第3話 唇に歌、セレブにテニス
「♪ いざぁお覚悟ぉと 刀抜き刺すー」
窓辺に立ち、空に向かって早春譜の替え歌を歌い上げる。音楽室に部員が揃うまでの私の楽しみ。
「ちょっとまた実希ーやめてよ笑って練習できなくなるじゃんー」
振り向くと笑いながら千春ちゃんが音楽室に入ってくる。
「ごめんーでも歌う。♪ しかーしヒぃラリーとぉ かわーし尻出すー」
「きゃははは、なんで尻出すのーもーやめてーー」
千春ちゃんは私の即興替え歌にお腹を抱えていつも笑ってくれる。笑ってもらえると嬉しくなるし安心する。私にはトークの瞬発力がないし、佐渡くんみたいに言葉でみんなを楽しませたり空気を変えたりすることはできないけれど、歌でなら人を楽しませることができる。笑顔の真ん中に自分が立つのは気持ちがいいものだ。歌うことが好きで楽しくて、中学生の時からずっとコーラス部に在籍し続けている。高校のコーラス部は総部員数11人という規模の小さなものだったけれど、だからこそ自由にのびのび活動できて楽しい。そう、変な替え歌も作り放題。
「いや舟越先輩まっじでやめてくださいよ。こないだ俺のソロパートで牛乳拭いた雑巾の悲哀を歌われたせいで、あれからソロんとこ笑わないように歌うの大変なんスからね?!」
うちの部で唯一の男子部員、坂くんが口を尖らせてこっちを睨む。
「えーそれはごめんね?♪乳臭いとぉ〜後ろ指差され〜」
「ブッ!!だからやめてって!言ってるっしょ!!!無駄に気合い入れて歌わんでください!!」
「あはははは!」
部員同士の距離が近くて、練習時間以外はずっとふざけ合っている。教室とはまた違う空気。私はこの空間が大好きだ。
「あれ今日部長遅いね?」
千春ちゃんに尋ねたのだが、彼女が口を開くより先に、ピアノで遊んでいた副部長が答えてくれた。
「あー今度の合同合唱会の曲決まったから楽譜人数分コピってから来るって」
「じゃあ部長来るまで、『海苔』、いっときます?」
千春ちゃんが親指を窓辺に向けてニヤリと笑う。
「いいですね、やりましょう」
窓辺に2人並んで立つと呼吸を合わせ、スッと音を立てて肺に空気を送り込む。
「♪吸ーうよぉー味付け海苔ぃ 隠れて吸ーうよー」
滝廉太郎の『花』の替え歌『海苔』。
「♪美味いぃ止まぁらないぃもう一枚ー」
「♪塩分ー摂りー過ぎー気にーしーなーい」
「♪胸のポケーットにー予ぉ備1まーい」
私はソプラノ、千春ちゃんはアルト。彼女がいたく気に入って歌詞を覚えてくれたので、2人でハモって楽しめる。ふざけた内容の歌詞に反して美しいハーモニーを大真面目に奏でる愉悦は実に実に格別だ。
3番まで歌い終わって2人して笑い転げたところで、「あ」とちはるちゃんが窓の下を見て声をあげる。
「あれ、実希んとこの石油王じゃない?」
3階に音楽室のある別棟の校舎の前にはテニスコートがある。そこで談笑しながらウォーミングアップしているのは…確かに佐渡くんだった。そういえばテニス部に入ったって言ってたっけ。普段窓辺で歌うときは常に空を見ていたので、テニス部員としての彼の姿を見るのは初めてだ。
「はーやっぱりセレブはテニスが似合いますなー」
千春ちゃんが窓辺に頬杖ついて呟く。
「ねーセレブといえばテニスと乗馬ですよねーあ…佐渡くんはラクダなのかな…」
私も同じように眼下をぼんやり眺めながら呟く。と、不意に佐渡くんが顔をあげて目が合った。悪戯を見つかった子供というよりは、女湯を覗こうとしていたのを見つかった少年のような気まずさがわっと押し寄せて頰が熱くなる。慌てて引っ込もうとした瞬間、佐渡くんが大きく笑ってこちらに向かって拍手するのが見えて混乱して固まる。え??なんで 拍手??
こちらの動揺をよそに佐渡くんの行動に呼応するかのように他のテニス部員まで一斉にこちらを見上げて拍手を始めて、訳もわからずぺこぺこお辞儀をして窓辺から逃げる。後を追うようにピアノ前に避難してきた千春ちゃんが
「えー三階だから聞こえないもんだと思って油断してたー」
と罰が悪そうな顔をするので、ようやくそこで私たちのしょうもない歌にテニス部員一同が拍手をくれていたのだと理解する。ぎゃーと叫び出したい気持ちと宇宙の彼方の塵になりたい気持ちが同時に押し寄せてきて、胸を押さえたら「ヒー」と口から変な息が漏れた。完全に身内に向けたおふざけだった。まさか今までのも?ずっと聞かれてた?
「毎回聞こえてたよ」
翌日佐渡くんにニコニコ肯定されて頭を抱えた。
「うそー…」
私の様子に爽やかに佐渡くんが笑う。
「アップ中に面白い替え歌が音楽室から聞こえてくるってテニス部の間では楽しみにしている奴等も多いんだよ。まさか舟越さんだとは思わなかったけど。やぁ素晴らしい職人芸だね!」
「滅相も…ございません…」
く!窓からテニスコートを覗き込んだりしなければ正体がバレることはなかったのに!とんだ石油王の罠!
私が歯軋りして悔やむものだから、その様子に白い歯を見せて笑った後に佐渡くんがフォローを入れる。
「本当に楽しい才能だよ、そんな顔しないで胸を張りなよ。親父主催のパーティとかで歌ってもらいたいくらい。どう?一曲」
「絶対絶対そんなの無理!です!!」
社交辞令ならいいのだが、万が一軽いノリでそんなものをセッティングされてはたまらないので強く否定しておく。本気かジョークかわからないセレブの誘いほど恐ろしいものはない。
「そんなに恥ずかしがることないのになぁ。あ、まさかこれを機に辞めっちゃったりしないよね?テニス部みんな悲しむよ。」
「そう言われましても」
「何より俺が悲しいなー。新曲も楽しみにしてるのになぁ。」
「いえ、あの、油田を統べる者として是非もっと高尚な音楽をお聞きになってください…」
「じゃあこっそり聞くだけにするから!ね!テニス部一同密かに楽しむから!舟越さんは今まで通りのびのび歌ってよ」
からかいの邪気が一切感じられない笑顔を向けられて、何も言えなくなってしまう。まぁ、これだけ楽しみにしてくれているなら…と気恥ずかしさの中に嬉しい気持ちが灯る。
でも、これから歌う度に、頭の片隅に、佐渡くんの顔が浮かんできちゃうな。人を安心させちゃう、その笑顔が。
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