第5話 常闇の国の石油王

 石油王のいる生活にすっかり慣れて心穏やかに楽しく生活していたというのに、今更なんだか緊張してしまって本当に嫌になる。学校の外に一歩出てしまえば住む世界が違いすぎる佐渡くんと、別にどうこうなりたいなどとは微塵も思わないし、「ご学友」と言う立場だって贅沢で貴重な経験をさせていただいちゃって…と、ただただ感謝の気持ち溢れる毎日なのに、目が勝手にあの癖っ毛を追ってしまう。やめたいのにやめられない。お菓子はいつか胃袋の容量的に限界が来さえすればやめられるけれど、心というものは底無し沼で貪欲で全然満足してくれなくて困る。「さっき見たじゃない、もう忘れたの?」と、すっかり認知症を患って再び佐渡くんを追いかけようとする自分の眼球に心の中で語りかける。

 プール掃除前の自分に戻れたら楽なのに…。いっそ佐藤さんから洗礼を受けて入信しちゃおうか。そしたら自分の心の中にしっかり太い一線を引いて、清らかな気持ちで佐渡くんを眺めることができるかも。

 試しに手でも合わせてみようかと、高橋くんと何か話し込んでいる後ろ頭に視線を合わせたところで、急にぐりんと佐渡くんの首が回って目が 合い、椅子からひっくり返りそうになった。

「ん?舟越さんどうかした?」

「へっ」

「なんか俺に言いたいこととかあったりする?最近そんな視線を感じる気がして、何か困らせてるんだったら悪いなぁと思って。俺の自意識過剰だったらごめん忘れて。」

ひぃぃ最悪の事態、私の視線はバレバレだったのか。背中にびっしょり汗をかきつつ、声も出せずに唇をパクパクさせていると、

「ん。こないだ瀬尾に絡まれたんだろ?その後佐渡といたせいで舟越さんまでなんかあいつに言われたりとかは?ない?俺いると話しづらかったら消えるしさ」

高橋くんがこれまた真剣な顔でこちらに向き直る。もしかして2人で瀬尾くんの話でもしていたのだろうか。私の視線はなんて軽率でタイミングが悪かったんだろう!本当のことを言えるはずもないので、とにかくこの真剣な空気を脱して、なんでもないことを信じ込んでもらわないと非常にまずい。

「いや全然そんな困ったりとか何もないよ!」

額の髪の生え際がわーっと汗ばむのが分かる。やめてやめて私の汗腺仕事しないでー!

「ほんとに?」

ぐんぐん耳が熱くなるので、きっと今私の顔は怪しさ満点、このまま否定し続けても彼らの中に引っ掛かりを残してしまうだろう。


 そうだ!うまい嘘をつく方法はそこに少しばかり真実を混ぜるといいって正月にお母さんと見た刑事ドラマで言っていた!これだ!

「あの、じゃあどうか気を悪くしないでもらえたらと思うんだけど…」

「うん」

善意100%の2人の視線が痛い。特撮映画で正義の味方の目から放たれる光線に貫かれる怪獣の気持ちが、今なら分かる。いつ終わるともしれぬビームに身を焼かれるのは辛いので、もうさっさと地球外へ投げ飛ばしてもらいたい。

「本当に、ただただ純粋に疑問に思っただけというか、心配になっただけというか、とにかくそんな感じなんだけど」

「うん?」

「佐渡くんて睫毛すごくすごく長いけど、前ってちゃんと見えてる…?」

「えっ?」「ふはっ」

完全に予想外だったのだろう、佐渡くんの表情筋は一気に脱力し、高橋くんは吹き出すと顔を背けて笑っている。

「あっ私ってご覧の通り睫毛ちんちくりんだから!佐渡くんの睫毛は長くて素敵だなぁと常々思っていたんだけれども!そんなに長いと視界に入ってきたりしないのかなぁ、ちゃんと見えてるのかなぁってちょっと心配していたというか!」

嘘ではない、彼の横顔を盗み見るうちに地味に気になっていたことだ。

「そんな心配をずっとしてたの?平気平気見えてる見えてる」

「ほ、ほんとに?こう、教科書見るために目を伏せてる時とか、睫毛に視界覆われたり、まつ毛の影になって世界が薄暗くなるなんてことは…」 

「ないない大丈夫大丈夫」

ツボに入ってしまったのか高橋くんはずっと笑っている。

「でも、佐渡くんは生まれた時からまつ毛がきっと長いわけでしょ?だから自分が気づいてないだけって可能性ない?世界の明るさに」

「世界の!明るさに!」

ついに高橋くんは声をあげて笑い始めた。佐渡くんはというと、やはりいくらか困惑した顔のままうーんと思案して、

「証明できないけど、結構俺の世界明るいよ?」

と、真面目に答えてくれる。あー私失礼なこと言ってるよね、変なやつだときっと思われてるだろうな。でも背に腹は変えられない。一通り笑い終えてようやく話せるようになった高橋くんが、キリッと真面目な顔を作って佐渡くんの肩に手を置く。

「いや分かる分かる、こいつの睫毛、瞬きで風を起こせそうだもんな!確かに俺も心配になってきたわ。ちょっと確かめてみようぜ。」

「どうやって?」

「化粧道具具でさ、こうなんかハサミみたいなやつでキュッて睫毛上向きにするやつあるじゃん?」

「あ、えっと、ビューラー?」

「それそれそれ!舟越さん持ってる?ない?おーーい、誰か今ビューラー持ってねぇ?」

「持ってるけど何ー?」

「佐渡に新しい世界見してやりてぇからちょい貸してー」

完全に面白がっている高橋くんと何かを諦め始めた佐渡くん。なんだなんだと人が集まってきてしまったが、ひとまず危機は脱せり。

 それにしてもこうしてみんなに囲まれている佐渡くんを眺めていると、彼が油田なんか持っていない、普通の高校生に見えてくる。でも、違うんだよなぁ…。油田がなぁ…私と佐渡くんの間には黒い油の河が流れているんだよなぁ…。

「はいっ」

突然目の前にビューラーを差し出されてハッと我に帰る。

「え?」

「ここはやっぱり、舟越さんの手で佐渡を光の世界に連れ出してやってくれよ。俺使い方よくわかんないし。」

「ええっ私もそんなに使い慣れているわけでは」

「舟越さん…痛くしないでね…」

覚悟を決めた様子の佐渡くんがぎゅっと目を瞑る。なんだか怯えさせてしまって申し訳ない。責任を、責任を取らなければ…

「じゃあ失礼します…あ、もうちょっと力抜いてもらって…」

「わー…こわ…」

「大丈夫、優しくする、優しくする…」

「いやお前らどんな会話してんだよ」

いつの間にか背後にいた石田くんがツッコむが、こっちはそれどころではない。力加減が難しい。何よりこんな至近距離に佐渡くんの顔があると、鼻息でもかけてしまったら恥ずかしくて死んでしまうので先程から鈴虫みたいな呼吸しかできない。もしも酸欠で私が今この世を去ったら佐渡くんを始め方々の関係者に多大なるご迷惑をかけてしまう。落ち着いて、素早く、かつ丁寧に…それにしてもさすがのボリュームと長さ、上がり幅が半端じゃないな、ちょっと楽しくなってしまう…

「できた…」

「おおおおおぉぉぉぉ」

男子の野太い歓声に女子のはしゃぐ声が混じる。

「やばいやばいめっちゃ美人!」

「お前富だけじゃなく今、美まで欲しいままにしてるぞ!」

「目力すげぇ!眩しい!」

ギャラリーがひとしきり盛り上がりを見せる中、差し出された鏡でくるんと上を向いた自分の睫毛を見た佐渡くんは「ふッ」と吹き出した後、

「すごいねこれ目が大きく見える、面白ー」

と笑いながら右へ左へ鏡を動かしている。良かったどうやら楽しんでもらえているようだ。

「それでどうよ、世界明るくなった?」

そうだった、あまりにもビューラーの使い甲斐ある睫毛だったもので当初の目的を忘れていた。高橋くんに言われて、上を向いたり下を向いたり周りを見渡したりした後、最後にしっかり私を見据えて佐渡くんが言った。

「変わらないかな」

「そっかぁ」

佐渡くんは闇の住人ではなかった。私の心配は杞憂だったようだ。私が佐渡くんを目で追っていた理由もうまく誤魔化したし、めでたいめでたい。

「なんだ俺たち、同じ世界見てたのか…」

高橋くんがキメ顔で格好良い風なことを呟く。

「これで心配から解放されて授業にも集中できそう!ありがとう!」

あと、言い逃れに付き合わせてしまってごめんなさい。心の中で謝る。

「それは良かった、どういたしまして!」

あははははと声をあげて佐渡くんが笑う。そこで丁度チャイムが鳴ってわらわらとギャラリーが席についていく。

「うーぃ帰りのホームルームはっじめるぞーぉ」

吉田先生が扉を開けて教室に入るなり教卓に体重を預ける。

「ん?どうした佐藤体調悪いか?」

先生の声にはっとして前方を見ると、佐藤さんが机の上の握り合わせた拳の上に額をこすりつけて小さくなっている。さっきまで周りに人間の壁があったので気が付かなかった。いつから?大丈夫だろうか?

「いえ…私の左側が…いつにも増して神々しく…顔をあげられないだけです…」

絞り出すように佐藤さんが声をあげる。

「は?……ハッ⁈」

ポカンとして佐藤さんから視線を動かした吉田先生が急に素っ頓狂な声をあげる。

「佐渡どうしたお前、なんか輝いてるぞ⁈なんだ⁈え??砂金でも食べたの…?」

原因の睫毛に辿り着けない先生は混乱しているようだ。

「よく分かりましたね?意外と美味しいんですよ。」

驚くほど滑らかに冗談を言う佐渡くんに、さっき咄嗟に何も言えずに狼狽えた自分を思い出す。私はきっと社交界なんか渡っていけないな。

「えっ石油王の方達って砂金食べるの?あっそうか俺たち庶民は金箔浮かべて酒飲んだりするんだから食べるか、そっか…えー…あ、ふりかけみたいに?」

クラスが笑いに包まれる。本当にこの先生は心が庶民すぎてなんでも鵜呑みにするから、心配になっちゃうな。きっと奥さんはしっかり者なんだろう。私もいつか、結婚して、庶民的な、小さな家庭を築くかもしれない。一方その頃佐渡くんはもしかしたら一夫多妻な砂漠の国で、素敵な奥さんを沢山もらって、ラクダに揺られながらシャンパンを飲んでいるかもしれない。将来的に2人の世界は交わることはないだろうけど、今は同じ世界を見ているのだから、いいのか、好きになっても。佐渡くんが私を好きだったらいいのにと思うのだって、好きな人に好かれたいと思うのは自然なことだし、いいんだ、別に。もっと仲良くなってみたいし、もっと知りたい。

 少し、肩の力が抜けた気がする。先のこととか、住む世界のこととか、関係ないんだ。今を大切に、この気持ちを大切に。私は、佐渡くんが好きだ。

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