第二章 未来の反逆者


 さる郊外の地域では、東京まで電車で1時間もかからない距離であっても、未だに農業が盛んである。当然といえば当然の事で、東京の人口全ての食料を茨城や群馬から運ぶわけにも行かず、人口は集合住宅で密集させてしまえば農業用地を確保する事は容易である。さて、そう言った地域には独特の匂いがある。土と水と肥料の混じった匂いである。

 そして地域によってはであるが、未だに汲み取り式便所のバキュームカーがくる匂い。月に一度の汲み取りの日の匂いは流石に不快な日もあるが、人が生きる以上、止む終えないだろう。

 こう言った地域においては歴史的な問題を抱えている事がある。

 地主と小作農、用水権の争いで川の上流に住む住民と下流に住む住民、川のどの流域に住むか、流域の土地は高いか低いかによって起きる水害への脆弱性の違いから治水に対する利害対立、新住民と旧住民の対立。平和な日本であってもこう言った対立はすぐには無くなる事は無かった。と言ってもせいぜい地方議会での対立くらいなもので、多くは穏便に話し合いで結論が出るが、中にはどうしようも無い遺恨が絡む物もあり、地方の政治と呼ぶべき洗面器の中の嵐は、時折この密接した人々の心情に忘却し難い過去の残渣を積み重ねていった。

 この地域では、以前、陰惨な事件が起きた事があった。昭和の中頃であったが、帰宅途中の女子高生が何者かに誘拐され無残に殺害された。この事件に歴史的な対立が絡んでいたとマスコミは囃し立てた。聡史の両親もこの件に善意と精力を持って取り組んだ。

 事実だけを見れば確かに歴史的な対立に全ての問題を帰する事は出来ないだろう。犯人に関しては冤罪の説もあり、犯人の教育水準が低かった事も取りざたされたが、妙に誤字が多い脅迫状もその気になれば誰でも偽造できるものだ。

 しかし、この田舎の心情の全てが密集した地域から這い出ようと懸命にもがいた少女が無残に殺された事実は変わる事はない。

 この地域の小地主の家系の生まれで、ヤクザ絡みの商売、もっといえばかなり昔から売春や酒場に場所を貸す事で生計を成り立たせていたある一家があった。

その家の次男の名を丸山秀樹と言う。本小説のもう一人の主人公である。

 彼、丸山秀樹の父である東一郎は、世俗の垢にまみれた卑小な小地主の家に生まれた事を心から憎んでいた。大地主程に金があるわけでもなく、自分で商売をするわけでもなく、小さな建物数軒分の土地を切り盛りする為だけにある時は棚子に返済の為に売り上げの差し押さえを強い、またある時は借金を強要した秀樹の祖父に強い嫌悪感を感じていた。

 駅に近すぎる上に土地が入り組んでいる為、再開発の対象地にはならず、かといって旧来からの土地柄の悪さも相まって他の用途にも転用できず、田舎の安娼婦を抱える面倒はすべて店子に押し付けてきた。

 東一郎はこの無為の収入源を基盤に、自分で商売を商う事を思いついた。初めは小さな飲食店から始め、徐々に数件に増やした。家柄、土地柄を気にしてか、はたまた銀行への不信感からか、大きな融資を受けての事業拡大には手をつけず、代わりに手を出したのが、祖先から馴染みの売春業だった。東一郎は決して売春業それ自体を見下してはいなかった。10代の時、女を知らなかった東一郎に筆おろしをしたのが棚子の一軒のソープランドで働く女性だったからだ。

 しかし当然、悪どいポン引きのやり口は知っていたし、そういったところで働く事で精神を病んだか、はたまた元々そういった気質に生まれついたか、のっぴきならない状態になる人も多く見てきた。それでもこの商売に手を出したのは、いずれ経済が成長すればいくらか不条理は緩和されるだろうと言う見通しと、人類最古の職業に対する敬意と希望を捨てきれなかったからだ。

 高卒で学が無かった東一郎は、二人の息子には早くから塾に行かせ、学を付けさせようとした。根性のひん曲がったヤクザまがいの小地主の気質を自分の代で改めようと、妻には多少気が強く険のある女でも毅然とした相手を選んだ。二人の子供には剣道を習わせた。こうして長男の秀松は国家公務員試験一種の厚生労働省官僚に、次男の秀樹は大学院で生命科学を学ぶ次第となった。

 秀樹は子供の時から理科や数学が得意だった。何事もはっきりと答えが出る数学が好きであったし、簡潔であればある程価値を認められる理科系の価値観が性に合っていた。兄の秀松とは仲も良く、歴史や政治、少々の文学と幅広い興味を持った兄とは互いに無いものを補い合うように刺激し合った。

 もはや父の事業はただ放っておけば良い様なものだった。二人の息子はと言えば、結局は社会の上流にいた方が何事にかけても良いと言う一家揃っての判断から、それぞれの能力を存分に伸ばしていった。

 秀樹は聡祉と同じ大学に通っているが理系は校舎が離れており、神奈川に近い田園都市に毎日通っていた。同じサークルの活動拠点がキャンパスごとにあるサークルであった為、聡祉、徹也、秀樹は同じサークルの顔なじみだった。秀樹は普段通っているキャンパスが二人とは異なるが、サークル自体が週に一回の合同練習で共に汗を流す事で校舎を超えた繋がりを作る事を目的にしている為、精神的に距離を感じる事は無かった。

 秀樹は哲也と境遇が似ていたが、使う路線が違っていた為、あまり互いの土地の事を始めは知らなかった。埼玉ではありがちなのだが、東京に行く路線だけやたら種類が多く、路線が違うと殆ど交流する事が無いのだ。

 秀樹は埼玉では相当名門に属する高校に行っていた。男子校なのだが私服校なのでそれなりに洒脱でもある校風で育ったせいか、男同士特有の気楽な関係には慣れており、人馴れした様子はサークルでも目立つ存在になっており、理系校舎の支部長という一応の役割を背負っていた。まぁサークルの支部長など特に大した仕事があるわけでもないのだが、こういう役割は押し付けられやすいタイプと、できたらやってほしいと周りに思われるタイプがおり、秀樹は後者だった。

 剣道の実力だが、秀樹はサークルの中でも随一だった。高校時代は文武両道の名門高校の大将だった。今でもサークルの練習では歴代の支部長よりも早く格技場に行き鍵を開け、一人でひたすら素振りを繰り返していた。趣味で空手や古武術、総合格闘技を習っており、筋骨は逞しく、自室で日々、武術の基礎鍛錬を怠らない事もあり、独特の筋肉のつき方をしていた。

 「手に持てるものはどんな物でも武器にできる様に」と古武術の師匠が日々教えているので、椅子であろうが傘であろうがどんな物でも武器としての使い方を身体で理解できるのだが、以前それをサークルの新歓で女の子に言うと「すごい!忍者みたいですね!」と言われそれ以降彼女はサークルに顔を出さなくなってしまったので、あまり普段は武術の事を言わない様にしている。

 生命科学に興味を持ったのは、身体と精神の関係に興味を持ったからだった。医学を志すという方法もあったが、自分はただ生命の根源を探求する方が性に合っていると思っていた。生理学の様な方向にも興味はあったが、人間の体というのは単細胞生物、多細胞生物、線虫、魚類、両生類、爬虫類、哺乳類と後から少しずつ機能を足していってできたものだと高校の生物の教師が言っているのを聞いて、そう言った生物の根源の単位から人間を見ていきたいと考える様になったからだった。

 他にも高校時代から兄の影響で哲学や歴史、文学にも興味を持っていた。恵まれた高校生活があった為、若い時代から積み重ねた読書の堆積と日々の心身の鍛錬が、自分を将来どういう人間にするのだろうかと考えて胸に希望の光が灯るのを時折感じていた。

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