第97話 甦る野望

 冴子はクラブヌーベルマリエと中川の店、二つの店のアドバイザーになった。

 中川の店の名前は「ラ・ノービア」という。ラ・ノービアのフロアに入った時、冴子は不思議な感覚を覚えた。初めて入ったはずなのにこの店の設えは、壁のクロースの模様、テーブルの色、形、配置から絨毯の色、歩いた質感に至るまで、冴子はどこかで経験したような気がした。


 記憶は漠然としてどこだったのか、いつだったのか。思い出すことは出来なかった。開店前のがらんとした店内で冴子は、4番と書かれた席に座ってみた。

 ビロードの生地でできた椅子の感触が体に伝わってきた。見上げると何本もの氷柱が垂れ下がるような形をしたシャンデリアのガラスが橙色に光っていた。


 冴子はシャンデリアのある店の席に付いた時のことを微かに思い出した。

 高校を卒業した冴子は故郷の清水(静岡市)を後にして、頼る人もいない東京に向かった。

 住む所も決待っていないその日の午後、丁寧に書いた履歴書をバッグに入れ、銀座のBAR の扉を押した。


 出てきたのはチーフバーテンダーだった。バーテンダーの胸には鈴木と書いたネームプレートが見えた。静岡に多い鈴木の姓を見て冴子はほっとした。冴子が暮らした清水には鈴与という会社がある。全国の港に支店を持つ巨大企業である。静岡県には自動車や楽器の有力企業があるが、鈴与もそれらの企業と同様に毎年、地元の学校の卒業生が就職した。冴子の父も鈴与の社員だった。同僚には鈴木姓が多かった。


 チーフバーテンダーの鈴木は「ママはあと30分くらいしたら来るからね。それまでここで待っていて」と言い4番テーブルを指さした。

 ビロードの椅子と濃紺の絨毯の感触が別世界に来たように感じた。見上げるとシャンデリアが輝き、星空のように見えた。

 鈴木が出してくれたオレンジジュースのグラスには、シャンデリアの橙色の光が映り、テーブルの上にも星が散らばっているように見えた。


 この豪華な設えの店に田舎者の自分が座っていていいのかと、冴子は不安になった。

 ママが現れ、履歴書の入った封筒をテーブルの上に置いたママは「ここ銀座はね、やる気が有る者だけが生き残れる世界よ。あなたは川に浮かんだ死体も見て笑っていれる?」と言った。

 冴子は背筋が凍りついた。返事をしようとしたが唇だけが動き声は出なかった。

 ママは「この履歴書は開かずに預かっておくわ。一週間経ったら見るわね、開かずに返した時はそのまま他の店で使って」と言った。


 これは一週間の試用期間を与えられたことを意味する。銀座は履歴書など用をなさない世界である。川に浮かんだ死体を見て笑っていれる人など居るわけがない。

 だがそれくらいの根性と覚悟が要る世界である。


 一週間後ママは「支度金よ取っといて、ウーさんに感謝してね」と言った。

 冴子は試用期間に合格した。だが合否の採点をするのはママが信頼するお客さんであった。冴子はウーさんと呼ばれた人の席に数回ついた。

 ウーさんが「いい子じゃないか、使ってみたら」とママに言ったに違いない。

 銀座の採用試験とはこうして行われる。

 支度金が払われたら正式採用であり、同時に売り上げの目標を示される。

 一週間後「冴子さんあなたは週給でいいわね。○○万円よ。仕事が出来なかったら履歴書を返すわ。それを持って他へ行くといいわ」


 ラ・ノービアの4番のシートに座り、冴子はあの日のことを思い出していた。

 クラブヌーベルマリエではこんなやり方はしなかった。銀座のBAR が無くなった今、こんなやり方で付いてくる子など居るわけがない。冴子は冴子流でやりうまくいっていた。

 だがラ・ノービアにはどんな子がいるのだろう。

 噂ではタレントと呼ばれているらしいが、ホステスらしい仕事をしているのだろうか。


 中川の話では店長はグランドマネージャーと呼び、佐伯という人が務めているという。

 グランドマネージャーの下にはサブマネージャーが二人とバーテンダーが一人、厨房に一人、会計に一人計6人がいる。

 時間は5時になっていた、佐伯は未だ現れない。サブマネージャーも会計担当者も厨房担当も誰も現れない。店の鍵を開け冴子を案内した中川の部下はこの店の運営にはタッチしていないらしい。冴子一人を残して出て行った。


 開店は7時である。ホステスは開店前、30分ほど前に出勤すればいいとして、準備の時間はどうしているのだろう。

 1時間以上待たされ、サブマネージャーと厨房担当の男が現れた。

 冴子を見たサブマネージャーの一人が「グランドマネージャーは1時間くらいしたら来るから履歴書を持ってそこで待ってな」と言い厨房を指さした。

 厨房の男は「そんな恰好で仕事はできないだろ、早く着替えて開店の準備をしろ」と乱暴な口調で言った。


 冴子が中川に依頼されたのはホステスの教育である。だがその前に運営社員の教育が必要に感じた。


 7時になり、タレントというホステスたちが少し入ってきた。冴子を見ても気にする様子もなく、客席に座り化粧を始めた。それから30分ほど経ち、ようやくほぼ50人のホステスが揃った。


 なかなか開かない「ラ・ノービア」の前には10人ほどの人が開店を待っていた。12月半ばの夜8時は結構寒い。サブマネージャーがドアーを開けると同時に寒さをこらえて待っていた客たちがどっと店内に入ってきた。案内される様子もなく客たちは勝手に席に座り、「ビール」「レモンサワー」と注文を言い、ホステスたちが注文のメモを持ってカウンターに押し寄せた。

 たった一人のバーテンダーの男は簡単に出せるビールから、ホステスたちに手渡した。


 もう何もかも店の体をなしていなかった。あまりにもひどすぎる。

 自分をこの程度の店にふさわしいと思われたのだろうか、冴子はアドバイザーを引き受けたことを後悔した。こんな店に関わりたくないと思った。

 悔しさがこみ上げてきた。


 冴子は泣きながラ・ノービアを出た。クリスマスソングが木枯らしに消されながらカサカサと、落ち葉を踏むような音に聞こえた。


 マンションに戻ると敦也のBMWは未だ帰っていなかった。

 B3-405のメルセデスは埃を被っていた。冴子は久しぶりにメルセデスのスターターボタンを押した。シュルシュルと回るスターターの音の後に低く唸るような音を出し、メルセデスは目を覚ました。シートから伝わる微かな振動は、冴子を慰めるように響いていた。


 冴子のメルセデスは首都高速を走り続けた。東京タワーが赤く輝き、レインボーブリッジの下には柳橋を出た屋形船の灯が浮かんでいた。お台場の公園前で車を止め、鳴っていたオーディオの音を消した。静かになったメルセデスの窓から鈴与の倉庫が見えた。

 菱形を4個並べた鈴与のマークが懐かしく、優しく冴子を10年前の自分に引き戻した。

 助手席に置いたスマホが鳴っていた。見ると敦也であった。

「今帰ったけど食事は済ませたか?オレはもう食べたけど」

 クラブヌーベルマリエのアドバイザーを引き受けてから、敦也と食事をする機会は少なくなっていた。

「まだだけど大丈夫よ、でも少しは食べられるでしょ。何か買って帰るわ。一緒に食べましょ」

 マンションの地下に蘭のシルバーのメルセデスが帰っていた。

 翔馬がいる事は予想ができた。「ふふふ、蘭さんと翔馬はうまくやってるわね」


 冴子と敦也は冴子が買ってきた唐揚げでワインを開けた。

 久しぶりに敦也と飲み、程よく温まった冴子の体は敦也を求めていた。

 冴子は先にベッドに入り敦也を待った。

 敦也は必死に冴子の要求に応えたが今日の冴子は燃え滾っていた。敦也の散発銃で満足できる訳がない。弾倉が尽きるまで求め続けた。


「おい、今日はどうしたんだ、オレはもうダメだ」

 言い終わらぬうちに敦也はもう眠っていた。


「そうだ、2年前はこの窓から俊介に見せて私も楽しんでいたわ、あいつは萌音と上手くやってるのかな」冴子は俊介のマンションの窓を見た。窓は暗かった。「今日は見れたのに馬鹿なヤツ。隼人と杏里もそうよ、隼人は受験で勉強ばかりしてると言ってたから、杏里はきっと欲求不満が溜ってるかもね、明日みんな呼び出してやろう。

下の階の蘭と翔馬は朝までやってるのかな。蘭の顔を見てやろう。

ふふふ、明日が楽しみだわ」


 昔の銀座のBAR を甦らせる使命を帯びた冴子に、昔の冴子が甦った。

 冴子の乳房がピクリと震えた。

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