第4話 油の湧く音

 「シッ静かに!」

鋭い声が響いて皆が動きを止める。

「どうした佐渡」

真剣な眼差しで堀内くんが囁く。

「油の湧く音がする…」

なんだって…?

全員が息を呑みピンと空気が張り詰める。


『ごポッゴゴポッ』


「本当だ!」

「一体どこから?!」

「探せ探せ!」

いくつもの興奮した顔が右へ左へ忙しなく動き、期待のボルテージが最高潮に達したところで

「いや排水溝詰まってる音じゃーん!」

石田くんの声がプールサイドに大きく響いた。

「油じゃないんかーい!」

「ちょっと期待しちゃったしー!」

弾けた油田への夢を惜しむ声が次々上がり、その中心で佐渡くんがカラカラと笑う。


 久々にすっきりと晴れ渡った空からは、もう痛いくらいの紫外線を感じる。今日は2年全員でプール掃除だ。体操着に着替えて各クラス担当場所を清掃する。うちのクラスはプール内担当。本当は日焼けの心配のない更衣室の掃除が良かったけれど、佐渡くんの石油王ジョークでわいわいと盛り上りながら手を動かすのは、紫外線を甘んじて受け入れてもいいくらいに楽しかった。


「やーこの泥全部石油だったらいいのになー」

「それなら俺めっちゃ掬う」

「じゃあこの泥1番集めたやつが今日の石油王な」


 デッキブラシ組の男子が石油王選手権を始める声を背後に聞きながら、仲良し組と談笑しながらタワシで壁をゴシゴシ擦る。ついつい鼻歌なんて歌っていたら、

「それなんて曲?」

と突然声をかけられて、ビックリしてタワシを取り落としてしまった。

 泥と落ち葉でいっぱいのバケツを手に、ニコニコ立っていたのは佐渡くんだった。

「えっと次の合唱会の課題曲だから名前言ってもわかんないかも…」

タワシを拾い上げながら答える。

「なんだ新曲構想中かと思った」

わっまさかこんな公衆の面前で替え歌の話題?!

「え?新曲?なんの話?」

ひょっこり佐渡くんの後ろから現れたのは丸い目をくりくりさせた堀内くん。

「いや、鼻歌聞こえたから舟越さんて歌上手いよねって褒めてただけ」

良かった…替え歌のことはどうやら周りに言わないようにしてくれるらしい。テニス部にはバレてしまっているからどこまで知られているのかは分からないけど、男子に揶揄われたりすることもなく平和に今まで過ごせているから、もしかしたら私の狼狽えた様子を見た佐渡くんが噂が広がらないように本当にちゃんと手を打ってくれたのかもしれない。

「あー舟越さんずっとコーラス部だもんねー俺音痴だから憧れるわぁ」

中学が同じだった堀越くんは私の部活遍歴を知っている。勿論しょうもない替え歌のことは知らないはずだけれど。

「よく通るいい声だよね、砂漠の夜空に煌めく星のような可能性を感じます。」

急に佐渡くんが評論家口調になる。

「石油王的に彼女の歌にいくら投じても良いとお考えですか?」

インタビュアー堀内くんが拳をマイクに見立てて佐渡くんに差し出す。

「そうですね…私日本円に詳しくなくて。ディルハムでもよろしいです?」

「「でぃるはむッ」」

急に聞き慣れない通貨単位が出てきて思わず堀内くんと私が吹き出す。


 「また金の話かね」

 この声は…振り仰いで見るとやはり、ぴっちりした体操着に身を包み、よりコロンとした印象のこけし…もとい、瀬尾くんが洗剤を抱えてプールサイドに立ち、私たちを見下ろしていた。

 そうか、プールサイド掃除担当は隣のクラスだった。

「人の才能に早速値段をつけようとするなど品のない。君が油田ありきのコミュニケーションばかりするから周囲との話題も金に絡んだものばかりになるのだ。いずれ莫大な富と権力を行使する者として一度省みた方が良いと思うがね。」

 佐渡くんは何も悪いことをしているわけではないのになんでそんなに嫌味な物言いをされなければならないのだろうか?そもそも石油王というものを勝手に持ち上げ担ぎ上げているのは、ミーハーな私たち周りの人間なのに。

 頭の中を反論の言葉がぐるぐる回るものの、それを一つも口から出すことができない。体がキュッと強張って立っているだけでやっとだ。情けない。

「瀬尾グチのグチは愚痴愚痴説教おじさんのグチ…」

私たちにしか聞こえない小さな声で堀内くんが口を尖らせボソリとつぶやく。その顔があまりにひょうきんでふっと体から力が抜ける。

「瀬尾くんは本当に真面目だね!」

出し抜けに明るく大きな声を佐渡くんが出すので、瀬尾くんがいくらか面食らった顔をする。

「なんだか疲れてない?大丈夫大丈夫、石油怖くないよ、安心して!油田をみんなが愛でてくれると持ち主の俺も嬉しいし、楽しいよ」

「一体何の話をしている?」

「油田から生まれるのは富や権力ばかりじゃないってこと。」

ボコンッと洗剤のボトルが音を立てて、瀬尾くんの背後に七色のシャボン玉が舞う。とてもファンシーな背景に心底不愉快そうな歪みに歪んだ瀬尾君の顔のコントラストがアンバランスすぎてちょっぴりおかしい。

「目の前に金をぶら下げた状態で真の友愛を築けるとでも?もういい、どちらが正しいのかはいずれ時が来たら証明されるだろう」

吐き捨てるように言うと、洗剤ボトルを凹むほど握りしめたまま瀬尾くんは去って行った。


 「ふー瀬尾グチヤベェな、佐渡のこと目の敵にしてんじゃん、感じワルぅ」

堀内くんが風に流れていくシャボン玉を目で追いながら呟く。

「でも俺に何か言う時は、必ず1人で真正面から来るから、その点はむしろ好感度高いよ?悪口にしろただの好奇心の噂話にしろ、陰でコソコソやられるよりずっと気持ちいい。やっぱり瀬尾くんは真面目なんだと思うよ。」

嫌味な圧力を頭上から突然受けたと言うのに、そんな風に穏やかな顔で、そんな風に悠長なことが言えるなんて、今までどんな修羅場を通ってきたのだろう。やっぱり油田を持っていると、妬み嫉みの類を浴びたり難癖をつけられたりするのは日常茶飯事で、いちいち取り合っていられないのだろうか。全く不快にならないなんてこと、あるはずないのに。

「それに、瀬尾くんが斬りかかってくるのは、あくまで『油田を持ってる佐渡』なんだよね。『ただの佐渡』には全く触れられてもいないわけで、まぁ正直俺自身は何にもダメージがないというか。だからそんな顔しなくても大丈夫だよ」

そう言って佐渡くんがまた、私にあの笑顔を作る。そこではっと、自分が悲壮感漂う顔をしていた事に気が付く。

「ご、ごめん私小心者で、あの…」

「いやいや心配してくれたんだよね、ありがとうね」

王者の、オーラが、眩しい…!こんな器の大きさを見せられてしまうと、人が石油王に惹かれてしまうのは本能であり、抗えないものなのではないかと思えてくる。

「佐渡、女子と2人きりの空間生み出すのやめて?俺もここにいますよ?俺にも優しく笑って?」

堀内くんが佐渡くんの肩からにゅっと顔を出す。

「そ、んなつもりないし、ってイタタタタタ顎刺さってる顎刺さってる、分かった分かった、じゃあね舟越さん、堀内顎!」

堀内くんの顎を肩に乗せたままバケツ片手に佐渡くんが去っていく。私も持ち場に戻ろうと振り向くと、佐藤さんを先頭にタワシを持った女子達がこちらを拝んでいた。

「何してんの!」

「いや、実希が瀬尾くんの石油王ディスりに巻き込まれてんのかと心配して様子見てたんだけど、また華麗に佐渡くんがニコニコいなして撃退するもんだから、もう自然と佐藤さんに倣っちゃったよね。」

「石油王、偉大なり」

佐藤さんが手を合わせたままゆっくり頷いて微笑む。信者が増えて宣教師佐藤さんは満足そうだ。

「それでさ。見染められたの?」

「はい?」

「んもーだからさ、なんかいい雰囲気じゃなかった?見染められた?」

「な!わけないじゃん!」

「えーほんとに?距離近くなかった?佐渡くんめっちゃ優しく笑ってるように見えたんだけど。」

「そうそう!こう、いつもの大衆向け石油王スマーイルって感じじゃなくて、何ていうの?慈しみの笑顔、一点注ぎ型っていうか?」

「友達から石油王夫人出るとか興奮しちゃうから普通に応援するよ?で?正直に言うと見染められた?」

「知らないよ!ていうか、ありえないから!」

 乱暴にタワシを壁に擦り付ける。ありえないありえない、まったくとんでもないことを言う!一般市民小市民、庶民の中の庶民である私に油田を持ちたる佐渡くんが好意を持ってくれるなんてことはあり得ない。冗談でも畏れ多い!


 でもちょっぴり期待してしまう自分が嫌で恥ずかしくて、その夜は枕に顔を埋めて何度か叫んでしまった。

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