第6話 舟越家、真夏の事件簿

 学校が夏休みに入り、寮生活を送る生徒の大半は実家に帰る。きっとこの夏は、帰るなり久々に会う家族に彼の話をした生徒が多いんじゃないだろうか?そう、学園に舞い降りた石油王、佐渡くんの話を。

 私の家庭も例に漏れず、帰省初日の晩餐は佐渡くんの話で持ちきりだった。本当に石油王は白い服を着ていたとか、初めて見た金塊の話とか、彼の口から飛び出す数々のセレブ世界の話とか、そのどれもに、お父さんは「はぁぁはぁぁ…」とひたすらため息を漏らし、お母さんは「それで?それで?」と食い気味で目を輝かせ、思春期に入ってから口数が減っていた4つ下の弟の敬太は話を一通り聞くと自分の部屋に引っ込んで何やらゴソゴソやった後、出てくるなり「サイン貰ってきてよ」と色紙を押し付けてきた。「佐渡」と書かれた謎の色紙が弟の部屋に飾られるところを想像したら、おかしくて笑ってしまった。遊びに来た友達は「誰?」とみんな首を捻ることだろう。

 食器の片付けを手伝いながら、玉の輿を狙う生徒が後を絶たないのだが、佐渡くんは誰にも靡かないのだと話すと、お母さんはふっと遠い目をした。

「私も同じ立場なら狙っちゃうわ、やっぱり石油王ってロマンよね…いいわねぇ今最も玉の輿に近い学校に通えるなんて。私も高校生に戻って参戦したいわぁ」

それを聞いたお父さんはやや気分を害したらしい。さっきまで興味津々で佐渡くんの話を聞いていたのに、急に仏頂面で瀬尾派に鞍替えした。

「でもその佐渡くんてちょっと胡散臭くないか?同じお金持ちなら俺は実直そうな瀬尾社長の息子さんの方が好きだけどなぁ!資本力の差に怖気付くことなく、ビシッとものを言えるなんて立派じゃないか。それにいつもニコニコ飄々としてるなんて、やっぱり庶民を上から目線で見てるってことなんじゃないの…かな…」

後半私とお母さんからの冷ややかな眼差しに気が付いて失速したものの、切り口を変えてお父さんは続ける。

「それに結婚するなら、苦労知らずのお坊ちゃんはよくないと思うぞ。何かあった時に一緒に乗り越えられるだけの度量というものが」

「何かあっても石油王レベルのお金持ちなら、ぜーんぶお金で解決できるから大丈夫よ。この世の物事の9割9分はお金で解決できるのよ。」

ピシャリと言われてお父さんは「それは…確かにな…」と小さく呟いて黙ってしまった。

「まぁお金がないならないで何とでもなるのが人生だけどね。結婚相手はお金持ちだろうが貧乏だろうが、自分が尊敬できる相手にしなさいね

。そしたら幸せな結婚生活になる確率上がると思うわ、お母さんの体験談。」

「それは成功体験?」

「勿論。」

私に向かってにっこり笑うお母さんの後ろで、お父さんの纏うオーラがぱああっと華やいだものに変わったのが分かる。本当に分かりやすい人だ。そんなお父さんを「可愛い人」だとお母さんが思っているのも私は知っている。まったく見せてつけてくれますね、成功事例。

「それで佐渡くんは尊敬できる人なの?」

突然私だけにしか聞き取れない小さな声で囁かれて、ドキリとして皿を取り落としそうになる。

「えっ色々…凄いなぁとは思う…よ?」

「そ。」

短く答えるなり深く詮索することもなく、お母さんは私から視線を外してさっさと食器棚の扉を開けに行ってしまった。


 これは、お見通しというやつなのだろうか?


 むず痒い気持ちでなんだか居た堪れなくなり、そそくさと自室に逃げ込む。扉を閉めたところで、自分の行動があからさま過ぎてもっと居た堪れなくなる。あぁ!佐渡くんみたいなとっさの対応力が欲しい!尊敬していますとも佐渡くん!というかまた!佐渡くんのことを考えてしまっている!やだもう!

 その夜は再び枕が活躍したのだった。





 夏休みも半ばに差し掛かると、曜日感覚が完全に狂って日付すら怪しくなる。今日の千春ちゃんと映画を見に行く約束も危うくすっぽかすところだった。スマホのカレンダーに登録しておいた自分を褒めてやりたい。ありがとうリマインド機能、ありがとう文明の利器。

「そういえばさ、国際金持ち対決、激化してるらしいよ」

帰りの電車に揺られながら映画の感想で盛り上がるだけ盛り上がったあと、千春ちゃんがふと思い出したように言う。

「金持ち対決って…佐渡くんと瀬尾くんのこと?」

夏休み中でさえ不意に話題に上るなんて、さすがは油田を持つ者だ。

「そうそう、最初は佐渡くんが友達と盛り上がっていると何故かいちいち水を差しにいくっていうスタイルだったのに、段々もう佐渡くん単体でも気に入らなくなってきたみたいでさ、寮で顔を合わせる度に突っかかっていくようになってるって部活で寮に残ってる男子がボヤいてたよ。佐渡くんはそれを毎回サラーッと流してるらしいけど、その暖簾に腕押し感が余計瀬尾くんを苛立たせてるんじゃないかって。」

容易に2人の様子が目に浮かぶ。そうか、佐渡くんは部活あるし寮に残ってるのか。夏休み中の練習は基本自由参加だから、てっきりご家族の皆さんと世界一周セレブの旅にでも出ているのかと思っていた。

「なんで瀬尾くんはそんなに佐渡くんのこと嫌いなんだろうね?」

本当に疑問だ。特に接点があるわけでもないし、私の記憶が正しければ初対面の時から瀬尾くんは攻撃的だった。いきなり、「くだらん」って言ってきたんだった。教室を包んだあの嫌な空気は忘れられない。

「んーバリバリにお金の匂いを振りまく佐渡くんの周りに人が集まるのが気に食わないって噂だけど。」

「お金の匂い…」

なるほどお金が争いを生んでしまうのか…その人を狂わせる魔性は吉田先生が教えてくれたから理解はしている。でも吉田先生は『持たざる者』ゆえに道を踏み外しかけた。その点、瀬尾くんは石油王ほどでなくとも十分に持っているはずなのに…。

「なんて言ってたかな…金持ちとしての信条の違い?が溝を深くしてるって瀬尾くん本人に聞いた子がいるらしくって。」

金持ちの信条…なんだか難しい言葉が出てきたぞ…そんな話聞いても私みたいな庶民に理解できるだろうか。

「ここからはあくまで周りの憶測なんだけど、瀬尾くんてさ、お父さんのこと相当大好きらしいんだよね。一代で成功した社長としての手腕やらカリスマ性やらをすごく尊敬してるみたいで、一年の時の弁論大会のスピーチもお父さんについてだったんだよ確か。私同じクラスだったから覚えてる。『父のように立派な人間になりたい。先頭に立って道を切り開き、人を導ける存在になりたい』って。」

「はぁー…なんだか我々とは見ている景色が違いますなぁ。」

「でさ、お父さんの会社の側近的な人達ってのが、なんと高校の同級生達なんだって。今お父さんを支えてるかけがえのない仲間とはうちの高校で出会ったってわけ。スピーチの最後は『富も権力もない状態でも、自然に周りに人が集まる人間に自分もなりたい』って、締めだったんだけどね。実際の瀬尾くんは…ちょっと…あのーあれじゃん?」

「えっと、とっつきにくい…?」

「そうそう、別に友達いなくて孤立してるわけじゃないし、普通にみんなと仲良くやってはいるけど、中心にいるわけではないというかね。ぶっちゃけやや浮き気味というか、どちらかと言うとみんなに生暖かく見守られているというか。」

「あー…」

「だから自分はお金をひけらかさないように気をつけつつ、カリスマ性を発揮したいと頑張っていたところに、突然現れた同じお金持ちの佐渡くんが存分にお金の話題で輪の中心に立ってニコニコやっているのが気に入らないんじゃないかって。理想と現実の狭間で揺れる男心をあざ笑われたように感じたというか。」

「なんて屈折した男心…!でも佐渡くんにしたら完全な逆恨みというか、とばっちりじゃんね、それ。」

「まぁ噂なんだけどね!でも当たってそうな気がしない?お金持ってると色々因縁つけられて大変よねぇ、怖や怖や。」

もしそれが事実だとしたら、物凄く瀬尾くんに一言物申したい。きっかけは確かに石油かもしれない。でも私たちクラスメイトが佐渡くんを中心に笑ってるのは、彼が楽しい人で、面白い人で、優しい人だからだ。お金目的で近づいてるわけでは、決してない。

「変なこだわり捨てて瀬尾くんも佐渡くんとちゃんと話したらいいのに。佐渡くんの人柄を知ったらそんな風に感じたりしないと思うんだけどな。」

「…佐渡くんの人柄とは?」

「えっと、面白くって、優しくて、よく気がつく人で…」

「ふむふむそれでそれで?」

千春ちゃんのニヤついた視線を感じてハッとする。

「…何を言わせたいんですか千春さん」

「えー?珍しく実希に怒気を感じたからぁ?瀬尾くんも佐渡くんのことちゃんと知ったら彼のこと好きになっちゃうはずって言いたいのかなぁって。誰かさんみたいに?」

「えッ?なッ??違う違う違うそんなんじゃ」

「はいはいはーい青春お疲れ様ですー!」

「じゃあ言わせてもらいますけど、その金持ち対決激化情報元の男子って?夏休み中に連絡取り合っている仲とお見受けいたしましたが?」

「まッ?くッ!……勘の良い子供は歓迎されませんよ実希さん。」

「え!まさか彼氏?!」

「ち、違うってまだそんなんじゃ!」

「まだ。ほーぅまだねぇ」

「ひーやめやめやめ!あ!実希の駅着いたよ!ほらほら行った行った!」

「はいはい、じゃあまた詳しくは後日ねー」

「その言葉そっくりそのままお返ししますけどね!バイバイー!」

押し出されるように電車を降りる。ホームに降り立った瞬間、むわっとした湿気と熱気に包まれて息苦しさを感じて思わず天を仰ぐ。全く、お互いわかりやすくて笑っちゃうな。

 頭の中で千春ちゃんの想い人候補を勝手に立てて、にやにやを抑えられずに駅の階段を降りている時だった。ドキリとして一瞬足が止まる。見覚えある癖っ毛が階段の下にいた。大きなスポーツバッグを肩に下げて、誰かに手を振っている。手の先を目で追ってみると、走り去る自転車が見えた。ぐんぐん小さくなるのでそちらは誰だかよく分からない。

 人違いかも、しれないし。とにかく階段をさっさと降りてしまおうと足を早める。急にひぐらしの鳴き声がボリュームを上げて耳にこだまする。あと3段、という所で眼下の頭がくるりとこちらを向いた。

「あれ。舟越さん?」

「佐渡くん…!な、んでこんなところに?」

人違いなんかじゃなかった、間違いなく目の前にいるのは我が校が誇る石油王・佐渡くんその人だった。慌てて残り3段を駆け降りて佐渡くんの隣に立つ。学校の最寄駅というわけでもない、こんな縁もゆかりもなさそうな片田舎の駅にどうして?Tシャツにイージーパンツ、そしてサンダルというラフな格好ではあったが、顔面から迸る品のある油田オーラは隠せるものではない。場違いすぎて合成写真を見ている気分だ。

「あー実は昨日まで堀内の家に泊めてもらってて、今から寮に帰るところ。舟越さんはお出かけの帰り?家この辺りなんだ?」

「あっうん!友達と映画見て帰ってきたとこなんだけど…佐渡くん夏休みご実家に帰ったり旅行行ったりとかは…?」

自家用ジェットで世界のお城を巡ったりとか、北の大地でオーロラ鑑賞とか、セレブリティジャーニーをするにはもうあと夏休みは半月しかないのに、日程的に足りるのだろうか?まさかずっと寮を根城にする予定な訳…

「いや特に予定ないよ。」 

石油王ずっと寮にいるの?!我々庶民ですらいそいそ出かけてハチャハチャ夏を楽しむというのに?!

 驚愕と疑問が顔に出ていたのだろう、私の顔を見て佐渡くんは吹き出した。

「あはは、ご期待に添えずごめんね?実家に帰るのも遠くて疲れるし、せっかく油田からかけ離れた生活できるんだから楽しまなきゃと思って。」

「はぁあ、庶民生活を、存分にお楽しみになりたいと…」

「まぁそんなところかな?でも夏休みにどこにも行かずにずっと寮にいるなんて頭おかしい、そんなに下々の民ライフ楽しみたいなら庶民のナマの生活みしてやるから俺んち来いって堀内に誘われてね。なんだかんだで1週間もお世話になっちゃって。でも明日から大学生のお兄さん帰ってくるらしいし、流石にこれ以上はね。ずっといたら良いって随分引き留めてはくれたんだけど、やっぱり家族水入らずで過ごしてもらいたいからってお暇してきたんだ。」

石油王を家に招くとは、なんと豪胆な!しかも1週間もだなんて、私なら緊張して不眠・便通の乱れが生じ、最終的に体を壊すかもしれない。流石は堀内くん、佐渡くんと1番の仲良しであり、『石油王に最も近い男』の通り名を持つだけのことはある。

「とりあえず明日まではお盆期間で寮の食堂やってないから、何か適当にコンビニで食べるもの買い込んで帰ろうと思って。カップ麺が無難かなぁと思ってるんだけど、舟越さん他になんかお勧めある?」

石油王がカップ麺食べるの?!食べ方分かるの?!と声に出そうになるのをグッと堪え、頭をフル回転させる。天下のセレブのお口に合うもので、コンビニで入手できるもの…

「うーんと、レトルトカレー…とか?レンチンできるお米と一緒に買ったら良いと思うよ。」

インド人にも日本のカレーは美味しいと好評なのだと聞いたことがあるし、100円を切るものからホテル仕様のものなど種類もあって自分の舌レベルにあったものを選べる。我ながらナイスな提案ではなかろうか。

「カレーか!いいね。」

と、佐渡くんがニコニコ頷いてくれるのを見て、今年1番良い仕事をした気分になる。ホクホクして、口が調子に乗って回ってしまう。

「でも寮って今ほとんど人いないんじゃない?寂しくないの?」

「うーん、まぁ仕方ないかな。」

あっ。佐渡くんの表情を見てハッとする。ふと見せたその顔は、庶民生活を楽しもうと本心からワクワクしているようには見えなかった。本当にずっと寮にいたくているわけではないのではないだろうか。

「それに寂しいか寂しくないかという点だけなら、寂しい気持ちに浸る間を与えてくれない人が寮で待ち構えているかな。」

それって…

「もしかして瀬尾くん?」

私の声に佐渡くんが苦笑いする。

「やっぱり噂になっちゃってるか。瀬尾くん部活の練習ももうないはずなんだけど、ずっと寮に残ってて。どうもどうしても俺と毎日話したいみたいで、すごく…熱心なんだよねぇ。俺なんかに時間割いてもらっても得るものないだろうから、ごめんねって感じなんだけど。」

私は佐渡くんと出会ってから得るものばっかりなのに、そんな風に自分を卑下するなんてとんでもないことだ。迷惑でしかないだろう瀬尾くんに関して、優しい物言いができるのがまず凄い。佐渡くんは凄いのに。どんな事情や背景があるにせよ、やっぱり瀬尾くんは好きになれないし理解できない。

「佐渡くん優しすぎるんだよ。しんどかったら先生に相談しても良いと思うよ。ちょっと今の瀬尾くんは…どうかしてると思うし。」

もやもやした気持ちを、なるべく感情的にならないよう気をつけながら言葉にする。

「うん、ありがと。まぁのんびりやるよ。大丈夫。」

そうは言いつつも、佐渡くんの表情からは疲れが見て取れた。堀内くんが引き止めたのも、瀬尾くんのことがあったからなのかもしれない。

「あの、よかったらうち来る?」

咄嗟に出た言葉に自分でもびっくりした。

「え?」

佐渡くんも言葉の意味を測りかねて、珍しくキョトンとしている。

「えっと!あの!食堂空いてないと不便だろうし!今日よかったらうちに泊まったら良いんじゃないかなぁと思ったんだけど!いきなり言われても何言ってるんだコイツって感じだよね?!」

「いやそんなことは…」

何言ってるんだコイツだよ!本当何言い出してるんだ私!もやもやした感情がとんでもない方向に走り出してしまって、もう取り返しがつかない。さっき石油王を家に泊めた堀内くんを豪胆だと思ったのに、直後に自分から誘うなんてとんだ阿呆だ。

「あくまでご迷惑でなければと言う話なんですけども!庶民生活で言うなら私も負けていないというか!堀内くんの家はお父さんが歯医者さんなので、あのレベルを一般庶民レベルだと勘違いされてはマズイというか!むしろ庶民といえば私の右に出るものはいないと自負してるので!庶民生活を体感したいなら我が家ほど相応しい家はないと言いますか!一泊して損はないかと思ったりしまして!」

呆気に取られていた佐渡くんの口元が緩む。こんなに庶民庶民と連呼されたら笑っちゃいますよね…。何を口走っているのか自分でも分からなくなる。焦れば焦るほどに、無駄に言葉は熱を帯び勢いを増す。

「勿論気にせず断ってくれて全然構わないし、あくまで真の庶民生活というものにご興味があればと言う話なんですけども!庶…」

「じゃあお言葉に甘えちゃおうかな。」

「ヘア?!」

うっかり大きい声が出る。堪えきれずにと言った様子で佐渡くんが笑いだす。

「あれ、ダメだった?」

「滅相も!!!あ、でもちょっと家に一報入れるので少々ここで待ってもらっても?」

「勿論。でも急な話だし迷惑じゃないかな?舟越さんの家族的に。」

「だ、いじょうぶ!弟の友達が急に泊まったりとかたまにあるし。」

しかし弟の友達は油田を持っているわけではない。汗びっしょりになりながら鞄からスマホを取り出し、佐渡くんからやや距離を取りながらお母さんの番号を選択して耳に当てる。

『もしもし?どうしたの?』

プツリと呼び出し音が途切れると、これから先の運命を知らない、のんびりとした口調のお母さんの声が鼓膜に響く。

「あのー急で申し訳ないんだけど、今日友達をうちに泊めてもいい?」

『今日?まぁ良いよー。明日も特に予定ないし。千春ちゃん?』

「えっと、それが、そのぉ…佐渡くん…なんだけど。」

『ん?誰?』

「えーと、あの油田を持ってる…」

わずかに沈黙が流れる。

『え?!石油王?!』

心底仰天した声が耳を劈く。

『え?!ちょっと待…ッなんで?』

声の向こうで慌てた様子で冷蔵庫を開け閉めする音が聞こえてくる。

「駅で偶然会って、話の流れで庶民の生活を体験していただこうかということになり…」

『何それ!』

本当に何それ以外の何ものでもないですよねすいません。

「あの、難しかったら…」

『いや、難しくはない!難しくはないんだけど、今日唐揚げで大丈夫?』

「あ!すごく庶民ぽい、ばっちり大丈夫」

『オッケー今どこ?すぐ来る?』

「今駅でこれから向かおうかと…」

『もう駅か…分かったなるべくゆーっくり歩いて帰ってきて!敬太ぁーー』

大音量の弟を呼ぶ声で電話は切れた。急転直下、家に石油王を招いたりして、お母さんには大変申し訳ない。でも熱心に勧誘してしまった手前、NOと言われなくて良かった。

「大丈夫?」

電話が終わったのを見計らって、後ろから佐渡くんがそっと囁く。

「大丈夫!じゃ、じゃあのんびり我が家へ移動しようか!」

「…本当にありがとうね。」

眉を下げて佐渡くんが微笑む。良かった、嬉しそうだ。

 あれ?と、いうことは。今日は佐渡くんが私の家に来て、私の家でご飯を食べて、私の家で寝……当たり前のことなのだが、具体的に思考できていなかった。そして具体的にイメージしてしまった今。

 ぜ、全然大丈夫じゃない!どの口が軽々しく大丈夫なんて言ったんだ!うわあああああああ。

 ナメクジが通った後みたいに、汗が尾を引いているのではと心配になるくらいの尋常じゃない発汗を全身に感じながら、真っ直ぐ歩くことだけに意識を集中させたために、私はその日生まれて初めて駅から家への道を間違った。






 歴史上、日本社会のありふれた集合住宅に住まう世帯の中で、石油王を招いたことがある一家なんて、きっと数えた方が早い。我が家は今、日本史にその名を刻むほどの歴史的瞬間を迎えようとしていた。

「いらっしゃい、初めまして実希の母です。」

迎えてくれたお母さんは、明らかに今朝より化粧に気合が入っていた。そして玄関には滅多に登場しないフカフカのスリッパが一束、ちょこんとこちらを待ち構えていた。

「初めまして、実希さんのクラスメイトの佐渡マリウスと申します。この度は突然の訪問にも関わらず温かく迎えてくださりありがとうございます。手土産も用意せずに押しかけてしまった失礼を、どうぞお許しください。」

何その挨拶、男子高校生のするものではない!自分の家に帰ったというのにほとんどまともに言葉を発せずに棒立ちになっている私の隣で、佐渡くんが頭を下げる。

「まぁご丁寧に、とんでもございません、どうぞ上がってください。実希、案内してさしあげて!」

声をかけられてようやく我を取り戻した私は、慌ててサンダルを脱ぐ。凄い、本当にうちに石油王が来ているのだ。佐渡くんの前を歩いて洗面所に入ると、新品の上質そうなタオルがかかっていた。お母さんは、庶民なりの最大限のおもてなしをする気だ。私もぼやぼやしていられない。

 手を洗いトイレの場所の説明を終えてリビングの扉を開けると、すごい勢いでソファから敬太が立ち上がった。

「初めまして!実希の弟の敬太です!いつも姉がお世話になっております!」

こんなにハキハキとした弟の声は久々に聞いた。お腹から声が出ている。そんな弟にも佐渡くんは笑顔で丁寧に挨拶を返してくれる。

「初めまして佐渡です。今日は急に押しかけて申し訳ないです。敬太くんは中学生?」

「はい、あの、中2です。それで、あの、」

さっきの威勢はどこへやら、急にしどろもどろになる。

「佐渡、さん、あの、もし迷惑でなければ…サインください!」

「えっ」

突然色紙と油性ペンを差し出されて、流石の佐渡くんも固まってしまった。その様子に、思わず吹き出してしまう。

「いや、俺なんかのサイン書いたって何の価値ないし…」

「あります!油田を持っている方に出会う機会なんて、僕の人生にこれから訪れることはありません!一生大事にします!!」

「えぇー参ったな。どうしよう?」

私を振り返る佐渡くんに、書いて書いてとジェスチャーする。珍しくほとほと困った様子の佐渡くんと真剣な弟のやりとりにニコニコしてしまう。

「うーん本当なんか…申し訳ないな…あの、いらなくなったらすぐ捨ててね。」

恥ずかしいのか渋りに渋ったものの、敬太の熱意に負けた佐渡くんは、色紙の真ん中に楷書体で丁寧に自分の名前をフルネームで書き、「いらないと思ったらすぐ捨ててね」と再び念押しして色紙を敬太に渡した。敬太は目を輝かせてお礼を言うと、自分の部屋にすっ飛んでいった。早速飾るつもりなのだろう。捨てたりしない。たとえ弟が色紙への興味を失ったとしても、私がずっと大事にとっておくよと、心の中で佐渡くんに語りかける。私たちの道が分かたれたのちに、あなたのことを、この気持ちを、ずっとずっと思い出せるように。

 

 さすがは社交界を渡り歩いて来ただけのことはある。晩御飯の間中、私がほとんど口を挟まずとも佐渡くんを中心として会話は盛り上がり、終始和やかな時が流れた。お母さんはすっかり佐渡くんのことを気に入ってしまったようで、もうほとんどうっとりした様子で佐渡くんの話に耳を傾けていた。

 敬太はというと、いつも破竹の勢いで食べ進む唐揚げにほとんど目もくれずに、佐渡くんの話に食い気味に相槌を打ち続けている。囃子方の掛け声に呼応する鼓の音が、段々テンポが早くなっていって最終的に連打となるように、相槌では足りなくなった弟は次々矢継ぎ早に質問を飛ばし、最後に食後一緒にゲームをする約束を取り付けると、かき込むようにご飯を平らげ早々とシャワーを浴びに席を立った。

 去年家族で行った夢の国を謳うテーマパーク内ですら敬太は斜に構えてピースの一つもしてくれなかったのに、別人のようなこんなに生き生きした姿を見せるなんて、油田が人に与える影響はやはり底知れないものがある。油で思春期の壁は溶かせるようだ。

 一方でお父さんは、会社からの帰路でスマホに届いた石油王滞在の一報に気が付いたらしく、家の近くのケーキ屋で瓶に入ったゼリーをギフト包装にして買って帰ってきた。ずっしり重たい箱に貼られた「御見舞 舟越」と書かれた謎ののしに、お父さんの動揺を見てとれた。そしてリビングに流れる佐渡くんを中心とした空気に飲まれたのか、帰宅したものの挨拶だけしてそそくさと寝室に引っ込んでしまったお父さんではあったが、晩御飯の食卓についてからは終始丁寧に佐渡くんから気配りを注がれて、徐々に心を許し、途中からは完全に瀬尾派から佐渡派に鞍替えしたのが誰の目にも明らかだった。お父さんは、本当にわかりやすい。


 我が家は庶民の中の庶民なので客間などあるはずがなく、佐渡くんは敬太の部屋で寝ることになった。あの敬太が文句ひとつ言わずに両親の部屋で寝ることを承諾したのには驚いた。むしろ石油王に部屋を使っていただけるなんて光栄です、くらいのノリだった。私がちょっと部屋に入ろうものなら、烈火の如く怒るのに…。

 私がお風呂から上がると、ちょうど敬太とゲームで遊び終わったところだったらしい佐渡くんは「じゃあそろそろ失礼します」と皆に丁寧に挨拶して弟の部屋へ休みに行った。敬太は佐渡くんがいなくなると元の無愛想な弟に戻り、「俺も寝る」と、さっさと寝室へと消えていった。

 すっかり佐渡派となったお父さんは

「多分石油王が飼ってるペットの家くらいの広さしかない我が家で、佐渡くんちゃんと眠れるだろうか?ホテルとかとってあげた方がよかったんじゃないか?」

と真面目に心配していたが、

「いつも寮で寝起きしてるから平気だよ」

と私が言うと、「それもそうか」と安心した様子でリビングから出て行った。

 私もそろそろ寝ようかなと立ち上がったところで、キッチンからお母さんに呼び止められた。見ると、お盆の上に多分引き出物とかで貰ったのであろうピッチャーとグラスのセットが乗っている。戸棚の奥底から引っ張り出して来たに違いない。

「これ佐渡くんに持っていってあげて。お金持ちの人って枕元にこういうの絶対あるから。」

確かに外国の映画で見たことがある気もする。本当にお金持ちの人の枕元に絶対にあるものなのかは、ちょっと疑問だけど。

 お母さんなりの本日最後のおもてなしを持って弟の部屋の前に立つと、扉の隙間から廊下に光が漏れていた。良かった、まだ起きてる。コンコンとノックすると、すぐに「どうぞ」と声が応える。

「おじゃまします…」

そっと扉を開けると、佐渡くんは窓辺にいた。網戸になった窓を見てハッとする。

「もしかしてクーラーのリモコンわかんなかった?!ごめん暑かったよね、これこれ、ここここ、付けとくね?!温度とか適当に調節してもらったら…あっうちは庶民だけどちゃんと払えるから電気代とか気にせず使ってね!あとこれお水だから喉乾いたら飲んでね?!ここ置くよ?!」

大慌てする私を見て佐渡くんが声をあげて笑う。

「違う違う、大丈夫だよ。ちょっと外の空気吸ってただけだから。ありがとう、そんなに気を遣わなくていいよ、どうぞお構いなく。」

私がほっとしたのを見て、窓を閉めながら佐渡くんが続ける。

「舟越さん優しいから甘えて今日はお邪魔しちゃったけど、図々しかったよね、ごめん。家族の人にも気を遣わせたしさ。でも楽しかった、本当にありがとう。」

「あ!うちは全然!大丈夫!むしろ佐渡くんに気を遣わせちゃったというか、弟のゲームにも付き合わせちゃって…」

「俺も全然!俺一人っ子だから弟いたらこんな感じかーって楽しかったし。あー…でもあれはちょっと…」

言い淀む佐渡くんの視線の先には、「佐渡マリウス」と書かれた色紙が壁の真ん中にドーンと貼られていた。

「俺が本当にすごいやつだったら良かったんだけど…」

「佐渡くんはすごいやつだよ!油田を持っているだけじゃなくて、紳士だし、優しいし、トーク力もあって気配り上手だし…私尊敬してる!」

尊敬してるという言葉が口から出た後に、お母さんの結婚相手の条件の話を思い出してわっと耳が熱くなる。今のはそう言う意味じゃない、ただ単純に、日々思っていることを、言っただけ。自分に言い聞かせる。

「褒めすぎ褒めすぎ。俺はなんていうか…小賢しいだけだよ。」

そんな馬鹿な…。怪訝な顔をする私にまた佐渡くんが吹き出す。

「凄い不満そうな顔。俺は舟越さんの方がすごいと思うよ。才能もあるし、あ。そうだ才能生かして今日の思い出になんか歌ってよ。一回生で聞いてみたかったんだよね、舟越さんの替え歌。」

「えぇえ?無茶振り…」

「俺しかないし恥ずかしくないでしょ?聞きたいなぁ。すごく舟越さんの歌好きなんだけどなぁ。」

いやいやあなたがいるから恥ずかしいんですよ…。でも好きと言われて熱望されると、悪い気はしないから私は単純だ。それに多分佐渡くんは馬鹿にしたりせずにただただ本心から喜んでくれるだろう。

「うーんじゃあ一曲だけ…」

「やったー!あ、ここどうぞどうぞ。」

ベッドの前に座った佐渡くんが手の指を揃えて彼の隣を勧める。えぇ…横に座るのか…歌よりそっちに緊張する…。とにかく雑念を払おうと、頭の中で歌詞を組み立てる。

「整いました。では聞いてください。『おお牧場はみどり』の替え歌、『おお我らの石油王』。」


♪皆 耳澄ませろぉ

油湧く 音がするぞ

金塊 引っ提げ 石油王 降臨 ホイ!

♪彼の睫毛 風を起こし

砂を散らし 油田拓く

白き衣 尽きぬ資産

狂わせるよ 教師も ホイ!


「ブッ!!!!」

盛大に横から吹き出す音を聞いて我に帰る。深く集中して歌っていた。

「ホイは反則でしょ…ッ。てゆうかそれテーマ俺?吉田先生出てきてるし、え?即興?いつも即興なの?」

「はぁまぁ割と…」

「えー!やば、すごいね舟越さん?ほんと…フハッ俺の睫毛風起こしちゃった…ッ」

相当ツボに入ったらしく、佐渡くんは肩を震わせて笑っている。気に入ってもらえて何よりだ。

「あーやばい腹痛ぇ、やっぱすごい才能だわ舟越さん。歌上手いのがまた…さすがコーラス部…ッ」

笑い転げる佐渡くんの顔が素っぽくて嬉しくなる。

「あー…めっちゃ笑った。ありがとう、素晴らしかったです。」

涙を拭いながら佐渡くんが頭を下げるので、釣られて私も深々と頭を下げる。

「いえいえこちらこそそんなに喜んでいただけて。」

「舟越さんは楽しそうに歌うのがまたいいよね。歌うの好きなんだね。」

「うん、歌は好きだよ。佐渡くんは…テニス部だよね。テニス好きなんだ?」

「あーいや、実は別に好きなわけでも得意なわけでもない。」

「えっ」

意外な答えに思わず大きな声が出る。

「じゃあなんでテニス部に…?」

「テニス真剣にやってる部員に申し訳ないからここだけの話にして欲しいんだけどさ、テニス部ってすごく日焼けするじゃん?」

「んん?」

それとどんな関係が?

「だからさ、みんな肌真っ黒になるから、その、茶色の肌の俺がいても目立たないっていうか。夏の間だけでも。」

「え?つまり佐渡くんは自分の肌の色が紛れると言う理由だけでテニス部に入ったと…?」

「まぁそんなところ!しょうもないちっさい男でしょ、俺。」

「そんなことないよ!」

そんなことはないけど…すごく意外だ。佐渡くんは見た目が人と違うこととか、全然気にならないのかと思っていた。もっと広い海で泳いできた魚だから、そういったことは些細なことだと歯牙にもかけないのかと。…もしかしたら、私が思った以上に今まで色々と苦労したりしたのだろうか。そういえば佐渡くんはうちの学校に来る前はどんな場所で、どんな人に囲まれて、どんな生活をしていたのだろう。

「…佐渡くんて、アラブの方に今までずっといたの?」

「いや、3歳くらいまでは住んでたけど、10歳くらいまで各国転々として、それからはずっと日本だよ。親父は基本アラブにいるから、長期休みの間は向こうに行ったりしてたけど。」

「え!そうだったの!そっか、通りで日本語が堪能なんだね。日本のどこに住んでたの?」

「色々かな。親の都合であちこち、短いと一年くらいで引っ越したり。」

すごい…セレブは名所巡り感覚で好きな場所へどんどん移り住んだりするんだろうか。別荘があちこちにあるのかもしれない。

「あ、じゃあ学校とかはすぐ転校で大変だったんだね。」

「もう慣れたけどね。まぁガッツリ友達!ってのはなかなか出来ないよね。」

「でも佐渡くんだったら、引っ越してもずっとみんなに慕われてそう…」

「ないない、人の縁てね、意外とあっさり綺麗に消えちゃうもんだよ。」

石油王ほどの立場でも?軽い感じで言う佐渡くんは笑顔だが、本物の笑顔ではないのはすぐ分かる。

「だから友達の家に泊まりに行くとかも俺この歳になって初めてなんだよね。寮生活ってのもあって、俺が思ってたよりずっと…みんなと仲良くなって、正直俺自身びっくりしているというか…」

佐渡くんの横顔は、嬉しそうでもあり、切なそうでもあり、とても複雑な表情を浮かべていた。なんとなく口を挟めずに黙って見つめていると、ふと柔らかく笑って佐渡くんがこちらを向いた。

「ありがとうね、仲良くしてくれて。」

「あ・いえ、こちらこそ…」

ドキリとしてうまく言葉が出てこなかった。しどろもどろになったまま、なんとかおやすみなさいと挨拶して部屋を出た私は、ふわふわした気持ちで自分の部屋に入るとそっとそっと扉を閉めてベッドに転がった。

 私の知らない佐渡くんを見て、感じて、胸がいっぱいで苦しい。苦しいけど、もっと知りたいなと思う。

 私はやっぱり、佐渡くんが好きだ。

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