第96話 就任要請
冷たい風が木の葉を運び、ジングルベルも聞こえてくる季節。クラブヌーベルマリエの冴子の元へ再び、新東西プロダクションの中川が訪れた。中川は1か月前に、自称「タレントがお相手をする店」をオープンさせていた。派手な「タレント募集」のキャンペーンが功を奏し、50席100名の収容客に対し、ホステス100を抱える大型店であった。キャンペーンに踊り、集まっ女だけでなく、タレントに相手をしてもらえると信じた男たちをも集める効果があった。
男たちは「自称タレントのいる店」にキャバクラやガールズバーと呼ばれる「女性が相手をする店」とは違う「何か」を期待し、連日新しい店のドアーを押した。
若い自称タレントたちはホステスの意味さえ知らされないまま、男たちの相手をした。素人の女たちと客との間には大きな意識の差があった。客と店の意識の差はもっと大きかった。
「こんなに値段は高いのに触らせもしないのか!」
「どこがタレントなんだ、素人以下だ!」
「こんな店二度と来たくない!」
「早くつぶれろ!」
客の言うのももっともである。女たちは自分がホステスであるとは思っていなかった。客の相手をするのも演技の練習のつもりなのだ。
タレントになれると思った契約が実は、ホステスの契約だったと知った女たちは中川に不満をぶつけた。
「体を触られました」
「こんな契約をした覚えはありません」
「タレントになれると言ったじをないですか」
怒った女たちは次々と去った。しかしタレントを夢見る女たちは次から次と現れ、
契約した女の数は500名を超えた。
これほどの数の素人をどう指導しようというのだろうか。
かって、素人を売りものとした店が存在した時代もあった。高級クラブ、高級バーと呼ばれる店が銀座にあった時代は一方で、大衆キャバレーと呼ばれる店の全盛期でもあった。
銀座のクラブ、バーと並び高級店の代名詞であった赤坂のキャバレーも、高度成長期の終焉とともに姿を消し、代わって台頭してきたの大衆キャバレーであった。
大衆キャバレーは低料金と、高級キャバレーを模したダンスやショーを行い、高級キャバレーを知らない者たちをひきつけた。
やがて大衆キャバレーは風営法の大幅改正施行ともに勢いを失い、追い打ちをかけるように襲ったリーマンショックで多くのキャバレーチエーンが撤退、廃業に追い込まれた。
資金力に劣る非チエーン店はお色気路線に走り、「キャバレー」イコール「大衆お色気店」の時代となっていた。
お色気キャバレーは「ピンサロ」と呼ばれるようになり、ここにキャバレーは完全に消滅した。同時にホステスと呼ばれた女たちも消滅した。
ホステスの消滅は、素人パブ、外国人パブ、女子大生パブ、などと呼ばれる店が生まれる基となった。
銀座の高級クラブ、高級バーは日本経済の浮沈と軌道をともにした。
バブルの崩壊、リーマンショックが経済界に与えた影響は、銀座の女たちをも飲み込み、外濠の流れのように銀座から消えた。
銀座、赤坂を去ったホステスたちは各地に散り、店を持つようになった。蘭もその一人であった。
銀座並木通リを歩くと〇源ビルという建物がたくさんある。10棟以上ある〇源ビルの店子は全てバーであった。7丁目の〇源ビルに残った最後の店に冴子がいた。
冴子がいた当時はすでに、他のバーは無くなっていたが、微かに残る銀座の香りの中で冴子は育った。
冴子はN製紙の馬場氏の支援を受け、赤坂に小さな店を持ったがわずか一年で終わった。
冴子が銀座と赤坂に抱く想いは今も変わらない。恩返しのつもりでクラブヌーベルマリエのアドバイザーを引き受けた。その冴子の前に新東西プロダクションの中川が現れた。
中川はさも当然と言わんばかりの口調で言った。
「冴子さん、早く来てうちの子たちを指導してください」
「早く来て下さい」と言われても冴子は中川と契約をした覚えはない。
「早く来て下さい、とはどういう意味ですか?」
「前に一度いいましたよね、うちの会社にはタレントの卵がもう500人います。来春に赤坂に一店、夏には銀座に一店オープンさせます。銀座と赤坂を私の会社が完全復活させます。冴子さんあなたも同じ思いでしょ。だからあなたの店と同じビルにオープンさせるのです」
来春 赤坂に完成する安藤のビルに中川が、入居申し込みをしていることは冴子も遠山から聞いていた。
実は中川の言うことは冴子も考えていたことであった。
クラブヌーベルマリエが繁盛したとしても、銀座と赤坂が昔の輝きを取り戻すことは出来ないのだ。
どのような業種でも競い合うものがいて、お互いが発展する。規模が近い中川の店とクラブヌーベルマリエは、理想のライバルに見えた。
中川は続けて言った。
「私の店の支援者に○○銀行の頭取のSさんがいます。Sさんはあなたのことを大変高く評価しています。私はSさんに言われました。あなたを指導係として迎え入れるようにと」
○○銀行の頭取Sさんは、クラブヌーベルマリエにとって大切な客である。
そのSさんが冴子を中川に推薦したのは、昔の銀座を知る冴子にはすぐに理解できた。
銀座のバーが全盛のころ、日本の銀行は必ず銀座に贔屓の店を持っていた。
A店は○○銀行、B店は○○銀行と分かれていた。さらに頭取クラス、取締役クラス、部課長クラスと分かれ、他の銀行幹部との鉢合わせ防止が出来た。銀行幹部を招待する企業は同業他社と会うことなく、午後7時の会議室の目的が達せられた。
都市銀行は勿論、地方銀行も同様であり、銀座の店は銀行と深い繋がりを持っていた。銀座では突然の見知らぬ客を店が喜ことは無い。銀行幹部の知らない客を客に
してはならなのが銀座の流儀であった。
今はその店もない。銀座の復活を願う者にとって今は、一店でも多くの店が出来ることである。冴子が中川の要請を断る理由がなくなった。
明るすぎるネオンに隠れた星を捜すような、冴子の旅がまた始まった。
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