第94話 高額な契約金
クラブ、ヌーベルマリエの仮営業店舗の隣のビルに、噂されていた新しいクラブの誕生が正式に発表された。開店は12月初旬、あと一か月後である。ビルの1階のフロアでは改装作業が急ピッチで行われていた。
向かいのビルの1階には開店準備事務所が設けられていた。
ドアーには「タレント大募集中、デビューは来春」と書かれたプレートが掲げられ、人目を惹く大きな垂れ幕が下げられていた。
町では同じく「タレント募集中、デビューは来春」のチラシが若い女性たちに手渡された。
開店準備事務所の前には、タレントを夢見る若い女性たちの、長い行列ができていた。行列の中にはタレント契約のサインをした後、ヌーベルマリエに向かう者もいた。彼女らはヌーベルマリエに努めるホステスたちである。すでにヌーベルマリエのホステスの約半分が、新東西プロダクションのタレント契約をしていた。
赤坂に建設中の安藤のビルでは7階の一部を完成状態に仕上げ、事務所兼モデルルームとして稼働させていた。1階から6階までのフロアは全て入居予定は決まっており、未契約のフロアはこの7階だけとなっていた。
ビルのオーナーの安藤は、相談役でありクラブヌーベルマリエの設立発起人である遠山を呼び、入居を希望する企業のリストを見せた。
「私のところにこんな会社から照会があるのですが、遠山さんはこの会社について何かご存じですか?」
安藤が遠山に見せたリストには「新東西プロダクション」とあった。
「冴子さんから聞いています。うちの店のホステスとタレントと称する契約をすすめている会社です」
「ヌーベルマリエにも契約したホステスがいるのですね」
「ええ、今のところ20名ほどいます」
「実はこの会社の中川という人物がここに現れて、このフロアの賃貸契約をしたいと言っています。調べたところ人材派遣業の登記がされていて、普通の会社のように見えます。イベントなどに人を派遣するのが主な事業のようです」
「社長はこの会社と入居契約をするおつもりですか?」
「実は○○銀行の頭取の推薦があって、断りにくい状態になっています」
「○○銀行の頭取ですか、しかしこの上の8階に来年春にクラブ、ヌーベルマリエが正式オープンします。ホステスが同じビルにある会社から派遣されたとなれば、ヌーベルマリエは新東西プロダクションと同じ会社と思われますね」
「私もそれが心配になって遠山さんに話しました、それに中川はこの隣のビルに新しいクラブを作ると言っています。工事もすぐに始まると思います」
「新東西プロダクションはクラブ経営もやろうとしているのですか、これではまるでヌーベルマリエは新東西プロダクションの子会社ですね。今のヌーベルマリエの仮店舗の隣でも工事中です」
「多店舗展開を考えているのでしょう、バックに○○銀行が付いているのですからまだ増えるかもしれませんね」
クラブ、ヌーベルマリエの成功は新なライバルの呼び水となり、今後続々と同様な店が生まれそうな気配になってきた。
業界が盛り上がるのは歓迎すべをきことである。だが最も重要なホステスを新東西プロダクションに牛耳られる可能性が大きくなる。遠山にとって重要なのはクラブ、ヌーベルマリエに浸透しつつあるタレントと称するホステスを、如何に排除するかであった。
ビルのオーナー安藤が心配するように、たとえ安藤が新地ビルを貸さなくても銀行
をバックにつけた東西プロダクションの中川は、次々と新店舗を作るに違いない。
遠山は冴子を呼び、安藤に聞いた話をし、冴子に意見を求めた。
「大丈夫よ遠山さん、心配はいらないわ」冴子は平然とした口調で言った。
「冴子さん本当に大丈夫なのですか、どうするつもりですか?」
「タレント契約をしたホステスには今日限りで辞めてもらうわ」
「しかしそれじゃあ、明日からうちが営業ができなくなりますよ」
「遠山さん、新東西プロダクションと契約したホステスは、プロダクションから派遣されているのですね、それでは派遣を要請しなければいいのです。要請していないのに勝手に人を送りつけることは出来るでしょうか」
「それはそうだけど明日からどうします?」
「今となりで工事中の店ができるのは来月ですね。ではその1か月間はホステス達は仕事がありません。収入もありません。困るのは彼女たち自身です。
その1か月間こそうちにとってチャンスです」
「どういうことですか?」遠山は冴子のいう意味が理解できなかった。
「遠山さん、昔からバーやクラブと呼ばれる店のホステスは月給ではありません。
一人一人それぞれ話し合いで決めています。一番多いのは日払いです。売上に応じて加算される分だけが月一度の支払いです。ヌーベルマリエもそうなっています」
「本当ですか?」
「本当です、私がこの店のアドバイザーを引き受けた時、それを条件にしたはずです。いつか必ずこういう問題が起きると思っていました」
「え、分かっていたのですか」
「ええ、予想は出来ました。昔から銀座や赤坂ではホステスは、自由に動ける日払いを好みました。未払いの給料を残したまま店を変われば、残りの給料を払ってもらえるのか、と彼女たち自身が心配になります。時代は変わっても人の心理は変わりません。ことに水商売は店もホステスも安定しない浮き草稼業です。お互いに信用していないのです」
「それじゃあ冴子さん、彼女たちにどうやって説明しますか」
「今日の朝礼で私が言います」
「皆さん、明日から出勤は自由にします。出たい人だけ出て下さい。日給は今まで通りです。加算給のある人は30等分して日給に加えます。つまり、皆さんほぼ全員が毎日受け取るお金は増えると思います」
冴子の説明は特に変わったことを言ったのではなく、今まで行われていたことを繰り返したに過ぎない。しかしホステスたちは出勤すれば日給をもらえるシステムに改めて、安心感を覚えたはずである。
ことに新東西プロダクションと契約を交わしたホステスは、すぐに辞めなくても良いという保証を得た形になった。
『何か質問はありますか?」
「来月も同じですか?」
「ええ、変わりません」
「来年も同じですか」
「ええ、来年も再来年も変わりません」
「タレントになりましたけど大丈夫ですか?」
「大丈夫です。ただしタレント事務所には連絡して承諾を得て下さい。無断欠勤はダメですけど、無断出勤はもっとダメですよ」
冴子の説明にみんなどっと笑った。
冴子の説明ですぐに辞めるホステスはいないだろうと予想できた。
次の問題は冴子自身にあった。新東西プロダクションはこともあろうに冴子に高額の契約金を見せ、スカウトに動いていた。冴子だけではなく、チーフマネージャー、チーフバーテンダーにも触手を伸ばしていた。
この業界では全盛期の経験を持つものは高齢となり、現場を知る者はごく少数である。新店舗を作るには、まずどこから人を連れてくるかにかかっていた。開店したばかりのクラブ、ヌーベルマリエに新たな危機が訪れた。
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