第36話

 凛の家の中に彼女の泣き声だけが響いている。

 嗚咽する彼女の背中をさすり、肩を抱き寄せる。


「凛……大丈夫……?」


 彼女の両親は娘の姿を呆然と眺めていた。

 凛はあまり親に対してこのように言った方がなかったのかもしれない。

 彼らの驚いた表情がそれを物語っていた。


「凛……お前……」


 凛の父親も母親も、まだ動けずにいた。

 娘のあんな態度を見たら無理もないのかもしれない。


「なぁ凛……」


 気づけば、凛の父親は俺たちと目線の高さを合わせていた。

 さっきまでの怒りの色は消えていて、少し落ち着いたようだった。


「今度少し話をしよう……」


「え……」


 凛は涙を拭い、顔をあげる。

 まだ呼吸は落ち着ききっていないが、それでも怒鳴っていた時よりかは安定している。


「昔、凛が医者になりたいと言った時からお前は変わっていないと思っていた」


 凛の父親は自分の今までの行動に何か引っかかることがあったのだろう。

 少し後ろめたそうに話し始めた。


「でも、実際は違うようだ。だから、凛が今本当にしたいことを教えてくれ」


 凛の父親はゆっくりと立ち上がる。


「昔、凛が言ったことに私たちは夢中で今の凛を見てなかったのかもしれないな……」


「お父……さん……?」


 彼女の父親はティッシュを何枚か手に取る。


「すまなかった……こんなに追い込んでいたなんて……知らなかったんだ……」


「私も……ごめんね……凛……」


 二人はしゃがみ込んで、凛の顔を拭き始めた。


「いい……もう子供じゃないんだし……一人で拭ける……」


 凛は口ではそう突っぱねるように言っていても、少し嬉しそうだった。


「飴井くん、すまない……ひどいことを言ってしまった」


「い、いえ……」


 凛の父親は俺の方を見ると深々と頭を下げる。


「それと、ありがとう……」


「そんな、凛には僕も本当に良くしてもらっていて……」


 凛は涙を拭き終わると、ティッシュをまとめてゴミ箱に投げ入れる。


「お父さん……ごめんなさい……私も……酷いこと言っちゃった……」


「いや、いいんだ。私たちが追い込んでしまっていたのが悪いのだから……」


 凛の両親は彼女を優しく抱きしめる。

 これでよかったんだ。

 たぶんこれで凛も少し思いが軽くなるんじゃないだろうか。


「凛、顔を洗ってきなさい」


 顔を拭いたとはいえ、凛の顔はまだ涙で汚れている。

 父親は彼女に顔を洗ってくるように指示すると、今度は素直に従った。


「飴井、いや海斗くんだったかな……?」


「はい」


「この後まだ少し時間はあるのかい?」


「多分……大丈夫です」


 凛の父親は俺の返事を聞くと、彼女の母親と何かを話し、また俺の方に向き直った。


「もう遅くなりつつあるから食べて帰りなさい」


「でも、流石にお邪魔じゃ……」


「いいんだ……少しくらいもてなさせてくれ」


「じゃあ、親に連絡させてください」


 俺がスマホを取り出そうとすると、凛の父親に止められる。


「私たちの方で連絡はしておくから、ゆっくりしてくれ」


 俺と凛の父親が話していると、凛がリビングに戻ってきた。


「凛、海斗くんと少し話していてくれ。私は少しご飯の準備をしてくるから」


 父親は凛と俺に席に着くように促すと、奥のキッチンへと消えていった。


「ね、海斗……」


「なに?」


「今日は……その……本当にありがとう……」


 彼女の顔を見ると、濡れた横髪が張り付いている。

 頬は赤くなっていて、目線は少し下を向いていた。


「いや、凛が言ったからだよ」


「でも、海斗が言い出してくれなかったら、また怒られて泣いてたかも」


 凛は恥ずかしそうにそう言うと、俺の方に手を伸ばす。


「それは……でも、これは親との約束というか……」


「それでも……ありがとう……」


 俺は彼女の伸ばした手に応えるように握る。


「でも……」


 少しひんやりした手が、強く強く俺の掌を握る。


「私、今、夢とかよくわからなくて……」


「そうか……」


「でも、いつか見つけられるといいな」


「そうだな」


 凛は下に向けていた視線を俺の方へと向ける。

 その黒に瞳には俺が映っていた。


「だから、一緒に見つけて欲しい……かな……」


「そのつもり」


 彼女は微笑むと、反対に手で顔をあおぎだした。


「あーはっず……変なところも見せちゃったし……」


「でも、凛の裸とかもう見てるよ?」


 俺はいつもからかわれている仕返しとばかりに彼女に言ってやる。


「そうだけど……なんか違うよ……こういう恥ずかしさは……」


「そう?」


「うん、そう」


 凛は重荷が外れたからだろう、笑顔が戻っていた。


「あーでも……スッキリした」


「それはよかった」


「言いたいこと言えたし、多分わかってもらえた? と思うし」


 彼女は繋いでいない方の手も俺の手に添える。


「海斗……」


 凛が顔を徐々に近づけてくる。

 目を閉じて、少しだけ口が開いている。

 彼女はキスをしようとしているのだと、俺の直感が言っていた。

 彼女の家でやっていいものか一瞬迷いが生じる。

 でも、迷っている間に彼女の顔はどんどん近くなっていって、最後には唇同士が触れ合った。


「これ、お礼」


 軽めのキスをした後、凛が恥ずかしそうに言う。

 その口づけは涙でしょっぱいのに今までで一番甘かった。

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