おぼっちゃま。社長は、これまでのような強引な経営のやりかたを改め、その事をきちんと反省した上で、その町の伝統や文化を活かし、そこに住む人たちにも喜んでもらえるような町造りというものを目指していたのです」

「まさか事件の裏には、それをよしとしない者の陰謀でもあったと言うの?」

「新たな再開発は社長の事件があった直後に持ちあがった話です。これにはさまざまな企業が参画する予定です。その裏に魔物が巣くっていたとしても、おかしくはありますまい」

「なんや、どんどん怪しい方向に話が進んでいくよ」

 とはいえ、もう後には引けない。ここは覚悟を決めるしかなかった。

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