彼は必死に走っていた。“ヒーロー”になる為に死に物狂いで走っていた。

 唯、“きつね”を守るためには走るだけだ。迷いは一切無い。

 

 “ヒーロー”になる恐怖で竦んだ足を、“ヒーロー”になる悦楽への欲望によって突き動かす。“ヒーロー”となったその先の未来を渇望して、足を機能させる。

 怯懦が蝕む心臓が、ドクドクと激しく脈を打っているのが分かる。今にも、吐きそうな苦しさの中で、鉛のように重たくなっていく足を無理矢理動かし続けた。

 駆けて、駆けて、駆け続けるのだ。


                ◆


 其処にいたのは紛れもなくソレだった。僕が求めたソレだった。

 僕を“ヒーロー”たらしめる“キツネ”だった。


 狐の周辺を人間が囲んでいるのが分かる。どいつもこいつも苛立って、殺気立っているのが分かる。自分の存在を上級であると信じて疑いもしないそんな表情。


けれど、俺が“ヒーロー”になって絶望を与える。皆に強者は誰かを理解させなきゃ。


駆けて駆けて、キツネを覆う。ヒトを体当たりで吹き飛ばして狐を覆う。


「よっしゃぁ!!!」


 咄嗟に、声が出た。

周囲からも「ナイス」とか馬鹿げた言葉が聞えてくるが、その全てを無視する。

声が遠くなるほどに、「お前、何してる!」「邪魔するな!」の声が聞えるけれど、全て無視する。


 どくり、と心臓が嫌な音を立てる。“悪人”になったという嫌な感覚を殺していく。そんな感覚に思わず、掴む手に力を込めた。


――もう大丈夫だよ。


――俺は“ヒーロー”だ

 

 弱り切ってしまって、生きているかも分からない狐に声を掛けて、駆け続けた。

 

                ◆


 両手いっぱいに食料を持った青年は、狐が目覚めるのを待って、窓の外を眺めて呟いた。

 狐と暮らすようになってからの毎日は、“ヒト”が“地獄”と称する世界だ。けれども、空は青く澄み渡り、小鳥が囀り、子どもたちが走り回る。そんな清々しい世界。

青年にとっての“日常”の世界。


 「あ!」


 見つけた人影に思わず、青年の声が弾む。彼の唯一の後輩で、親友の姿だった。

 偶に煽って来るけれど、憎めない可愛げのある後輩。

 常識人を気取っているくせに俺みたいな変人を面白がる相当な変人。

 いつもは感情が顔に出やすく、考えていることが手に取るようにわかる親友。

 

 けれど、今日は違った。今は違った。

  まるですべてを見透かしているような親友の目に少し居心地の悪さを感じる。

 「さよならしましょう!」

 

 感情を殺し、邪気に満ちた声で俺の呼びかけに彼は返してきた。


 「……なんや、あれ。」


 その声には、自分でも嗤ってしまう位の情けなさが乗せられていた。

 さてなんと返すかと、努めて明るい口調で話そうと考えている内に、拒否権は何処かに投げられてしまった。


 この世界を奪い返すつもりのはずだった。

 だのに、今の俺は、此奴にさえ裏切られた。

 

 ――裏切られた???


 みんなが分かってくれると勝手に期待して、此奴は俺の味方だと勝手に期待して、勝手に裏切られたと被害者面しているのは俺自身。


 なんて非力だ。なんて無力だ。結局、他力。一人では何もできていない。

 守れなかった。護れなかった。“ヒーロー”を演じられた?

 

 ――全てを諦めた。

 

 否、全てを受け入れた。自分の死を、確かに覚悟した。

 この覚悟は後になって、嫌というほど後悔することになるだろうか。その前にはこの“世界”を捨てているだろうか。否、捨てられているだろうか。


 唯一の親友にさえ、“悪人”にされた俺を一体だれが護ってくれるだろうか。

 誰がいる?誰もいない。

 どうして?“ヒーロー”になったから?


 嗚呼、きっとそうだ……。

 自分に甘く、自らの幸福の為だけに生きている“ヒト”が演じる“ヒーロー”になったからなんだ。


 ――ごめんな、キツネ。

 ――さよなら。

 

 親友から目を背け、青年はそっと、キツネを赤く染まった漆黒に染める。

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