紫極
それから数十年という歳月が流れたある日、二人の来訪者が魔界の王城を騒がせていた。
擦り切れた腰布と、外套代わりのぼろ切れを纏っただけの、傷だらけの子供二人。年の頃は四、五十。人間という生き物に置き換えるならば、概算するところ五、六ほどに過ぎぬ。
一人の目は滄溟、もう一人の目は烈火。そう、あの兄弟である。
放り出されたら最後、生き延びること
前代未聞の、まさに神童であった。
兄レセーン、弟ラサンテ。誰もがこの兄弟に底知れぬ何かを感じ、
噂は瞬く間に時の権力者、魔王ザッハータへと伝わった。
「ほう、生きて帰ったか。流石は我が子らよ」
跪く兄弟が対峙するは、魔王。そう、彼らの父は、今、眼前の玉座に腰掛けている怪物――ザッハータなのである。
親子だからか、輪郭だけは似通っていた。だが、幼き二人では到底及ばぬ
頭には捻じ曲がった太い角、翼の末端は瘴気と化して散っていた。
しかし兄弟は臆さぬ。膝を突きこそしているが、ラサンテなどは不服そうに父王を睨めつけてさえいる。ザッハータその人よりも、そんな弟の様子の方に気を揉むレセーンであった。
が、幸い、魔王はさして意に介する風もない。
「母親に捨てられ、何処で野垂れ死んだかと思うておったが。その上、知らぬ間に二人目ができていようとはな。奴め……まあよい、よくぞ戻ってきた。後であの女にも挨拶してやれ」
表向きは帰還を歓迎されているようだった。
「我が正嫡を名乗ることを許そうぞ。精々生き残れるよう励むがよいわ、王家と言う名の血みどろの沼でな」
禍々しい哄笑を彼らは黙然と聞いた――慇懃に礼を述べて辞した後、二人は顔を見合わせたものである。
レセーンは安堵の溜息を漏らし、ラサンテは不機嫌そうに顔を
「いけ好かない奴だ。あの目玉の化物が父親とは」
「こら、滅多なことを言うな。また追い出されては敵わん」
「物好きだな。ここは穢らわしい」
「あの雪原に住み続ける方が余程の物好きだろう……」
石造りの寒々しい回廊を歩けば、行き交う異形の者らが無言のままに道を開ける。
斯くして兄弟は捨て子から王位継承者に成り上がったのである。
さて、兄弟が城での生活にも馴染んできた頃。
レセーンが私室で書物に目を落としていると、突如扉が荒々しく開いた。
「兄貴」
挨拶もなしに鋭い声が飛ぶ。
「……刺客か何かか、お前は」
本を見つめたまま、呆れた声を返す。別段珍しいことでもない。弟ラサンテがご丁寧に扉を叩いて名乗り、返答を得てからそっと部屋に入ってくることなど、
「名乗りなど要らんだろう。俺の部屋みたいなものだ」
「いや、俺の部屋だが」
レセーンの呟きなどまるきり無視し、ラサンテはずかずかと入り込む。ラサンテの言うことも
「剣の間に行く。付き合え」
「またか?」
「鍛錬に休みはない。第一、お前でないと相手にならん」
大体そんなところだろうと思ってはいたが、果たして予想に違わぬ台詞であった。
嘆息と共に、
「早く。さっさと着替えろ」
「分かった分かった」
急かされつつ動きやすい服装になり、レセーンは苦笑して壁に掛けてある長剣を手に取った。
「しかし弱いのだな、そこらの有象無象は」
「仕方あるまい。そもそも
つまらなそうにぼやくラサンテをレセーンが諭した。
赫血――『高貴なる赫血』。王家の血筋を意味する言葉である。普通の者よりも血の色が濃い紅であることから付いた名だという。
太古の昔より、強い者だけが加わることを許された氏族の血である。この血を引く者は生まれながらにして優れた力を持ち、先祖の記憶と能力をある程度受け継いでいる。故に赤子と言えども、実質は並の大人と同様。彼ら兄弟が、誰に教わらずとも言葉を操れたのも、剣が振るえるのもこういう理由である。
そしてこの力の集積、圧倒的な有利があるからこそ王家の地位は盤石なのであった。
「とりあえず水浴びでいいな、兄貴?」
「ああ。傷もそこで治そう」
剣の間から出てきた者が血を滴らせながら歩いてゆくことは日常茶飯事、この兄弟も例外ではなく、廊下を汚した。血で塗り固められた城、という比喩も全くの嘘ではなかった。
回廊はともかく私室は汚したくないので、先に風呂場へ向かう。角を曲がりかけたそのとき――
「いやぁっ」
飛び出してきた影がラサンテに衝突した。
「おう、いい度胸だな馬鹿者」
びくともせぬラサンテに弾き飛ばされてよろめいた女。身体中から生やした蔦、褐色の肌、眩い金の髪、尖った耳の脇から覗く角。きっとラサンテを睨む、艶やかながらも勝ち気な顔。
「何だ貴様か。急に曲がるな阿呆、ぶつかるに決まってるだろう。そんなことも分からんのか」
相手の顔を見るや否や、ラサンテは嘲弄を滲ませながら吐き捨てた。女も負けじと言い返す。
「はあ? あんたの図体が無駄に大きいのが悪いんだわ」
「貴様のやたらでかい態度よりましだと思うがな」
「あんたに言われたかないわよ、この……」
「やめんか、エリーファ。ラサンテもだ」
うんざりしたように止めに入ったレセーンであった。エリーファ――
「だって、お兄様……」
「ラサンテの言う通りだ。怪我したらどうする……ラサンテもいちいち挑発するんじゃない」
「悪いな。余りに憎たらしい不細工なもので、つい」
「ふざけんじゃないわ、あんたの方が余程不細工よ!」
「やめろと言ってるだろう、黙らんか二人共」
出くわせば必ず罵詈雑言の嵐。果てなきこの兄妹喧嘩の仲裁には辟易しているレセーンであった。
「全く……勘弁してくれ」
「だってお兄様が全然構ってくださらないんですもの。ほとんどお部屋に籠もりっぱなし、たまに出てきてもこんな無粋な男ばっかり。お相手なんて、私がいくらでもして差し上げますのに」
そう言って兄に擦り寄る仕草はなかなかに扇情的であったが、レセーンは寧ろ顔を顰め、ラサンテの失笑を買っただけだった。
「俺も『お兄様』だぞ、え?」
「うるっさいわね、私のお兄様はレセーン兄様だけよ」
ラサンテがからかう度に、エリーファは甲高い声で言い返す。レセーンはどうもそれが好かぬ。耳が痛くて敵わぬ。
「また後でな。行こう、ラサンテ」
さり気なく絡みついたエリーファの腕を振り解き、疲弊した身体をラサンテに支えられたまま歩き出す。
愛する長兄と憎き次兄、二人の後姿を見送るエリーファの瞳に燃えるのは、紛れもなく、恋と嫉妬の炎であった。
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