第2話 金塊がポロリ

 慣れた。視界に常に石油王がいると、慣れてすっかりどうということはなくなった。さすが人間は順応性の高い種族。自分の種としての性質をこんな形で実感することになるとは思ってもみなかった。

 何より石油王は気さくで大らかだった。日本の庶民の生活の知識も豊富で、最初は緊張して探り探り石油王との距離感を探っていたクラスメイトたちも、ひと月もするとすっかり打ち解けて「っヨ!さすが石油王!」などと軽口ヨイショをしては佐渡くんに「うん!苦しゅうない!」などと応じてもらって盛り上がるようになっていた。

 クラスに石油速報をもたらした堀内くんは、初めて石油王との連れションを嗜んだ時などは、教室に帰ってくるなり両手を胸に当てて「俺…この思い出をずっと胸に生きていくんだ…」と噛み締めるように呟いていたものだが、今では石油王と肩を組んでふざけ合ったり休み時間には相撲をとったりして、1番近しい存在となっていた。どうも寮の部屋が隣らしく、自然と距離が縮まったらしい。

 もちろん石油王の噂は瞬く間に全校生徒に広まっていたので、休み時間になると佐渡くんは毎時間呼び出されては女子生徒から告白を受けていた。ある日の昼休みなどは告白の長蛇の列ができてしまい、腕まくりした堀内くんが待機列整理を買って出たほどだ。玉の輿に憧れる気持ちは分かるけれど、相手が石油王となると規模が違いすぎて、回転寿司に行っても金縁の皿を取る勇気のない私なんかは微塵も佐渡くんへ下心が湧かない。みんなの「ワンチャンあるかもだしとにかく当たってみて糸口を掴もう」とする前向きな姿勢には眩しいものを感じて、もはや尊敬の念すら抱いていた。

 一方佐渡くんはどんな美人がやって来ようとも丁寧に頭を下げて「ごめんなさい」と断り続けた。明らかに油田目的だし断るのは分かる。が、思春期男子なのだからちょっと女遊びをと考えてもいいのにそれをしないのは、やはり油田を背負うものとして、生半可な気持ちで気軽にパートナーを選ぶことは出来ないのだろうか。それとも国に既に決められた婚約者がいるとか?石油王はみんなお札で一杯のバスタブで女の人達とシャンパンを飲むものだと思っていたが、佐渡くんはどうやら誠実な石油王らしかった。


 そんな石油王との親睦も深まっていたある日のこと、事件は起きた。その日は珍しく佐渡くんが朝のホームルームの始まるチャイムと同時に入ってきて、「ギリギリだぞー気をつけろよー」と吉田先生に声をかけられながら席まで小走りでたどり着いた。椅子を引き出しながら

「舟越さんおはよう」

と白い歯を見せて笑う。佐渡くんは目が合うと必ず誰にでも名前を呼んで挨拶する。

「寝坊しちゃったの?」

と聞いてみると、

「ヘアセットに時間かかっちゃって。ここの寝癖がさぁ」

と席についた佐渡くんは癖っ毛を指でクルクルやりながら、肩越しに私を見て小声で答える。

「え?それいつも通りでは…」

「うんだから満遍なく寝癖つけるの難しいんだよ。今朝は起きたらイマイチだったから枕にぐるぐる頭擦り付けてたら遅くなった」

「待ってそれやっぱりただの寝坊」

クスクス声を抑えて佐渡くんと笑い合う。遅刻理由にジョークを混ぜてくるなんてなんだか外国の人っぽいなぁと思いながら、鞄から教科書を机の中に放り込んでいく佐渡くんの背中をぼんやり眺めていると


ゴトン…!


突然重い音が教室の中心に響いた。クラス中の視線が音の方へ…佐渡くんの席のあたりに集まる。

「なんだ何落とし…ヒュッ」

吉田先生の喉から変な空気音がした。

金色の手のひらサイズの四角い塊が床に転がっている。私はそれが佐渡くんのカバンから滑り落ちてくる一部始終を目撃していた。実物を見るのは初めてだったが、おそらくこれがあの有名な…


教室が変な緊張感でしんと静まり返る中、佐渡くんは「おっと、なんか重いと思ったら」などと独りごちながらひょいとそれを足元から取り上げた。

「さ、佐渡、それ…」

吉田先生が露骨に狼狽えている。

「あーすいません、今朝時間なくて慌ててたんで、机の上のものざっと鞄に詰め込んだ時に一緒に入れちゃったみたいで…」

佐渡くんがはにかんだ笑みを見せる。

「机の上にそれポンとおいてるの佐渡くん?!」

先生が真っ青になって声をあげる。

「え。…はい、その…父が世界情勢に何かあった時のためにと念の為持たせてくれていたんです、嵩張るしいらないよって言ったんですが…」

「はァッ」

声にならない叫びをあげて佐藤さんがほとんど反射的に佐渡くんに向かって手を合わせていた。彼女の中ですっかり佐渡くんは仏壇と化しているようだ。人智を超えたオイルの力は信仰を呼ぶらしい。

 佐渡くんの席までやってくると、おずおずと先生が尋ねた。

「ちょっとだけ…持ってみてもいい?」

「あ、どうそ」

「先生ずるい!」

わっとブーイングが上がる中、上着でゴシゴシ擦った手を先生が差し出し、そこへ佐渡くんがポイと無造作に金色の四角を乗せる。

「わ!重…!」

大興奮の先生はすっかりホームルームのことなど忘れているらしい。目を輝かせてじっと手の中の物を上から横から観察して…

 と、不意に先生の目から光が消え顔を上げた。

「え…金塊は学業に必要ないもの…だから…先生…これ没収しちゃえるってこと…?」

「先生しっかり!!」

お金の力で人が狂っていく様を間近で見せつけられ、生徒たちの多くはこの体験を一生のものとしたことだろう。なんとか大人の模範たる教師として踏みとどまった吉田先生は、金塊をそっと佐渡くんに返すと、「いやでも防犯上…」などとぶつぶつやってから、真剣な眼差しで佐渡くんに語りかけた。

「佐渡、これを教室にも寮にもポンと置いておくのは大変まずいと思うんだ。見ただろう?先生も思わず道を踏み外すところだった。大衆にとって金はそれだけの価値があるものなんだ。先生は君も生徒も守…」

「あ、では学校で管理していただけるということですか?よろしくお願いします。」

にっこり笑った佐渡くんにノートを提出するような気軽さで金塊を握らされた先生は「ま‘’っ」と濁った悲鳴をあげてから私を見た。

「舟越、緊急事態が発生しましたって言ってすぐ隣の新山先生呼んできて!」

「え?」

意味がよくわからず固まる私に、先生が血走った目で叫んだ。

「金塊を握った先生が1人で職員室までちゃんと行けるか自信ない!今この世で最も信じられないもの、それは自分!!早く!」

先生の勢いに押されて教室を出た私は、先生のお財布事情が少し心配になりつつ、実際金塊っていくらの価値があるんだろうなぁなどとのんびり考えながら隣のクラスの扉をノックした。非日常の高揚感でほっぺたが緩んでしまいそうになるのをグッと堪えて扉を開けると真面目な顔を作る。

「失礼します、あの、緊急事態が発生してしまって、先生とにかく来ていただけますか?」

 何事かと慌てて駆けつけてくれた新山先生は、教室の真ん中で金塊を手に打ち震える吉田先生と、それをニコニコ眺める佐渡くんを見て「あなや!」と短く叫んだ。さすが古文の先生、咄嗟に出る感嘆詞が古語だなんてなんて風流なんだろう。余談だがこの新山先生の言動に思わず感動してしまった私は、以降古文の授業への意欲が向上し、成績が1段階上がることになる。

 こうして金の力に弱い吉田先生は雅なロマンスグレー新山先生に付き添われて職員室に向かった。程なくして全校放送で緊急職員会議の開催が告げられ(スピーカーから流れる吉田先生の声の固さにみんな笑いが止まらなかった)、1時間目は丸々自習となった。


 佐渡くんのために学校機能が麻痺したことにクラスは大興奮で、最近忘れがちだった「佐渡くんは石油王」という事実に改めて熱狂した。自習時間だというのに机に教科書を広げる者はなく、佐渡くんを囲んで通常授業の何倍もの熱意ある質問合戦になった。

「石油王ってやっぱり虎を飼ってる?」

「自家用クルーザーとか自家用ジェットって持ってるの?」

「今までで1番大きな買い物は?」

「石油王が手を叩くと踊り子って出てくる?」

 みんな興味はあるものの今まで自粛していたようで、ここぞとばかりに日本人の石油王へのイメージが反映された質問が飛び交う。その一つ一つにのんびりした調子で、嫌な顔ひとつせず佐渡くんが回答していく。中には「石油王ってどんなパンツ履いてるの?」なんていうとんでもないものもあったが、「そんなことに興味あるの?」と笑いながら「親父は確かユニク「フォーーーーーヤベェ俺石油王じゃん!」「俺もだ!」「俺も石油王!!」

佐渡くんが言い終わる前にうちのクラスに石油王が大量発生した。



「くだらん」

 急に投げつけれられた冷たい声音に、どきりとして一瞬クラスが静まり返る。開けっ放しの教室の扉に、やけに威圧感のあるふくよかな「こけし」がもたれかかっていた。まぁるい頭、重たい瞼に切長の眼、慎ましやかな唇…腕を組み足を交差させこちらを睨め付けていたのは、隣のクラスの瀬尾くんだった。わざと聞こえるように言葉を放ったところに悪意を感じる。

 瀬尾くんとは話したことはないけれど、多分この学校にいる人間は誰もがその存在を知っている。一代で急成長した地元福祉施設を扱う企業の一人息子で、お父さんはこの学校の卒業生。学校の広報誌にも度々大きく写真が載っているから、きっとみんな校長先生の顔よりも瀬尾くんのお父さんのにっこり顔の方に馴染みがあるはずだ。瀬尾くんが入学する時には多額の寄付があったようで、学校内の全てのトイレが個室の自動水栓式になったので、「トイレの君」としてその名を校内中に轟かせた。そんなわけで、いきなり親の七光りに照らされるだけ照らされて入学したものだから、新入生代表を務める瀬尾くんの姿に一部の口さがない生徒は「金を積んだ裏口入学のくせに」などと噂したものだが、定期試験でいきなり学年トップを取ってそんな陰口を華麗に捻じ伏せてからは、誰もつまらない話はしなくなった。その代わり、少しとっつきにくい存在にはなったのだけれど。


「金をチラつかせ人心を掌握するのは楽しいかね、実にくだらん」

 高校生らしからぬ口調で瀬尾くんが言葉を紡ぐ。次期社長たる威厳を身につけるために、普段から意識しておじさんみたいに硬い口調で喋っているのだと聞いたことがある。お陰で薄い顔立ちなのに、圧が凄い。吉田先生なんか吹っ飛ばされてしまいそうだ。

「うわ馬鹿!そんな不遜な口利いてるのが佐渡パパ様の耳に入ったら消されるぞっ」

一年の時に瀬尾くんと同じクラスだった、パンツは石油王の高橋くんが鋭く警告する。

「ハッ」

瀬尾くんは呪われたこけしみたいな邪悪な顔を作って鼻で笑うと、

「富を振りかざし周囲に圧力をかけるなど言語道断。やれるものならやってみるがいいさ、麗しの石油王サマ?」

と佐渡くんを真っ直ぐ見据えたまま言い捨てて、扉から離れ歩き去っていった。

「瀬尾!どこいくんだよ!」

廊下へ顔を出して高橋くんが叫ぶと「御手洗い」と短く答える声が聞こえた。


 「ク・ダ・ラ・ン」のたった四文字で、あんなに盛り上がって和気藹々としていた空気が散って冷え切ってしまうのだから、言葉の、それも負の感情の籠った言葉の力はとても大きい。たった一言がその人の1日を、場合によっては生涯を蝕むというのも頷けるな、と、散った空気を見て思う。

 自分が睨まれたわけでもないのに、なんだか鼓動が早くなって落ち着かない気持ちになるのは、私が小心者だからだろうか?「なんだあいつ」と怒りを露わにするクラスメイトもちらほらいて、身も心も不安になって小さくなってしまう自分の目には、やり場のない感情をエネルギーに変えて発散できる彼らの姿が少し羨ましく映った。

 逆に瀬尾くん側…あんな風に人を傷付ける悪意を持った言葉を投げかける側はドキドキしたり、不安な気持ちになったりはしないのだろうか。瀬尾くんもやり場のない気持ちを発散させたということなのだろうか。どうしてろくに話したこともない隣のクラスメイトにいきなり暴言をぶつけられるんだろう?

 そして誰より、負の感情を正面からぶつけられた側の佐渡くんはどんなにか悲しく不快な気持ちに…


「一理あるよね」

唐突に佐渡くんが真面目な顔で声をあげたのでみんなハッと彼の方を見る。

「今の…瀬尾くんだっけ?すごく真面目な生徒なんだろうね。前髪を見れば分かるよ。」


ん?


「さすが勤勉な日本人…心が姿に表れているよね。親父のボディガードの中にも以前日本人がいてさ…美しくまっすぐ整った前髪の持ち主だったんだけど、すごく真面目だった。一秒単位で時間に正確で、名前はなんて言ったかな…確かハマグチ…ハマグチだ!親父が冗談を振ると、それがどんなにつまらない内容でも毎度きっちり3秒笑ってくれてさ、懐かしいなぁ。」

急に始まった石油王思い出トークに、周囲が戸惑うのも全くお構いなしに佐渡くんは続ける。

「だから瀬尾くん…真面目な彼にとって、急に大切な授業が潰れて、さらに原因を作った張本人がヘラヘラ笑ってたら『なんて下らない人間だ!』って思うよね、学ぶ機会の損失に怒っちゃうよね、全く正しい」

深く深く頷く佐渡くんの姿に、あんなに刺々しい言葉に対して好意的な解釈過ぎないかなと苦笑いしていると、

「確かにあいつ…いつも圧はすごいけどあんな嫌味言うやつじゃなかった。確か隣のクラスは一限目日本史…瀬尾の得意科目…」

高橋くんが真面目な顔で呟いた。

 え?まさか佐渡くんのいうことは正しくて、瀬尾くんは勉強がしたくてしたくてたまらなかった…?さっきの嫌味は真面目さが暴走しただけ…?

広がる動揺の中、堀内くんがぽつりと呟いた。

「瀬尾はハマグチだった…つまり瀬尾グチ…」

ぶは!と数人が吹き出して一気に笑いが広がった。教室がぱっと明るくなってみんな怒りを忘れ「瀬尾グチなら仕方ない」「俺たちにも非はあったな」「私たちも真面目に生きなきゃ」などとふざけ合ってはすっかり元の賑わいを取り戻した。

「瀬尾くんを見習おう!」と爽やかに笑う佐渡くんに、「よっしゃあ!」「学ぶぞォ!」と次々に元気な男子の声が応える。「佐渡くんてさすが石油王というか、ちょっとズレてて面白いよね」「わかる天然」「天然油田」などと囁き合って女子が席につく。石油王一問一答大会会場だったはずの教室は、本来あるべき自習室へと変わった。

 すごい。油田を持つ者は言葉ひとつで場をも支配するのか。居心地の悪い心許なさから解放されて、ほっと安心しながら、教科書片手に堀内くんと談笑する佐渡くんの横顔に目をやると、ふと視線がかち合った。すると佐渡くんはゆっくりと、柔らかく、私に笑った。


 あ。


 佐渡くんは今、私を安心させようと笑った。なぜだろう、とても丁寧な笑い方だったからだろうか。それがはっきり分かった。そして多分佐渡くんは、瀬尾くんの言動を真面目な日本人だからと本気で好意的に解釈したわけではないのだろうということも分かってしまった。天然なんかじゃなくて、佐渡くんは人をよく見ている。よく見て、考えて、言葉をかけている。


 すごいなぁ。そういう技術とか心持ちは、やっぱり石油系のパーティとか、社交の場で磨かれたのかなぁなどとぼんやり考えていると、トイレからの帰りであろう、今話題の瀬尾くんが扉の向こうを横切った。ギロリとこちらを冷たい眼差しで睨め付けたものの、クラスみんなが席についている上に全員が胸の中で「瀬尾グチ…」と唱えながら生暖かい眼差しを送ったものだから、眉を顰めて何も言わずに隣の教室へと帰っていった。


 ひとまず争いの種は油田に沈んだ。

 

 ちなみに先生方が額を突き合わせて緊急職員会議を行なった結果、佐渡くんの金塊は校長室の金庫に保管されることになったとのことだ。(校長先生は金塊によってその身に危険が及ぶことを恐れて最後まで抵抗したそうだが、海外にいる佐渡くんの両親と連絡がつかず渋々受け入れたと、金塊の誘惑と重圧から解放された吉田先生がニコニコ話してくれた。)

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