第95話 出来ては消える儚い命たち

 ベルリンの紗矢子からカデンッアの作曲を依頼された萌音は、ピアノの前にもう5時間も座っている。5時間の練習は毎日続けているが、音の出ない5時間は初めての経験である。引き受けてはみたものの全く構想が沸いてこないのだ。ピアノの前に座りポーンと一音叩いてみた。だが次はどこを叩けばいいのだろう。指だけは無駄に空を切り、また膝の上に手を置いた。


「いつまでも座ってないで外に出てらっしゃい!」母 幸恵の声に萌音は我に返った。考えれば考えるほど脳は畏縮して思考を狭める。やがて点となり、思考の外に消える。

 働きを止めた脳は安息を求める。

 河原のベンチに腰を下ろし、水の流れを見つめた。流木が渦を描いて去ってゆく。追うように木の葉が流れる。落ち葉は2枚、3枚と続く。まるで流木の描いた渦の五線譜に踊る音符のように。


 萌音の耳に対岸で吹くトランペットの音が聞こえた。吹奏楽部の高校生の吹く音は風に流れ、時に大きく、そして弱く、奏者の奏でる音に自然が彩を添える。


 萌音は吹奏楽部にいたころ、目立たないフアゴットを吹いていた。

 ファゴットのパート譜をもらった時、音符の少なさに落胆した。もっと吹きたい、もっと目立ちたいという気持ちを抑えられなかった。少ない音符を意識して強く吹き、調和を崩してチームに迷惑をかけた。


 役割を自覚して音符が求める音を出した時、曲は完成した。

 萌音は吹奏楽部の時すでに回答を持っていたのだ。目立とうとすると曲は完成しないのだと。

 作曲とは作者が目立つのではない。奏者の求める音を提供することなのだ。

 だが逆もある。

 奏者は作者の意図を読み、譜面の音符を音にする。

 互いの心を読みあって曲は完成する。


 萌音は吹奏楽部の教室に走った。練習を続ける後輩たちの音を後ろでそっと聴いた。

 ファゴットがうるさく聞こえた。打楽器奏者の鍵盤を叩く音は金管に隠れ、弱々しく聞こえた。

 この場所で聴くと作者と奏者の両方が見えてくる。

 何らかの意図を込めて作ったであろう曲は、再現する奏者に委ねられる。

 奏者は作品を読み取り自己表現する。


 練習が終わり生徒たちは教室を出て行った。

「久しぶりだな萌音、今は何をしているんだ?」

「カデンッアを作っています」


「カデンッア?誰の」

「ベートーヴェンのバイオリン協奏曲です」


「バイオリン?お前はピアノだろ、誰に頼まれているんだ」

「紗矢子先生です」


「あの紗矢子先生のことか?」

「ええ、そうです」


「紗矢子先生はそれをどこで演奏するのだ」

「ベルリンの定期公演って言っています」


 先生は紗矢子の大胆さに呆れた。定期公演というオーケストラにとって最も大切な公演に素人の曲を持って臨むとは、前代未聞である。


「それで進んでいるのか?」

「いいえ、出来なくて悩んでいます」


「それでオレのところに来たのだな。分かった、一つ聞いてくれ、参考になればいいが」先生は今まで吹奏楽のため、たくさんの曲を編曲してきた。

 カデンッアは他人の作った曲に自分の曲を挟みこむ作業である。ある部分では編曲と共通する構造を持つ。

 先生は萌音に言った。

「カデンッアは何分間演奏すれば良いと思う?」

「2分くらいかしら」


「よし、それじゃあ、今日から毎日CDでベートーヴェンのバイオリン協奏曲を聞きなさい。但し、カデンッアを入れるところが来たらいったんCDを停止して2分間空白にしなさい。2分経ったらまた演奏を聴きなさい。これを繰り返し何度もやってみなさい。

 何度も聞く中に空白の2分間に耐えられなくなると思う。何か音を入れたくて、入れたくて、たまらなくなると思う。それが自分の脳が音を要求している証拠だよ。

 どんな音にでもきっと脳は頷いてくれると思う。その時は頭の中に何かの情景が描かれていると思う。過去の記憶かも知れない。見たことがないことかも知れない。どっちでも良いがそれが曲を作り出す元なのだよ」


 萌音はその日からベートーヴェンのバオリン協奏曲を聞き続けた。

 先生が言った通り2分間が耐えられなくなってきた。焦らされて何でもよいから声を出して叫びたい気持ちになった。なぜだろう、吹奏楽部で練習をした君が代のメロディーが浮かんできた。先生が言った通り、ある情景が見えてきた。

 

 川の水の中を流木が流れ、渦を描いていた。萌音は自分の頭の中に起きたこの情景を見たことがあるような気がしたが、情景は次々と変わり、もう流木の姿はなかった。次には空を飛ぶカモメが一羽、降りてきて「ククク」と鳴いた。白い雲の中からジェット機が現れ、キーンと音を立て水平線の向こうに消えていった。街の雑踏の中に微かに笑い声が聞こえた。朝もやの中に「コツコツと」靴音か聞こえ、その音はだんだん大きくなり、萌音の前で止まった。

 眠りから覚めたような感覚を覚え、気が付けば、いつか見た光景が音を出して、萌音の中を通り過ぎていた。


 これだ!思わず声を出した萌音は、今 流れるように過ぎていった情景と、微かに残る音を五線譜に書き留めた。あれほど悩んだカデンッアは。夜明けとともに現れた富士のように、くっきりと五線譜の中に描かれていた。


 CDでベートーヴェンバイオリン協奏曲をかけ、ピアノでカデンッアを弾いてみた。

 バイオリンの上げ棒、下げ棒の指示は未記入であるが、時間はちょうど2分。

 萌音は日付けとサインを入れ、封書を糊でしっかりと閉じた。


 志摩さんにベルリンの紗矢子から電話があった。

「萌音から楽譜が届いたけど、あなた手伝ったの?」

「私は何も知らないわよ、どうして?」


「萌音に『カデンッアを作ってみなさい』と言ってあったの。でもこんなに凄いのを作るとは思ってなかったわ,今弾いてみるわね」


 志摩さんが耳に当てた受話器の向こうから、紗矢子が弾くバイオリンの音が聞こえてきた。


 君が代を彷彿させる和風の中に、川の流れと鳥の囀り、雲を突き破る飛行機音、慌ただしく動く都会の朝、音楽に要求される各要素が2分間のカデンッアに詰まっていた。

「ほんと、よくできてる」

「でしょう、これ絶対受けると思うわ、志摩さんも国内でこれをやってくれる人を捜して」

「分かったわ、○○大学の先生に相談してみるわ」


 萌音の作ったベートーヴェンのバイオリン協奏曲のカデンッアは、ドイツと日本で

 同時公演も夢ではなくなっていた。


 ⋄⋄


 冷たい風に木の葉が舞い、街を行く人達はコートの襟を立て、ジングルベルも聞こえ出す季節。師走の東京に新しい店がオープンした。クラブ、ヌーベルマリエの仮店舗の隣のビルの1階。派手な衣装の若い娘たちが、道行く人たちにチラシを配っていた。ギラギラと燃えるような赤いネオンの奥は、いかにも怪しげな雰囲気を漂わせていた。

 チラシを手にした男たちは、女に引き寄せられるように店の奥に消えていった。

「タレント募集」のキャンペーンは女たちだけでなく、若い男たちの好奇心を搔き立てた。

 迎えるのは、タレントと称する女たちである。

 女たちはタレントと呼ばれる気持ち良さと、何らかの夢に浮かれていた。いつかはテレビ出られるかも知れないと、なす仕事のことなど考えずに集まった女たちである。


 男たちの欲望を知らぬまま席に付いて、事件が起きないのが奇跡である。開店後1時間もせぬうちに事件は起きた。

「何をするの、やめて」叫ぶ女は胸もあらわに店を飛び出した。

 好奇の目に晒らされる女を前の「チェッ、高い金はらったのに」と男は吐き捨て立ち去った。

 この店の設立に至る経緯を見れば、容易に判断できることであるが、高級クラブが消えて失われた時間の長さはあまりにも大きい。人々の感覚はかって高級クラブ、高級BARと呼ばれた店の価値を忘れてしまった。


 ホステスと呼ばれた時代に彼女たちが果たした役割は、高級官僚にも匹敵した。

 クラブ、ヌーベルマリエを模した店は生まれてすぐに、また消えていった。

 だが冴子の希望も消えた。冴子の希望はヌーベルマリエのライバルを消すことではない。むしろ育てることである。

 一クラブの努力をしても世間の空気を変えるには限界がある。

 ともすればクラブ、ヌーベルマリエの存在も危ういものとなる。

 冴子の背に 政 財 官 の重い期待が伸し掛かった。 












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