第93話 立ち塞がる壁
晩秋の空の落ちかかる陽が、白いビルの壁を赤く照らす。陽は西に沈みネオンの灯が輝きを増すころ、ビルの窓は一つ消え二つ消え、ヘッドライトは光の糸となって道を照らす。
建設中の安藤のビルは、荒々しい鉄骨から優美なガラスの壁に姿を変え、来春の完成を待たず、赤坂に新しい風景を作り出した。
仮営業中のクラブ、ヌーベルマリエにも新しい動きがあった。
訪れる客は冴子の予想を超える速さで増え続け、法人カード扱いは200件に達した。
かって銀座 赤坂ではホステスの責任による、信用払いが行われていた。
高給を手にするホステスが現れる一方で、浮き草のようなホステスの間を渡り歩き、定職を持たぬ紐と呼ばれる暮らしを生業とする者もいた。紹介屋と呼ばれる者たちも店から店へと渡り歩いた。
久しく途絶えていた高級クラブ界に現れた、ヌーベルマリエの復活は過去とは違うホステスの誕生と、彼女らと繋がる新ビジネスを生むこととなった。
ヌーベルマリエのホステスは50名となり、席数25個の中型店には過不足ない配置であった。
しかしホステスの出入りが多いのは昔と変わらない。常に新しいホステスを育て、送り出すのが冴子の役割である。加えて来春にオープンする赤坂の新店に備え、さらに50名のホステスの確保が必要となっていた。
開店前の作業中のヌーベルマリエに現れた男は冴子との面会を求め、対応したチーフバーテンダーの鈴木に「新東西プロモーション(株)代表取締役」の名刺を出した。
数日後、冴子を前に男は中川と名乗り、「お伝えしたいことがあります」と切り出した。
「あなたの店の従業員は私の会社と契約しました。A子は私の会社のタレントです。
A子に与える任務は私を通して下さい」
加えて中川は言った。
「A子の他10名とも交渉中です」
冴子には思ってもいない出来事であった。過去にこのような例はない。
ホステスは店との契約によって雇った従業員であり、報酬も個々の実績によって決められていた。
しかし中川の言う通りであればホステスに指示を出すのはもちろん、待遇も中川に相談することになる。店の自主性は失われ、いずれは中川のプロダクションが動かす店になる。
銀座 赤坂から高級クラブの名が消えて久しいが、ホステスを目指す女性の意識は変わり、ホステスはタレントの仕事の一部と認識されるようになっていた。
タレント募集の呼びかけがあれば、若い娘が群がるのは容易に予想できた。
高級クラブは華やかさを競った末に消えた徒花であったが、ホステスの人気度によって経営が左右される世界である。紹介屋の存在も必要悪であった。
高級クラブは消えても紹介屋と紐はプロダクションと名を変えて、今に生きていた。
折しもヌーベルマリエの成功を見てか、高級クラブ経営に乗り出す企業の存在が、噂に上っていた。
例え優秀なホステスを育てても、プロダクションの名をもって引き抜かれるのは容易に想像できる。
今はヌーベルマリエ以外に競争相手はいないが、噂に上っている企業がオープンすれば、中川のプロダクションはより活動を強化することは間違いない。
また新たなプロダクションも生まれるに違いない。
ヌーベルマリエの在籍ホステス50名が一斉に動く事はないにせよ、ヌーベルマリエの将来も本オープンを前に重大な岐路に立たされた。
⋄⋄
今日も和幸は川沿いのサイクリングロードを走り続けた。目標まであと5㎏ 額の汗の汗をぬぐいつつ、晩秋の風も暑く思うほどにペダルを踏んだ。
ゴルフ練習場の金網の向こうで俊介が、コーチの目を背にウェッジの練習に励んでいた。
「
後ろで見物していた和幸がドライバーを振り回しても届かない、250ヤードの金網の下に落ちた俊介のボールを見てコーチが怒鳴った。
「おいお前は力の加減ができないのか、旗が見えないのか。旗はほらそこだ」
コーチが指さしたのは打席から50ヤードの至近距離であった。
「俊介、お前が今持っているのは飛ばしてはいかんクラブだ」
「えー?飛ばしてはいけないクラブがあるのですか」
「そんな近くに旗があるのに飛ばす馬鹿がどこいる!転がしたっても届くぞ」
「えー?転がしてもいいの、じゃあ手で転がしてもいいんですね」
「馬鹿野郎、何回教えたら分かるんだ。ゴルフは手で触ってはダメだと教えただろ」
「すみません忘れました」
「しょうがないヤツだ、これをよく読んどけ」
「あのー、字ばっかりですけど」
「当たり前だ、それはゴルフのルールブックだ。よく読んどけよ。来週は試験をするからな」
「えっ! もうプロ試験ですか、やったー!」
「この大馬鹿野郎!トロ介め、プロ試験は永久にお預けだ」
「先生ボク俊介です。読めないんですか?」
「おい和幸、お前がこいつをよく教育しろ。こんなやつを連れてきやがって」
「連れてきたのは先生です。ほっとけばよかったのに」
「和幸!お前も特訓だ、自転車じゃダメだ。来週からは走ってこい」
「はい!85㎏まで頑張ります」
俊介と和幸に重い宿題が課せられた。
⋄⋄
紗矢子に勧められて一般大学を目指すことになった萌音は、大きな目標を失い、ピアノに向き合う気力も失いかけていた。
そんな萌音にベルリンの紗矢子から電話があった。
「志麻さんから聞いたわよ。ピアノの練習をしていないんだって?ダメじゃないの」
「だってピアノはもう諦めなさいと言ったのは先生です」
「何を言ってるの!諦めるんじゃないの、今世界の音楽家は東京を目指してるのよ。
志麻さんに師事したがっている人は何人いると思ってるの。私に紹介状を書いて欲しいという人はたくさんいるのよ」
「じゃあ、諦めなくてもいいんですね」
「そうよ、萌音は志麻さんのお弟子さんになりなさい。コンクールには一般大学生だって出れるのよ。志麻さんの推薦状は音大の先生だって認めるわ」
「やってみます」
「それともう一つ、ベートーヴェンのバイオリン協奏曲のカデンツァを萌音に作って欲しいの。私が来年春にベルリンで演奏する曲よ」
「でもバイオリンは分りません」
「何を言ってるの、違う楽器の楽譜も読めなくてはー流の音楽家にはなれないのよ。
萌音はピアニストに留まらない音楽家になりなさい。
ベートーヴェンのピアノ協奏曲第六番って知ってる?」
「そんな曲 聞いた事がありません」
「多分知らないと思ったわ、でもあるのよ、ベートーヴェンは自分の作曲したバイオリン協奏曲をピアノ協奏曲に編曲したの、それがピアノ協奏曲第六番と呼ばれているのよ。ほとんどの人がベートーヴェンのピアノ協奏曲は第五番で終わりだと思っているけど、一流を目指すにはこの曲のカデンツァも作ったらいいと思うわ。世界中の音楽家に注目されると思うわ、クララ・シューマン以来のカデンツァ作曲家の誕生よ」
「ベートーヴェンのバイオリン協奏曲の楽譜を買ってきます。バイオリン用とピアノ用の両方を作ってみます」
* カデンツァとは協奏曲の一節を敢えて空白とし、演奏家が自分で作曲し、自分の
個性を見せるところです。しかしカデンツァを自分で作る演奏家は少なく、他
の作曲家に依頼することが多くなりました。クララ・シューマンは一流のピア
ニストであると同時に多くのピアニストの依頼を受け、たくさんのカデンツァ
を作りました。
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