蒼波

「災難だったな、兄貴」

「火に油を注いだお前が言うな。頼むから適当に流してくれ」

「断る。卑しい売女の分際で兄貴にべたべたと……反吐が出る」

 そう吐き捨てるラサンテの声音が先程とは打って変わって低く、おまけに凄みを帯びていたので、レセーンは黙らざるを得なかった。

「兄貴も早く奴を切り捨ててくれ。中途半端に生返事をくれてやるからそうなる、とんだ茶番を見せられる俺の気にもなれ」

「そう言われてもな……」

 心做しか早くなったラサンテの歩調。沈黙が痛い。

 ああ、怒らせたな、と些か申し訳なく思いつつ、レセーンは半ば引きずられるようにして風呂場へと入っていった。


 浴室といっても内実は岩窟であった。飛沫を上げて流れ落ちる滝で身体を洗い流すのだ。

 誰かの趣向か、自然の悪戯か分からぬが、燐光を発する水晶と苔とが岩を覆い、水簾は青いヴェールに、滝壺は神秘の泉と見えた。おかげで灯りを灯さずとも、辺りを見るのに支障はない。

 剣を置き、服を脱ぎ、足先を浸す。そして水に身を投じる。

 痺れるような冷感が駆け抜け、脳天を突き上げた。水は凍るように冷たく、火照った身体が一瞬にして引き締まる。感覚が失せ、痛みさえも溶ける。深く息をし、血流に乗せて魔力を流し込めば、皮膚がゆっくりと再生し、傷が塞がってゆく。

 青く迸る水流に打たれながら、二人は並んで立っていた。

「……すまん、ラサンテ」

「どうした?」

 声が水音に掻き消されずに届く距離であった。

「お前がエリーファのを嫌っているには重々承知だが……それでもやはり、妹だ。無下にはできん」

「はっ」

 決まり悪げに詫びる兄に、ラサンテは冷笑した。

「安心しろ、兄貴に免じて許してやっている。……そうでなかったら疾うに殺っているさ」

 昏い微笑を湛えつつ、喉の奥でくつくつと嗤う。その様にはどこか背筋の寒くなるものがあった。

「だがな」

 ばしゃりと水音を立て、ラサンテが迫る。レセーンには、己よりも一回り、二回り逞しい身体が視界を塞ぐかに思われる。肩に置かれた弟の手には徐々に力が込もり、がっちりと掴んでくる。

「あの女のことを俺の前で話すな。虫酸が走る」

 鼻面を突き合わせてレセーンを射抜く紅の瞳は、炎のように熱くも、氷のように冷たくもあり。如何に形容したものか、しかしレセーンですら気圧されるような得体の知れぬ迫力があったことには違いない。静かなる怒りが陽炎のように揺らめく様が見えそうだった。

「……分かった。もう止めよう」

 ラサンテは無言のまま兄を見つめ、やがてふいと身を翻した。

「冷える。出るぞ」

「ああ」

 何となく複雑な心持ちのまま、二人は青い洞窟を後にした。

 水から上がって暫く経とうと、薄ら寒さはなかなか消えなかった。


  ◇


 それから、レセーンは研究に没頭し、ラサンテは鍛錬の傍ら敵の抹殺に勤しむという、至って真新しさのない生活を続けていた。

「よう、まだ読書中か」

 この日もラサンテは兄の部屋へ遊びに、と言うより邪魔をしに来ていた。常のことなので、最早レセーンは目もくれぬ。

 相変わらず無遠慮なラサンテは、湯浴みの後か、薄い夜着を纏っただけの軽装であった。剣も吊るしておらず、どうやら兄を稽古に付き合わせようとしてやって来た訳ではないらしい。

「何が面白いのやら」

 棚から適当に一冊の本を抜き出し、何とはなしに眺めてみるラサンテ――

 ページを繰る乾いた音だけが部屋に満ちる。

『モルス・アルバ』――『白い墓場』。幼年期を過ごした思い出深き場所に関する記述を見つけ、彼は文字を追った。

 曰く、モルス・アルバは世界の中心にして、始まりと終焉の地であると。その雪中に聳える氷の鋭鋒、マールム・グラキエスこそがこの世の心臓であり、大いなる災禍の封じられし古来よりの伝承の地、そこからの生還者はこの兄弟を除いて、おらぬ。彼らとて、その懐に抱かれて過ごしはしたが、多くを知っている訳ではなく、未だ真の姿を伝える者なき秘境である。

 書かれていたのは世に流布する擦り切れたような伝説ばかりで、これといって目を引く記述がなく、ラサンテは更にぱらぱらと紙を捲った。

 その手が止まる。

『グレントール』という、聞き覚えのない名があった。この世のどこかにある魔石、これを手にした者は強大な力を得ることができる、と、端の方に細かな字で数行書き添えられている。

 ラサンテの口の端が皮肉に歪んだ。そんな都合のよいものがあるはずはない。代償の伴わぬ力など、あり得ぬのだ。

 余りに突飛な話、それ以上の詳しいことは何も書かれておらず、到底信じるに値せぬ。

 だが、本当にそんなものが存在するならば。

 紅の瞳に一瞬、炎が燃え上がったかに見えたが、ラサンテは頭を振り、ぱたりと本を閉じた。


「おい、いつまで本と睨み合ってる気だ? 俺にも構ってくれよ、寂しいだろう」

 本を棚に戻し、レセーンの寝台にどっかと腰を下ろすラサンテ。

「来いよ」

 誘うように首を傾けて笑う。ずっと書物から目を離さなかったレセーンは、観念したのか遂に立ち上がった。

「全く、お前はどれだけ俺の邪魔をすれば気が済……」

「いいだろう、多少は俺の相手をしてくれたって」

「多少、じゃない。お前の遊び相手は疲れる」

「ハッ、つれないな」

 ラサンテは終始、悪戯めいた笑みを浮かべながら傍らの兄をからかう。生真面目に答えながら溜息をつくレセーンであった。

 足元を見つめる彼の、下がり気味の瞼が緩く瞬きを繰り返す。

「寝るか」

 勢いよく寝台に倒れ込んだラサンテ。やや遅れて、それは俺の寝床だぞとレセーンが言いかけたときであった。

「なっ……」

 突如として伸びてきた強靭な腕が、彼をものの見事に引き倒したのであった。

 思わぬ奇襲。眠気は一気に吹き飛んだ。逞しい腕を首に絡みつけ、頬を擦りつけんばかりのラサンテから目を逸し、天井を眺めながらまたも溜息。弟の、野生の狼の如き戯れ方には辟易しているレセーンである。

「兄貴……」

 耳元で囁く声に、何故だか肌が粟立った。

「悪ふざけもいい加減にしろ」

 纏わりつく声を振り払うように語気を荒らげる。絡みにしても度が過ぎる、と、流石に苛立ち始めた様子を隠さぬ兄から腕を解き、身を起こしてラサンテは言った。

「俺は本気だぞ、

 そして兄の首元に顔を埋めた。


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