紅塵
反射的に叩きつけた拳は、ラサンテの顔面を直撃した。
頭をもたげる弟を、レセーンは呆然として凝視した。
「あ、いや、すまん……」
殴ってしまったことに狼狽える。が、それだけではなかった。首筋に残った生々しい感覚も、その動揺の一員であった。
寒いような暑いような混乱がレセーンを襲う。
ラサンテの牙が赤い。血である。殴って流血させたのか――
首に手をやり、ぬめる場所に指を滑らせた指を見れば、流れ出たばかりの鮮血と唾液が伝う。
レセーンの血と、ラサンテの唾液であった。
口元を拭う弟の目が急に恐ろしく見えたのも束の間、がばりと覆い被さってきたラサンテの肩を何とか掴み、押し
「待て、どうしたッ。狂ったか!?」
ラサンテの喉の奥から、密やかな笑声らしきものが漏れた。
「……新鮮だ。慌てるお前も、いいな……その抵抗も」
──今日が、俺の命日か。レセーンは必死の抵抗を試みながら、死を覚悟した。
元より、ラサンテと組み合って勝てるはずはない。このまま喉笛を食い千切られる運命なのだと悟った。
ラサンテの手にかかるなら、仕方あるまい。愛する弟のためならば喜んで死んでやる。そんな思いが胸中を過り、レセーンの腕は弛緩し、布団に捩じ込まれるようにして押さえつけられた。
玉座を欲しがるラサンテのため、既に継承権は放棄した。代替わりの時が来れば、魔王の称号は順当にラサンテへと渡る。そしてレセーンは今まで通り弟の傍で暮らす、ということで合意していた。それでも、やはり生かしてはおけない理由があったのだろう。
ずっと、弟に生かされてきたようなものだ。その恩に命を以て報いることに文句はない。
信じて疑わなかった絆がいつか跡形もなく崩れ去るかもしれぬということを、恐れてはいたが覚悟もしていた。そもそも、兄弟として助け合い、共に生きていること自体が稀有なことなのだから。親類が最も身近な敵である、この世界で。
「何だ、もう終わりか?大人しく俺を受け入れてくれるのか」
丁度光が当たらず、ラサンテの表情は窺えなかった。どんな顔をしているのか、少し気になった。
「……ああ。好きにしろ」
「もっと暴れるかと思ったが。まあいい、そういうことなら話は早い」
レセーンが観念し、無防備な首を晒け出してやると、ラサンテは嬉々として喰い付いた。
何かがおかしいと思ったのはそのときである。
殺意が、ない。
一向に喉を食い破られる気配はなかった。ラサンテはただ、先程の傷を舐めるだけである。
「……俺を殺しに来た訳では、ないのか?」
訝しげな兄の声にラサンテは顔を上げ、堪え切れずに吹き出した。
「何を言っている? 殺されると思ったのか?」
「ああ……」
「阿呆。読書のしすぎで頭がいかれたか? そんなはずないだろう」
咳き込みながら、腹を抱えて笑い転げるラサンテ――これぞ馬鹿馬鹿しさの極み、壮大な勘違いをしていたことを、レセーンは漸く理解した。そして決断を翻した。
「断る。共寝なら女に頼め、相手には困らんだろう」
「生憎、今は相手がいなくてな」
「俺はそういう趣味じゃない」
「俺だって野郎に興味はない。お前だからだ、レセーン」
「離せ、触るな」
「随分酷いことを言うものだな。お前の敵を屠っているのは俺だ……褒美くらいくれても良かろう?」
痛いところを突かれ、レセーンはあえなく黙り込んだ。
彼はお人好しであった。たとえ己の命の為でも冷酷になりきれぬ彼は、汚れ仕事をほぼ全て弟に任せてきたのだ。兄弟の命を狙う者が現れたとき、剣を抜くのは常にラサンテであり、レセーンは傍観者。或いは暗闘の存在すら知らず、庇護に甘んじるだけの横着者。後ろめたさは感じていた。ラサンテがいるからこそ安穏な生活を送ることができるのであって、その恩は生半可なものではない、ということは重々承知である。
しかし弟を押しのけようとする腕は未だ力を失わなかった。
「……そうか。嫌なら良いさ」
ラサンテは不服そうな顔で呟いたが、それも一瞬。
「抗うのもまた一興」
にやりと笑って一気に掴みかかったのであった。
暫くは乱闘であった。
愛撫の代わりに拳、蜜語の代わりに罵声。荒々しく掴み合う二人に、寝台は悲鳴を上げた。
もつれ合い転げ回る。が、長くは続かぬ。体重も鍛え方も違うのだ、レセーンはいよいよラサンテの下から抜け出せなくなった。
「分かった、分かったから……関節を極めるな。そして俺を潰すな、息ができん」
荒い息をつきながら、レセーンは遂に白旗を上げた。危うく絞め殺されるところであった、全く堪ったものではない。
「降参か? よしよし」
床に落ちた掛布。憮然とした顔で横たわる兄に絡みつき、彼の服の襟に手を伸ばし。
兄は弟を容れた。そして二人で、宵闇の帳の中、一夜の夢に落ちていった。
◇
――レセーンの隣に寝そべりながら、それは嬉しそうに、ラサンテは笑ったのだった。
その笑みを見ていると全てがどうでもよくなった。それでラサンテが満たされるというのなら、相手をしてやるのも悪くないとさえ思ったレセーンであった。
「お前といるときが一番幸せだ」
「そうか」
「レセーン。ずっと、俺の兄でいてくれるだろう。俺を捨てたりしないだろう?」
「どうした、急に。当たり前だろう、ずっと一緒だ」
「……幸せだ、俺は」
「そうか」
甘やかな微睡み、思えばこの瞬間こそが、真に最も幸福なひとときであったのかもしれぬ。
ここから、少しずつ、少しずつ――
狂っていったのだ。愛が欲望に変わった、この日から。
依り、依られ、どうしようもなくもつれ合い、そして奈落へ――。
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