第五章 未来のアジテーター

 聡祉は件の校長が運営する中高一貫校の最寄りの駅まで車で教授を迎えに来ていた。下見がてら、早めに着いてコインパーキングに車を止め、その辺を歩いてみた。

駅まで見通せる大通りがすぐ近くなので、あたりに喫茶店で一息でもつこうと近隣の店舗を物色した時である五聡祉は奇妙な事に気が付いた。

 喫茶店がどこにも無いのである。少し離れたバイパス沿いにはチェーン店のハンバーガーショップがあるが、この辺には一息着いて休める所が無いのである。ラーメン屋、居酒屋、ケーキ屋、パン屋があるのに喫茶店がないのだ。

こういう町を聡祉は初めてみた。

 やけに開けた駅前に比して何もない周辺地域。中高生が集まれそうな安い飲食店やゲームセンター、カラオケボックス等が皆無なのだ。確かにこうすれば、丸山秀樹の地元のように風紀が乱れずにすむが、これでは街の魅力が無いではないか。

 ショッピングモールは件の学校の通学路とは少し離れた所にあり、車か自転車では行けるが、徒歩では行きづらい所にある。そうか、こうして上手く生徒がトラブルを起こさないように地元の再開発にも力を発揮している訳か。なぜこう言った事までが必要とされるのか、聡祉は育った環境が違うので想像もつかなかった。

「聡祉くん?」

 瑛里華が声を書けた。見ようによっては一時期流行った「森ガール」に見えるが、見方を変えると多少野暮ったい服装だった。しかも胸が大きいので「森ガール」には見えないのだ。

「早いね、浦上さん。手伝ってくれて有難うね。この辺、喫茶店が無くて、落ち着ける場所が無いんだよね。」

「良いよ。ここで待ってようよ。」

「じゃあ暑いから車出してくるね。中で話してようよ。」

「うん、有難う。待ってるから。」

 聡祉は車をコインパーキングから出してきた。プリウスだ。聡祉の家らしい、合理的な選択をすると瑛里華は思った。

 瑛里華は軽く挨拶をして聡祉の車の助手席側の後部座席に座った。いずれ助手席には哲也か秀樹が座るだろうし、後部座席の助手席側なら南塚教授が来たら移動すれば下手に座る事ができるからだ。こういう事が、瑛里華は子供の時から躾けられているので染み付いている。

「ねぇ、あの校長先生どう思う?聡祉くん苦手じゃ無い?」

「そうだね。正直言って苦手だね。哲也や秀樹の向こう見ずのパワーが羨ましいよ。」

「でもあの校長先生、妙な色気っていうか人を惹きつけるものあると思うの。」

「分かる。それが俺は苦手なんだよ。なんていうか、色んなものが入り混じった人だから。なんていうか印象だけでこっちの脳がオーバーフローしそうなんだ。」

「なんと無く情報量の多い人よね。」

「うん。うまく言えないけど、魅力を感じるけど魅入られたく無い人ってごく稀にいるじゃん。人間って新しい世界を見せてくれる人の事を尊敬したりするけど、あの人が見せてくれそうな世界って、底が知れないところがあるような感じがするんだよね。南塚教授って、見せてくれる世界が平和的で穏やかなんだけど、あの校長先生に関わると深淵を見せられそうで怖いんだ。」

「聡祉君て、ニーチェ恐怖症だよね。」

「まぁね。あぁいう哲学はダメなんだ。秀樹は好きらしいけど、アイツらしいね。」

「ヨォ!なに二人で話してんだよ。アクエリアス買ってきたから飲むか?」

 哲也が突然最後部の座席のドアを叩いて外から話かけてきた。窓を半開きにしていたので声は聞こえた。

「あ、哲也君。先に高校に行ってきたの?」

 後部座席に座っていた瑛里華が話を始めた。

「そうだよ。先に行って先生達に挨拶してきて、軽く段取り確認してきた。それでもうすぐ秀樹と教授が来るってメールがあったから急いできたわけ。」

「じゃあ待ってれば来るね。」

「あぁ。しかし母校にこういう用事で来るって感慨深いものあるよな。」

「ねぇ、哲也君て、高校の時はどんな感じだったの?」

「真面目で浮いてたよ。今はだいぶ進学実績上がったけど、俺がいた頃は一番中途半端な時期で、みんな自分は頭が良いと思ってくるせに男はそれなりに自分を不良だと思ってるんだよ。まぁ確かに不良っぽいやつもいたけど、時代も時代だし、この制服だし。男は軒並み浪人だったよ。俺も一浪して大学入ったから。校長を悪くいう人は多いけど俺はそれなりに買ってたよ。反発を感じた時期もあったけど、今は雑音に影響されただけだったと思う。」

 瑛里華が少しぽかんとした顔で話を聞いていた。聡祉が会話を引き継いだ。

「今、浦上さんと二人でちょっとあの校長苦手だよねって話してたんだ。」

「あの校長が得意なんて人は滅多にいないよ。俺だって価値を認めてるだけで、別に得意なわけじゃ無い。批判するのは簡単だよ。お前の親父じゃないけど、政治家だって同じだろ。」

「昔、父さんが言ってたよ。誰かの業の深さは大勢の底の浅い欲望で作られる。それでもどうにか社会を動かすのが政治家だって。」

 普段、温厚で常識人である聡祉がこういう事をいうのは珍しかった。

「どうしたんだよ急に。」

「ちょうど昨日、両親から、この先進路どうするか、要するに、政治家になるのかならないのかっていう話をされてね。今んところ、アメリカに留学してからっていう話になってるんだ。だからつい、人の上に立つってどういう事かとか考えちゃって。」

「私ね、人の上に立つって、そういう事だと思うの。私のお父さんも老舗企業の社長だけど、それこそ色んな社員の困りごと聞いて回るのが仕事になる事もある見たい。それこそ取引先の子供の面倒見たりとか。お父さんは言ってたの。ドライでいられるのは世の中を動かしてない人間だけだって」

「僕の両親はドライなんて価値観はかけらも無いね。」

「私の両親もよ。お母さんなんて、過剰なくらい義理だ人情だ躾だうるさかったんだから。」

「俺の両親はドライで放ったらかしだったな。やっぱ環境が違うんだな。」

 時折、哲也や秀樹が漏らすこう言った環境の違いは聡祉と瑛里華には小さな棘が刺さったような印象を与えた。聡祉も瑛里華も、社会階層の問題で哲也や秀樹を傷つけないように気を使っていたが、逆に二人はそうした所が見られないのだ。かと言って抗議するわけにも行かず、時折いたたまれなくなる。

「秀樹が来たぜ。相変わらず目立つよなあいつ。教授と一緒にいると熊とゴリラみたいだ。」

 大柄で筋骨逞しい秀樹と共に、いつも通りのサスペンダーに大柄な体格をゆさゆさと揺らしながら南塚教授が歩いてきた。

「やぁみんな。お揃いだね。まぁ、そろそろ暑くなってきたから中で話そうか。」

「どうぞ。狭い所ですが。」

 教授と聡祉はいつもツーカーの関係であるため二人で物事を進める事が多い。

「先生方には挨拶を済ませてきたのかね?哲也君?」

「はい。久しぶりに見る面々でしたので、色々感慨深かったです。」

「そうか。丸山君はこれから顔合わせだね。」

「はい。当日になってしまいまして。」

「まぁいいさ。校長先生とはメールで大分打ち合わせてあるから。こういう時はプロレスラーの心情がわかるってものだ。さぁ、行こうか。」

 道すがら多少の確認事項をしながら一行は哲也の出身高校に向かった。やはり、居酒屋や焼肉屋があっても喫茶店がない。そんな疑問を聡祉が漏らすと哲也が答えた。

「まぁ、正直昔はロクでもない生徒が多かったから、そういう洒落た店はなかったね。あそこの茶色い建物、昔はビデオ屋で、要はエロビデオで成り立ってたんだ。こんな高校の近くでそういう商売するんだから大体この辺がどういう感じの所かわかるだろ。」

 この話をした時は既に校門の目の前だったので、これ以上は続かなかった。

 校門の前では幾人かの先生と、生徒会役員と思しき数名の生徒が出迎えていた。

 「あ、どうも先生!」

 先ほど挨拶したばかりだろうが、哲也が大きな声で車の中から声をかけた。

 「おう!」

 なんというか、気合の入った声で中年の体育教師らしき男性教師が返事をした。聡祉や瑛里華の高校ではこういう体育会系というか、現場作業員のようなやりとりは滅多にしない。

 聡祉は車を停車させて、男性教師に挨拶がてら車の止め方を一応聞いておいた。別の教師が駐車場で誘導するとの事なのでそれに従った。白衣を着ているのでおそらく理科系の教師なのだろう。車を止めると早々に教授が、

 「では出陣と行こうか。鬼の顔でも拝んでやろう。」

 と冗談半分で言うので空気が和んだ。 

 よく晴れた日の学校の校舎は学生時代を経験したものなら誰でもなにがしかの感慨を得るだろう。都会育ちの聡祉と瑛里華は、やたら見晴らしが効くこの校舎周辺の景色を新鮮に感じた。

 中に入ると、校舎は半分が立て替え中で、所々養生がしてある。一年生はプレハブ校舎で授業を受けているらしい。しかし、立て替えがある程度終わっている新校舎では、いくつかの階段教室があり、大きな講堂もある。どうやら今日のシンポジウムは体育館ではなく、最上階にある講堂で行うらしい。

 道すがら、ほとんどの教師が哲也と顔見知りなので、先導がてら哲也は方々で挨拶をしていた。どうやら先ほどの体育教師らしき男性は教頭職にあるようで、校長室までの案内はこの教師が行なう手筈になっているらしい。

 校長室に一行が到着した。さて、この中で、校長と面識があるのは哲也と秀樹だけである。哲也は特に緊張していないが、それ以外の者はある程度の緊張が避けられない。哲也はそう言う事には鈍感な方らしく、特に気に留める様子もない。

 体育教師のような教頭が校長室のドアをノックして声をかけた。

「校長先生、シンポジウムの打ち合わせの件です。石渡君、並びに南塚教授とゼミの皆さんをお連れいたしました。」

「どうぞお入りください。」

 やけに声が綺麗で多少芝居掛かってもいる。多少ハイトーンでありながら独特の品とわざとらしさが同居するのがこの校長の振る舞いであり、なんとも言えない距離感を相手との間に作りだす。

「おぉ!よくぞいらしてくださいました。」

校長の芝居掛かった歓迎に南塚教授が恭しく挨拶を返した。

「こちらこそ、ご活躍はかねがね伺っております。」

 中年男性同士の挨拶というのは独特の様式というか、日本の男性文化というのは美しさや洗練よりもへり下ったり滑稽だったりといった雰囲気を出しながらも、野暮で有りすぎては行けないという微妙なバランスで成り立っている。いつになったらこういう様式を身に付けられるのかと、ここにいる若い世代は皆疑問に思っていた。

「さぁさぁ、後ろのみんなも、中に入って、校長室でゲストになるというのはな、なかなかある経験じゃないぞ。」

 どうやらアテンドをしていた教頭は別の仕事があるらしく、ここで哲也に別れを告げた。

「では、私はここで。石渡、しっかりな。あとで打ち上げでな。」

「はい。ありがとうございます。じゃぁまたあとで。」

 哲也は教頭とそう会話すると一行を中に招き入れた。

「失礼致します。この度はご光栄にあずかりまして恐縮です。村上聡祉と申します。」

 校長の軽口をうけて聡祉は愛想笑いをしながら切り返した。

「浦上瑛里華です。」

 とりあえずは女らしく短めに挨拶を済ませた。瑛里華としては聡祉や南塚の付き合いで来ているので、あまり自分をアピールする事もないだろうと考えた。二人も校長と初対面だったのでここで挨拶を軽く済ませた。

 ソファーに皆がゾロゾロと腰をかけ、座る場所や資料などを準備したりしている間、校長はうまい具合に会話を挟んだり合いの手を打ったりする。人を退屈させない人だ。ひと段落した所で校長が話を始めた。

「それでは皆さん、準備が出来た所で今日の講演の趣旨を再度確認いたしましょう。この辺りは、古来から武蔵と呼ばれる地域の農業生産の中心地でありました。水がそこまでないが故に、米はそこそこでありましたが、そのほかの農作物、麦や根菜など、豊かな恵みをもたらす地域でありました。しかし、その水が少ないという所がこの地域に悲劇をもたらしました。」

 やけに丁寧な言い方とをすると聡祉は感じた。高い声で名調子なので、まるで語り部のようだ。ここで校長は話をする対象を明確に若い世代に向けたと見えて、砕けた話し方を始めた。恐らくこれも意図的な演出の一つだろう。

「何もな、干からびて死ぬとかそういう事が心配なのではない。用水権の争いというのはな、これは農業をやった事のない者には到底わからない。豊かな水のない所の農業というのはな、水のある所に比べると倍は大変だ。土を毎日耕す。毎日水をやる。草をむしる。堆肥を混ぜる。こんな事がな、水がないだけでどれだけの手間になるか。」

 校長の会話のブレスをきっかけに南塚教授が話し始めた。

「校長先生、私の叔父が長野で農業をやっておりまして、稲作なのですが、そんな所でも用水権の争いや、意見対立は深刻ですよ。あればあるだけ使うのが人間ですからな。しかしおっしゃる通り、稲作と畑作では必要な人出が違いますからな。低地の平野は人が集まりやすいし移動もしやすいので、この辺りでは様々な交流がありながらほんの僅かな違いで驚くほどの政治的差異が生まれますね。」

「えぇ、まさにその通りです。水の多い川と少ない川の流域では風土が違いますからな。低地と高地でも違います。地政学から郷土史を見直すと、非常に面白い知見が得られますな。」

 地政学のような戦略的な政治学はこの中では得意としているものがいないと聡祉は考えていたが、この後、理科系である秀樹がこの話に乗ってきた時は意外に感じた。あとで考えれば、彼は幅広い教養があるし、古武術を学んでいるので、兵法の基本を知っているのは当然といえば当然だった。

「地方の神社仏閣に行くと、大抵ある程度の高台にあるわけですが、木の生え方一つで、どこを監視対象にし、どこをそうではないと考えているか直ぐに分かりますね。」

 校長が話に乗ってきた。相変わらず高い声で抑揚がやたら効いた調子だった。

「良いところに気がついた。しかしな、監視されているからといって貧乏かと言われるとそんな事はない。特に昭和の土地開発が盛んだった時期にかなり土地で儲けたものがいるからな。それに武士の子孫は土地にこだわるからな。公共への貸借以外には中々土地を使わなかったりもする。富農が多いところもそうだ。昔から武士なんていうのは案外貧乏でな、これは江戸幕府の政策なんだが、ディバイド・アンド・ルールというイギリス伝統の統治方法でな、法律をわざと守れない状態にして、いつでも当局の腹づもりで検挙できるようにしておく。そうするとな、不信感から対立が生まれる。賄賂も横行する。こうして反乱を防ぐというわけだ。権力者はかならずこの方法を使う。しかしな、室町幕府までは、せいぜい京都周辺しかこの政策はなされなかった。わしはな、おそらくウイリアム・アダムスこと三浦按針がこの政策を全国規模で行う事を徳川家康に提案したのではないかと考えている。」

 話が歴史的な方向に逸れてきたので南塚教授が話を戻した。

「校長先生、その辺りの話はまた打ち上げでしましょう。」

「おぉ、すみませんでしたな。つい私の研究分野に話を寄せたくなりまして。」

 聡祉が教授の意を汲み取って資料を展開した。

「一度軽く資料を元にお話を擦り合わせましょう。」

「ほう。話をすり合わせるなんて、中々含みのある言い方をするじゃないか君は。」

 校長は聡祉が政治家の息子である事を知っていて揶揄(からか)った。

「週刊誌に売ったりするのはやめてくださいよ。」

 相変わらず聡祉は非常にうまく受け流す。

 哲也が資料をまとめていたので哲也から全員に議論のたたき台となる冊子が配られた。といっても教授も校長もその道のプロなので、教授と校長にヒアリングをして哲也が作った物だ。

 哲也が資料を元に今日のシンポジウムの趣旨と流れを軽く説明し、シンポジウム中のそれぞれの役割を確認した。哲也や資料を壇上に持って行ったり片づけたり、時間を知らせたりする係、秀樹は壇上で司会。聡祉と瑛里華は外で受付をする。学生だけではなく一般の参加者や保護者も来るからだ。

 聡祉としてはこの役割で良かったと思っていた。正直、聡祉としては学者になるにしてもジャーナリストになるにしても、大学院生としては十分な実績があったし、特にこのシンポジウムにコミットしたいとは考えていていなかった。それに中年男性の話を聞いているよりも、瑛里華と話している方が気が楽だった。

 シンポジウムが始まると、背後で秀樹の前口上を朧げに聞きながら、聡祉と瑛里華は雑談をしていた。

「やっぱりあの校長ってイメージ通りの曲者ね。陰謀論と郷土史って私の中では最悪の組み合わせなの。」

 瑛里華はいたずらっぽく聡祉に話を振った。

「そうだね。僕も関わりたくない話ナンバーワンとツーだね。その次が男女論だね。」

「私も。フェミニズムの事って学会にいると色々耳にするけど、なんか片手落ちって感じがするのよね。」

「その言い方は差別的だよ。伊達に左翼政治家の長男やってないから。」

「ねぇ、聡祉君は本当に政治家になるの?正直、これからの左翼にはあんまり芽がないような気がするの。ジャーナリストか学者の方が向いてるんじゃない?」

「個人的にもそう思うけど、多分、両親の支持者があとを継いで欲しいみたい。衆議院と参議院で同じ地区だから、人間関係が濃密すぎて困るよ。まぁ、慣れてるけどね。」

「聡祉君て、よくそういうの平気でいられるよね。トゥルーマン・ショーっていう映画あったけど、聡祉君が主人公だったらきっと何も起きないまま映画終わっちゃうね。」

「僕もそう思うよ。僕があの立場だったらあの世界から脱出したかどうかは疑問だね。」

「今の状況から脱出したいなんて思わないんだ。」

「まず思わないね。」

 瑛里華は少し間をおいて話始めた。

「私、実は院に行く事自体が両親の反対を押し切ったの。だから家の中で風当たりが強いの。院の借金もあるから、この後、大変だなって思う。」

「じゃあ僕と結婚したら?」

「え?」

 流石にこれは瑛里華も予想外であったようで面食らったが、それでも満更ではなく、表情と声に嬉しさが滲み出ている。元から彼女はそう言うつもりの長期戦略で話を始めたがこんなに早く戦果が得られるとは思っていなかった。こう言うところが聡祉の頭の回転が早い証拠であるのだが、ナンパ師の類に良く似た才能でもある。

「やっぱり浦上さんとは話していると落ち着くね。環境が似てるし、分かり合えてる感じがちゃんとする。時々、哲也や秀樹とは距離を感じるんだよね。」

「私も…!」

 随分大事な話と友人同士の人間関係の相談を同時にするので瑛里華は戸惑った。だが、そう言うこと、つまり育った環境や社会階層が聡祉には大事なのだろうとすぐに思い直し納得した。

「ごめんね。こんなロマンも何もないプロポーズで。でもこう言うことは、あとで機会を伺っていると気まずくなると思って今話したんだ。ねぇ、よくいる政治家の妻にはさせないから、あとで少し落ち着いてちゃんと付き合ってみない?」

 まだ二人はセックスまでの関係には至っていなかった。大学院進学する前まで二人とも別の交際相手がいたからだ。特にその後、焦って交際相手を探すことはしなかった。少なくとも聡祉は。

「今のって、プロポーズだと思っても良いの?」

 当然、瑛里華は疑問に思う。

「一応そう思ってもらって良いよ。でも、まだ二人は互いの事を深くは知らないでしょ。だからちょっとスペースを置いて考えよう。でも二人共、もう良い歳だし、真剣に考えないといけない時期だと思うんだ。家族の事もあるし。」

 合理的で理性的な説明だが、言外にセックスを暗示する事で彼女の本能的な部分を刺激した。それと同時に将来の展望と、相手の家族を気遣うそぶりを同時に見せる。それでいて相手と距離を保ち、どうとでも取れる状態にしておく。特に意識して行った訳ではないが非常に効果的な方法だ。意表を付いて相手をコントロールし、セックスと社会的ステータスを匂わしながら女性の本能を刺激する。何につけてもこう言うことが聡祉には自然にできるのだ。特に悪意も作為もなく。結婚詐欺師がよく使う手ではあるが、これを善意と捉えるか利己心と捉えるかは価値観によるだろう。

 瑛里華もここで感情を顕にはしない。しかし勤めて冷静でいようとするが、刺激された動物的な本能は表情から隠し難かった。聡祉はそういう女性の表情を見て気圧されたりはしない。

 突然、会場から大きな拍手が聞こえてきた。秀樹が教授を紹介したのだろう。話の内容まではここからではよくわからない。後ろか哲也の声がした。

「ご苦労さん。二人共。ここ、開けとくから。そうすれば話が聞こえるだろ。」

 哲也は二人に気を使って、会場の二重ドアの一つを開けておくそうだ。そうすれば講演の内容が聞こえるだろう。二人共、後学の足しになるだろうとの気遣いだ。

 はっきり行って、余計なお世話この上ないが、まさかここでプロポーズをしているとは誰も予見できないであろう。秘め事を他人に見られたような気まずい感じが二人を支配した。特にさっきから意表を突かれっ放しの瑛里華は動悸が激しかった。赤面しては変に思われるだろう。なぜ男というのはこう何事も平和に進める事が出来ないのであろうかと瑛里華は心中複雑な心境であった。

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