第4話 裏陰陽師

 次の日の朝である。宿で朝食をすませた後、俺とマリリンは最寄りの駅から電車に乗って一駅離れた鳴金市の中心部――つまり市の行政区へと向かった。

 本日のおめあては、そこにある鳴金市立図書館である。

 弁天町の衰退は隣接する鳴金市に吸収合併されて以来ますます酷くなる一方で、もちろん町の再開発も市が主導で企業の誘致などを行っているという話であった。

 となれば、ここはまず市政についての資料を精査し、問題がないかどうかを調べておく必用がある。すでに三朗さんからもさまざまな情報が伝えられてはいるが、そこはちゃんと自分たちの目でも確認しておいたほうが賢明だろう。

 その一方で、ゴンさんには町に残ってもらった。もう少し詳しい情報を集めておくと自らその役目を買って出てくれたのは助かるが、これはきっと温泉巡りでもしながら湯上がりビールを存分に楽しもうという魂胆にちがいない。

 まぁ、ここは好きにさせておくことにする。ただし三人とも携帯電話など持っていないので別行動になると、たちまち連絡手段に難儀する。これには今後の対策が必用だ。

「――とはいえ、これまた分不相応に立派な行政区を造ったものですね」

 とマリリン。今日の服装は昨日と同じで漆黒のワンピースに黒い毛皮のロングコート。整然と区画された町の風景はどこもかしこも近未来的で、その中にたたずむ彼女の姿はなんとなく神秘的で、どことなく非現実的ですらある。ちなみに俺はというとジーンズに長袖のポロシャツといった取り合わせだ。並んで歩くと生憎の歳の差もあって、なんとも言えないチグハグ感があるんだけど、たぶんその場合、奇異の目で見られるのはマリリンの方なので、あまり気にしないようにしている。といっても町中に人気はなく、じろじろとした視線を送るような輩はいない。県道から伸びる幅広の道が駅と行政区を繋ぎ、それに沿って様々な施設が建ち並ぶ殺風景な景観が目の前に広がっていた。一応、街路樹なども植えられており、なかには観光客が目当てらしき小洒落た飲食店などもチラホラ見えるが、俺の目にはどうにも違和感が否めなかった。まるでいきなり地方の田舎町に都会の一角が出現したような、そんな錯覚を覚えるのだ。海と山と温泉の町。これまで育んできたシンボリックな要素をかなぐり捨てたわざとらしさも垣間見え、どこか寒々しくも感じられた。

「確かに立派やな。でも、なんか違和感ありまくりやで……」

 かつてはここにも伝統ある町の風景が存在していたはずだ。それらを壊し、情緒の欠片もない新市街を造ったにちがいない。そのあまりにもシステマチックな造形に人の温もりといったものは感じられない。

「私も同感です」

 と頷くマリリン。それを受けて俺はさらに憮然と吐き捨てた。

「そりゃまぁ耐震性の問題とかいろいろあるんだろうけどさ。こんな風に一カ所だけ切り取ったように新しくしても、かえって奇妙なだけやと思うんやけど」

「市政の中枢にいる者の感性が壊滅的に悪く、真に価値ある物を理解することができなかったのでしょう」

 マリリンからの返答は、さらにも増して辛辣なものになった。

 やがて目の前に巨大な建物が見えてきた。市庁舎にも負けない大きさの建造物。まさに近未来的な外観の代表格――鳴金市立図書館である。


「さて開館は十時ですか? 困りました。早く着きすぎました。まだ三十分ほどあります」「まぁ電車で一駅だったからね。ゆっくり歩いてきてもよかったかも」

「幸い近くに喫茶店が開いているようです。そこで時間を潰してはいかがですか?」

「うん、そうだね」

 というわけで開館の時間がくるまで俺たちは図書館の近くにある店に入ることにした。

 店の中の雰囲気は地中海をイメージしたような洒落たオープンキッチンだった。

「俺、よく分からないけど、このカフェラテってのにする」

「では、私はカプチーノを」

「かしこまりました」

 ていねいなお辞儀をし、店のオーナーらしき人物が店の奥へと引っ込んだ。

 この行政区は海から続く緩やかな斜面にあるので、店内の窓からは少しだけ港町の風景をかいま見ることができる。そこには、今も大きなガスタンクが建設中だ。

 やがて、ほのかに湯気をたてるカプチーノと、カェラテがサーバーに乗せられて運ばれてきた。小皿にもられたクッキーと一緒にテーブルの上に置かれる。

「あのぅ、お二人とも観光でこちらに?」

 白いコック服の若い男性が訊ねてきた。

「あ、ぼくは、この店のオーナーで、鏑木と申します」

「はじめまして、ぼくは大黒といいます」

 ほのかな甘みも心地よく、舌に滑らかな、こくのある味わいが口の中にひろがった。

「いいえ、観光ではありません。ちょっとした野暮用です」と、マリリンもカプチーノを口に含み、とたんに感心した面持ちになっている。

「とても、いい香りです」

「まぁ本場のイタリアで勉強しましたからね。でも、このとおり閑古鳥の有様ですよ。こんなことなら弁天町のほうに店をかまえりゃよかったと少し後悔してます。噂じゃ大きなホテルができるんですってね。なんでも町をそっくり再開発するんだそうです。こっちは、今じゃ、すっかり新資源の町になっちまって、なんか寂しいですよ……」

「その資源会社ってのは、あのガスタンクのある工場がそうなの?」

 窓の外を指さしながら鏑木さんに訊ねてみた。

「そうです。この沖合でメタンを採掘してるんです。この町は漁業や観光より資源に未来を託す町に変貌しちまったんです。まぁ町の人たちは以前より生活が安定しているから満足しているみたいだけど。でも、なんていうか……それだけが人生じゃねっつうのか」

 なるほど。俺には鏑木さんの言いたいことが、なんとなくだが分かるような気がした。

 もちろん国産エネルギーの開発が、この国にとって長年の夢だったことは知っている。

 それによって町が発展し、人々の暮らしがよくなるのは、とてもいいことなのだろう。

 だけど、そのせいで失われていくものも、やはり確実に存在するのだろう。

 まるで時間を早送りしているかのように変化していく社会……その変化が必ずしも悪いわけではないのだろうけれど、そこから取り残されていくものが本当に不必要なものなのかどうかも、時にはちゃんと考えなければいけないのではないだろうか?

 いや、そう思うのは、俺がまだ世間知らずなガキだからだろうか?

「時々、思うんすよね。どうして、みんな全速力で走ってんだろって?」

 マリリンがレジカウンターで代金を支払っていると、鏑木さんがぽつりと呟いた。

 俺も思ったことを口にしてみた。

「誰もが全力で走ってるから、自分だけ止まるのが怖いんだと思いますよ」

「だろうね。でも立ち止まることも時には重要なんじゃない? たまには心を休めて過去を見つめ直す事も大事だと思うんだ。俺はそんな店を作りたかったんだけどね……」

 と鏑木さん。どこか寂しげに、「ありがとうございました」と送りだしてくれた。

 

「それにしても、この図書館は、まるで高級ホテルみたいに立派やな……」

 施設の中に入り、その広さや豪華さに驚い俺は、ついそんな感想をもらしてしまった。

 あまりにも閑散としていたので、よけい広く感じたのかもしれない。一階は入ってすぐが広大なロビーになっており、そこは市民にとっての憩いの場にもなっているようだが、ぱっと見た感じでは数える程度の利用者しかいなかった。俺たちは、そこから階段を上って二階に行ってみた。そこには絵本や児童書が並んでいた。さらに、そこから三階に上がると雑誌や文芸書のコーナーがあり、四階には専門書や学術書が並んでいた。他にも会議室や自習室やパソコンルームが設けられていて、さまざな資料や新聞記事の閲覧などもできるようになっていた。俺たちは四階にある市政資料コーナーから資源開発や行政に関するものを選びだし、必要な部分だけをコピーしてから同じ階にあるパソコンルームに運び込んだ。驚いたことにパソコンルームには最新の機種が何台も設置されていた。

「この図書館の大きさと規模を非難するつもりはありませんが財政支出が適正だったかどうかは疑ってしまいますね」

 確かに小さな地方都市にはますます不釣り合いな施設だと思わざるをえなかった。

「利用者が多けりゃ無駄にはならへんと思うけどな……」

 これまで見てきた各階の状況を思い浮かべながら俺は意見を口にした。

 残念なことに、どの階も利用者が多いとは言えなかった。

 今、このパソコンルームを利用しているのも俺たちだけである。

「これから人口が増えるのを見越してるんやと思うで。なにしろ資源開発で潤う町やし、おまけに大きなリゾートホテルも建設予定なんやろ」

「その場合は人口の増加にともない、それに見合った都市計画を立てていくのが筋ではありませんか?」

「十三歳のガキに地方行政の云々について意見を求められても困るんやけど」

「ご主人様の頭脳には、それに答えられる知識がすでにインストールされてるはずですが」

「あのな、人の頭をまるでパソコンみたいに言うのはやめてんか」

「では、さっそく作業に取りかかりましょう。私はネットを検索し、他に関連した出来事がないか調べてみますから、ご主人様は作製した資料に目を通していってください」

 俺の苦情をあっさり無視してマリリンはキーボードを操作し始める。

 さても地方自治体たるもの行政に関する資料はある程度、閲覧できるよう公開しているものだが、この図書館における取り組みは、いささか大袈裟に思えて仕方がなかった。

 なにしろ市政コーナーをわざわざ設けて公共のサービスがいかに行き届いているのかを大いに宣伝していたからである。

 おかげで情報を集めるのには、あまり苦労はしなかった。


「ま、ざっくり目をとおしたところ、これといった問題は見つからんかったんやけどな」

 どの税金の使われかたも、一見、正しいと思える理由が記されていたし、当選三回目の市長は市民からの支持率も高く、これまでに汚職や失政も見られない。

 俺たちが集めた鳴金市の資料からは、そんな市政の在り方が窺えた。

 だが、そこは生まれかわった俺の頭脳である。その中に潜む微かな闇を見逃さなかった。 そう、鳴金市と民間企業が共同で行っている開発会社。それに関係する資料の中に、それは見い出すことができたのである。

 これがもし企業か、もしくは国そのものが行っている企みであれば看破することは難しかったことだろう。市側が無知であるがゆえに資源開発がどれほど利潤を上げているのかを声高に語ってくれていたおかげで、逆にその微かな疑問を見逃さずにすんだのである。

「――と、まぁ、そんな前置きはどうでもええけど。まず俺が言いたいのは国産の資源と言えば聞こえはええけど、その生産にかかる費用は莫大なものになるということや。要するに生産する方法や輸送の手段が確立している他の資源会社との価格競争にはどうしても負けてしまうはずやねん。せやのに、この町で生産される天然ガスは、かなりの規模で、さまざまな会社に供給されている。まだ試験段階の開発事業やのに、さも本格的な運営が行われているかのように見えるのも、かえって、おかしな話とちゃうやろか?」

「えっと、それはどういう意味ですか?」

「あんな。これはあくまで憶測やけど。もしかすると輸入したガスを国産品やと欺いているのかもしれへん、ということや。いくらなんでも販売している量が多すぎると思うで」

「まさか市民が騙されていると? いや、もし、それが本当なら……」

「うん、そやな。世間に知れたら大スキャンダルになるやろな……」

「ちょっと席を外します」

「……あれ、どこへ行くのん?」

「ことはデリケートな問題です。ですが、はっきりさせておいたほうがいいでしょう。ご主人様の推理を三朗殿にお伝えします。図書館の一階に公衆電話がありましたから」

「なぁ、そこはスマホでも買おうよ。公衆電話でそういう話をするのもどうかと思うし」「同感です。三朗殿もすでに持っておられるようですし、私もその必要性を感じております。その事も冥府にお伝えし、すぐにも購入の検討(けんとう)をしていただこうかと思っております」「そんな大袈裟な……そんくらいのこと、こっちで勝手に手続きしてもええやんか。まさかそれも公衆電話で?」

「はい。でも仕方がありせん」

 マリリンは顔をしかめた。

「ちゃんと前もって申請しないと経費のことはうるさいんですよ」

 なるほど。仕事で使うとなると、そういう問題もあるのだろう。ただし、そのやり取りで一つ重要なことを理解した。地獄への伝達手段は公共の電話回線を使っても可能なのである。俺は呆れながらにパソコンルームから出ていくマリリンを見送った。

 そして再び資料に目を通しながらパソコンのキーを叩き、今度は弁天町を舞台に持ち上がっている新たな再開発計画とやらについて調べてみることにした。


 さて、いかに海外からの観光客が最近は増えているとはいえ依然として各地方の温泉街はどこもかしこもパッとしない。有名な温泉街ですら観光客を呼び込むために必死の努力をしている昨今、まったく無名の弁天温泉など、もはや死にかけ寸前といっても言いすぎではない。三郎さんの話では暴力団による営業妨害が起きる前から倒産する旅館が後を絶たず、どのみち町を再興するには思いきった梃入れが必要だったはずだ。

 ただ少し幸運だったのは、同じ町にダイコクグループの社長である大黒宗佑氏の別荘地があったことだ。そのよしみで社長は自分の財産を投げうち、弁天町のために役だてようと考えていた。しかしながら、この計画は大黒社長が死亡したことで消えてなくなり、なぜか、その直後に新たな温泉リゾート化計画が持ちあがってきたのである。

 はたして、これはあくまで憶測であり、資源開発に問題があると考えてのことだが、もし、そのような感心できない行為が行われているとすれば、当然、市はその問題を隠し続けたいと考えるだろう。それに加え、問題の資源開発は、おそらく深刻な経営難にあり、世間を欺くことで、その赤字を最小限にくい止めているとすれば、もはや、それ以外の開発事業に新たな未来を期待するより他にない。そこで市は温泉のある弁天町に目をつけたのではないだろうか。しかしながら大黒社長が考えていた町興しのアイデアでは大した利益も期待できそうにない。やるからには、もっと大きな利益を生みだせる計画のほうがいいに決まっている。そう、全国に観光ホテルを何軒もチェーン展開している大きな企業の力を借りて観光客でにぎわう新たな町を造りだす。たとえば、そんな計画が巧く軌道に乗れば、さも資源開発に潤う町の様子を描き続けることは可能かもしれない。

 ただし、そこに住む人たちは、確実にその犠牲になってしまうだろうけれど。

「うん、なるほど。なんとなく再開発の絵図面が見えてきたぞ。しかし、問題はや……。その裏に潜んでいる謎の裏陰陽師とやらが、今後どんな行動に出てくるのか……」

 そう、それが今一番、気になっている部分である。

 しかも、その謎の術者どもは確実に俺たちのことを邪魔に思っている様子なのだ。

「いや待てよ。たとえそうだとしても、やけに手を打つのが早すぎないか? まるで俺たちがこの件に関わってくるのを、あらかじめ予測していたかのようにも見えるんやけど」

 うーむ……と俺はしばらく考え込んでしまった。

 そこへ、ちょうどよくマリリンが戻ってきた。

「三朗さんには連絡が取れたの?」

「はい。三朗殿は、ご主人様の推理にいたく感心してましたぞ」

「へぇぇ……そうなんだ」

 俺はそれに気をよくし、さっきまで考えていた事をさっそくマリリンに説明した。

「ほぅ、さすがはご主人様です。三郎殿も同じような推理を立てておいででした。ですが事が事ですから、これについては、こちらで手を打つとお伝えしてくれとのことです」

「だよね。もしそうだとしても、俺たちでは何もできないよ。こんなのは三郎さんに任せておくのが無難だろうね。だったら俺たちは俺たちの仕事に専念しよう」

「御意。それにつきましては三朗殿から、かような雑誌を参考にされてはとの提案が」

「ん、雑誌だって? あぁ週刊誌か……いや、でも、それはどうかな?」

 見ると、マリリンは一冊の雑誌を手に持っていた。

 その名も、『週間ほぼ実話』。その名のとおり、まったく信用ならない雑誌である。

 たまにでっちあげ記事や無茶な取材で訴えられたりもしている有名な週刊誌だ。図書館がこんな胡散臭い雑誌まで閲覧できるよう置いているとは、ちょっと驚きである。

「……ん、これは?」

 マリリンから雑誌を受け取りながら俺は少し目を細めた。

「はい。大黒社長の殺害事件について書かかれた記事が掲載されているのです」

「ふーん……雑誌が信用できるかどうかは別にして、少しは参考になるかもしれへんな」

 とにかく雑誌記事の内容はこうだった。さても夫である大黒社長を殺害した妻の幸恵夫人は、ここ最近、酷い鬱病を患っており、通院を余儀なくされていたらしい。その治療もかねて家族で弁天山の別荘地を訪れていた時に、あの悲惨な事件は起きたというのである。

「なるほど。やっぱり事件が起きたのって、あの屋敷だったんだね」

「――で、ございますが、何かそこに問題でも?」

「だって事件が起きた屋敷に住むのって、心理的にもかなりの負担にならない?」

「そこは地獄の捜査官。そんな弱気でどうします?」

「いやいや心を病んだ妻が家族を殺害し、自らも命を断ったなんて、まさに呪われた屋敷じゃないか……でも、それより問題なのは謎の裏陰陽師だよね。これまでの事を考えると、そいつら、俺たちの存在にすでに気づいているんじゃないかな? 町に残してきたゴンさんが、ちょっと心配になってきたんやけど」

「では、いったん宿に戻るとしましょうか?」

「だったら、そのついでにお昼にせぇへん? すっかり腹も減ってきたし」

 するとマリリン、例の黒い毛皮のコートからこれまた黒い革の手帳を取り出し、なにやら入念にチェックしだした。

「では、蕎麦などいかがでしょう?」

「蕎麦? まさか外国産吸血鬼の君からそんな単語が出てくるとはこれまた意外やな」

「ふふふ……今の私は、身も心も生粋の日本人であると自負しております。実はこの近くに通の間だけで噂される知られざる伝説的な蕎麦屋の名店があるのです」


海ぞいに点在する集落を縫うように敷かれた単線の鉄道。その線路に平行して走る車道もまた一車線。申し訳ない程度に設けられた歩道にはガードレールはなく、行きかう人の姿もない。時折、通りすぎる電車の音以外は海から流れる潮騒だけが耳を楽しませてくれる。そんな寂しげな場所に、その蕎麦屋はあった。

 山の斜面に置き忘れられたかのように建つ汚い公衆便所。その隣にオンボロ家屋を寄り添わせ、『蕎麦屋』とだけ書かれた暖簾がこれまた単純で分かりやすい。

 おい待て。本当にここが知られざる伝説的な名店かよ?

 そんな暖簾をくぐり店内に入ると、海辺の山里らしい質素な佇まいが目に飛び込んできた。どうやら客は一人もいないようだが、それも頷ける。だって隣が汚いトイレだぜ。

 そんな店の奥から割烹着姿のお婆ちゃんが愛想よく出迎えてくれた。

「いらっしゃい。あれま、これまた、めんこい娘さんと愛くるしいおぼっちゃまだこと」

「ご主人様、めんこいと言われましたよ」

 嬉しそうにコメントを求めてくるマリリンは無視して俺は席に着いた。

「なんにします?」

 と、お婆ちゃんが訊ねてきたので俺は天ザルを注文した。マリリンも同じものを注文する。すると店の一角で新聞を読んでいたお爺さんがいきなり立ち上がり、そのまま奥にある厨房へと駆け込んでいった。そして待つこと数分――やがて笊に盛られた艶やかな蕎麦と、ホクホクにあがった天麩羅と、湯気を立てる蕎麦湯が机に並べられた。まずは一気に蕎麦をすすってみる。とたんに、ほのかな甘味と香ばしさが口の中に広がり、思わず目を丸くした。喉ごし。歯ごたえ。馥郁たる香り。その全てにおいて非の打ちどころがない。

「うまいっ。薬味は風味を壊さないように摺りおろした大根のみ。深みのある出汁とからんで完璧なハーモニーを奏でている。カリッとした衣に包まれた海老もプリップリ。野菜の天麩羅もサックサク。うーん。なかなか君の情報もあなどれんもんやな……」

 抑えきれぬ驚愕が思わず口からこぼれた。

「おい坊主。若けぇのに、この蕎麦の味が分かるとは、なかなか見どころがあるやないか」

 夢中で食べていると厨房の奥から声をかけられた。見ればニヤリとした笑みで親指を立てるお爺さんの姿がある。最初に見た時は、いかにも頑固そうな親父さんだと思ったが、実は、けっこうお茶目な人らしい。俺はいったん箸を止め、同じく親指を立てて応じた。

「こんなに美味い蕎麦は初めてですよ。隣が汚い便所なのにっ!」

 もちろん俺が住んでいた町にも蕎麦屋はあった。全国から選びぬいた蕎麦粉を用いた店主自慢の蕎麦はそりゃもう絶品で、親と一緒によく食べにいったものである。

 おかげで味にはうるさくなったが、この店の蕎麦は、その思い出にも勝るものだった。

「おう、嬉しいことを言ってくれるな……まぁ、不幸なことに隣が汚い便所だから客は少ねぇがよ……。こんな田舎町の蕎麦でよけりゃ、またいつでも来な」

「はい、また来ます」

 俺たちはお爺ちゃんとお婆ちゃんに再会を約して店を後にした。

 そしてブラブラと再び温泉街をめざして田舎の一本道を行く。田舎道によくなじむ線路わきの風景の中をそぞろ歩きながら時折見える海の青さに心癒される三十分ほどの道のりである。やがて腹ごなしも充分に気分も爽やかになってきた頃、ようやく木造の駅舎が見えてきた。そこから弁天山に向けて緩やかな坂道が続き、その前には観光客を出迎えるための歓迎ゲートが立っている。

 なんと、ピンクの文字で『ウエルカム弁天温泉』と記した大きな看板である。

 その、あまりのセンスのなさに思わず呟いてしまった。

「うん、きっと観光客があまり寄り付かないのは、これにも原因があるんだろうね……」

 うんざりしながら、その派手な歓迎ゲートをくぐり抜ける。

 と、その時だった。さっきまでの晴天が嘘のように曇りだし、辺りが濃い霧に包まれだしたのだ。おまけにゾクゾクとした悪寒が這い上がってきて思わず足を止めてしまう。

 自然と警戒感も強まってくる。ヒタヒタと足音が近づいてきた。すでに周囲も分からないほどの白い霧が立ち込めており、その向こうから、やがて三人の男が現れるや俺たちの行く手に立ち塞がるのだった。

 男たちは皆、奇妙な恰好をしていた。

 まるで平安時代から現代にタイムスリップしてきたかのような服装である。

「黒い狩衣に黒烏帽子……ご主人様、油断してはなりませんぞ。こやつら徒者ではございませぬ」

 俺も慌てて肩に下げた鞄から閻魔帳を取りだして身がまえた。

 そんな俺に向かって中央に立つ男が不敵な嗤いを投げかけた。

「さては、いろいろと嗅ぎ回っておられるのは、あなた方ですかな?」

 その男が訊ねてきた。その手には奇妙な物体を抱えていた。

 四角い板に金属製の円盤を乗せた風変わりな形をしている。

 円盤は一人前のピザくらいの大きさで、その下にある板はもう一回り大きい。

「なんや、こいつら……奇抜な恰好をしやがって」

「見てください。立派な式盤を持ってますよ。式盤とは四角い地板に丸い天板を重ねた占いの道具です。されば陰陽師が昔からよく使う術具ですよ」

「――ってことは、あいつらが噂の裏陰陽師とやらか?」

「おや、我々のことについても、お詳しい様子。これは自己紹介がはぶけて助かります」

「そりゃどうも。せやけど、いきなり現れて、いったい、なんの用やねん」

「その前に、あなたたちこそ何者ですか? 我々が仕事の依頼を受けると、たまに邪魔をする希有な能力者たちがいます。彼らは妖怪の類をしもべとし、すさまじい力を用いて我らの術をもはねのけます。おかげで、こちらは大損害。はっきり言って相手にしたくありません。今回も弁天山で仕事をしていると、やはり、あなた方が現れました」

「まぁ、不幸な出会いやな。たぶん、そっちとは利害が対立してるから、そらしゃーない」

「ほぅ、ならば話しあいが必要ですな」

「と言われてもな。こっちも引けへん事情があってなぁ……」

 困ったなぁ、と俺はマリリンの顔色を窺う。

 彼女の返答は予想どおりだった。

「取引には応じませんよ。そもそも、我らの領域に踏み込んで来たのはそちら側です」

「そうですか。ならば仕方ありませんな」

 その横からまた別の男が前に出て、その後ろ手に隠しているものを見せつけた。その手に掴んでいたのは茶色い毛並みの尻尾である。なんと狐だ。その狐が人語を話しだした。

「おーい、助けてくれ。おいらが何をしたってんだ。温泉を楽しんでいただけじゃねぇか」

 まちがいなくゴンさんの声である。

「狐が人の姿に化け、あまつさえ温泉に浸かっていたところを捕獲しました」

 なんのことはない。人ならぬ狐を人質にとり、最初から強引に取引を迫る気だったのだ。

「これはまた厄介なことになってしもうたな」

「はて、我らに狐の知りあいなどいましたか?」

 うわっ、あっさりと見捨てやがった。

「てめえぇ、マリリン! この薄情もん!」

「ねぇ、ちゃんと助けてあげようよ。どうせ交渉は決裂するんだし」

「まぁ、ご主人様がそう申すのならば致し方ありませんね……」

 そう言うやいなや黒い毛皮のコートがひるがえった。またもやあの車の屋根をも切り裂く必殺技が炸裂するのかとビビったが、そんな俺の耳に響いてきたのは勢いよく懐に飛び込んできた狐の悲鳴だけである。見ると、俺の腕の中で狐がブルブルと震えていた。

 さらによく見れば、さっきまであったフサフサの尻尾も綺麗に切り取られていた。

「殺される。殺される。マリリンの姉御に殺される。自慢の尻尾もなくなった」

「気をしっかり持ちなよ。尻尾はまた生えてくるだろうからさ……」

 そうこうしてるうちに戦闘態勢を整えた術者たち。その手にはいつしか長細い紙片が用意されていた。そこには複雑な模様と文字が記されていた。一見すれば、ただの御札のようにも見えるが、神社で売られている護符の類とはまるでちがうようだ。

「あれは呪符です。どのような力が秘められているか知れたものではありませんぞ」

 やがて呪文を唱える声が響き渡った。

「雷威震動! 石楠の船に鳴れしも雷のたまふり天鳥船之神。急急如律令!」 

 まるで言ってる意味は分からないが危険な臭いがプンプンした。なにしろ、その呪符とやらから電撃がほとばしり、バチバチと火花が舞いだしたのである。

 しかも、ただの紙であるはずの呪符がまっすぐこちらに向かって飛んでくる。

 焦った俺はとっさに閻魔帳を開き、頭に浮かんだ言葉を叫んでいた。

「なうまくさんまんだ~、ぼたなん。いんだらやそわかっ!」

 またしても口から飛び出したのはまったく意味不明な真言とやらだ。真言には仏の力が秘められているそうな。さても今回はどんな奇跡を起こすのかと、めぐるましくそんなことを考えていると、頭上から雷が落ちてきて腰が抜けるほど驚いた。電撃よりもはるかに強力な雷撃にさらされた呪符は焼け焦げて風に舞い、灰となって消滅した。

「なんと帝釈天の真言! 高位の密教僧でもそのような力を持つことは不可能だというのに、こんな年端もいかぬ少年が、かような力を使いこなすとは……」

「えっ、今なんつった。鯛焼きの神髄?」

「帝釈天の真言です。ご主人様……」

「だから何なんだよ。それって偉い人か何かなの?」

「天部の頂点に君臨している御方なのですが」

「くっ自分が何をしたのかも分かってないこんなトンチキに我らが遅れを取るとは……」「な、なにを失礼な! 先に攻撃をしてきたのはそっちやろが!」

 俺は憤慨した。ところが男たちはすでに撤退の構えを見せていた。両脇が呪文を唱えて後退るや中央の男が式盤という道具を操り、なぜか勝ち誇るかのようにこう言うのだった。

「ますます、あなた方への興味は募りますが、ここで角突き合わせるのは分が悪いようです。ここは、いったん引かせてもらいましょう。そして今夜改めてお招きします。そこで雌雄を決しようではありませんか。では、また後ほど――」

 男たちはそう言い残すや、まるで周囲に溶け込むようにしてかき消えた。

 不思議なことに周囲を包む真っ白な世界も消滅し、あっという間に青空がもどってくる。 そこには数分前と変わらぬ光景が、何事もなかったかのように存在していた。


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