第98話 悩める雌野獣

 冴子は中川の「ラ・ノービア」に絶縁状を叩きつけた。

 もともとラ・ノービアのアドバイザー就任は、冴子が望んだものではない。

 いわば中川の仕組んだ作戦に乗せられていたに過ぎない。冴子は何の心の負担を感じることもなく、何となく感じていたモヤモヤが一気に晴れ、忘れていた自分を取り戻した。

 冴子はメルセデスのハンドルを握った。軽やかなエンジンの鼓動が心地良かった。

 こんな気分は久しぶりだ。窓を開けると冷たい冬の風が吹き込み、乱れた髪が冴子の肩で踊いほほを撫ぜた。

 国道の標識は都県境を示していた。ここは隼人がサッカー選手をめざしていたころ、風景練習を見に来たところである。


 冴子は中校生のころ、清水エスパルスを目指す男子生徒の汗に胸をときめかせた。

 淡い恋心と性の目覚めであった。あれから十数年、経験も積んだ。夫敦也の体は男は疲れている時ほど、求めて来ることを教えてくれた。

 隼人もきっと悶々として勉強などしてるはずがない。冴子は人助けの気持ちも手伝い隼人の電話番号を押していた。


 るるる、るるると隼人の電話の音が鳴っていた。


 20回に設定していた呼び出しが終わるころ、ようやく隼人が受信ボタンを押した。「はい、隼人です」

 ボソッとしたいつもの隼人の声だった。

「誰から?」という女の声が小さく聞こえた。

「知らないひと・・・」と言ったところで隼人の電話が切れた。

 小さく聞こえた女の声は、聞き覚えのある杏里の声ではなかった。


 いつのまにか隼人も杏里とも別れ、違う女と暮らす大人の男になっていた。

 杏里と遊ばせ泳がせておいて、その後にゆっくり頂こうと思っていた冴子の企みはもろくも崩れた。

 冴子は自分がふられたような気分になった。


 ついさっきまでの爽やか気分が一転、降雨寸前の曇り空になった。

「隼人は少し泳がせ過ぎてしまったわ、仕方ないわね。でも未だ俊介がいるわ。そのためにとっておいたのよ」

 冴子は自分自身を慰めるように呟いた。


 冴子のメルセデスは国道を走り、ゴルフショップの駐車場に停めた。駐車場の一角に試打設備があり外から眺めることが出来た。店の中にもコンピューターによる打球確認ができる設備があるのだが、広い屋外の打席は常に満席であった。ここには敦也が所属する七十士会の副会長、倉橋の娘、静香がアルバイトをしている。


 冴子は静香を捜した。外の試打席に静香の姿はなかった。店内の試打設備のブースにも静香を発見することは出来なかった。

 店員がよってきて「いらっしゃいませ、今日は何をお探しですか」と聞いた。

 店員の話では静香は来年9月から、カリフォルニアにゴルフ留学が決まり、すでに語学の勉強のため渡米したという。


 車に戻りオーディオのスイッチを入れた。ヘンデルのメサイアが聞こえてきた。

 冴子は”はっ”として時計を見た。午前11時を示していた。ベルリンは午後7時。

 「開演の時間だわ、これは紗矢子さんの演奏では…………」


 冴子が時計から目を離し、オーディオのボリュームボタンを回した時、スマホが鳴った。

 ベルリンの紗矢子であった。

「冴子さん起こしてしまったかしら?」

「東京は今午前11時よ、もう起きてるわ、それより紗矢子さんは演奏中では?

 今、FM でメサイアが鳴っているわ」


「何をいってるのそれは去年の録音よ。今日はこれからよ」

「これからってもう7時でしょ、大丈夫なの?」


「今夜は9時から始まるの。メサイアは長いでしょ。今夜は深夜営業よ。それよりも志摩さんが大阪の音大の教授に決まったわ」

「志摩さんは大阪に行ってしまうの?じゃあ萌音には教えてもらえないの?」


「だから、萌音も一緒に大阪に行くのよ」

「でも萌音は卒業までもう1年あるわ」


「音大の付属があるわ。萌音なら編入は簡単よ、」

 紗矢子は大阪の出身であった。東京芸大付属から芸大、大学院と進み、N製紙ホールでデビューした。当時Nホール担当役員であった大阪出身の榊は現在N製紙の社長である。榊は紗矢子の才能を見抜き、ドイツ留学を支援した。

 紗矢子は国際音楽コンクールで次々と優勝し、

 200年日本音楽コンクールで優勝し、2008年出光賞を受賞した。

 N製紙の社長 榊は紗矢子が見い出した若い才能を支援する約束をした。

 萌音の未来に明るい微かな灯がともり始めた。


 冴子は身近にいて知っているはずの人たちが、自分が気が付かないうちにそれぞれの道を発見し、次々と離れて行く現実に、妬ましさを覚えるほどの寂しさを感じた。


 メルセデスのトランクルームには、遠山から贈られたドライバーが収まっていた。

 冴子は鏡面のように磨かれた黒いドライバーヘッドに写る自分の顔を見た。

 局面のヘッドに写った顔は歪んでいた。ヘッドを動かすと写った顔は一層醜く歪んで見えた。

「これが本当の自分の顔なのね」冴子は見たくない現実を見続けた


 何時間いたのだろう。オーディオから流れるヘンデルのメサイアはコーラス「ハレルヤ」を唄っていた。


 ふと我に返り、オーディオに合わせ、ハレルヤをハミングしながらゴルフ練習場に向かった。

 俊介がいるはずだ。見慣れたゴルフ練習場の金網が西に傾く太陽に輝いていた。

 車を停めネットの奥を見た。一番奥の打席に俊介の姿が見えた。相変わらず鬼コーチが立てたクラブに顎を乗せて、真後ろから見つめていた。


 萌音の父、和幸もいた。萌音も和幸も俊介の成長を願っていることが察せられた。

 冴子は声をかけることに躊躇した。

 俊介も和幸も萌音本人も、萌音が大阪に行くことになる事実を未だ知らない。

 萌音がいなくなった俊介は我慢ができないはずだ。きっと自分の言いなりになるに違いない。

 だがそれで俊介がこのまま成長してくれるのだろうか。俊介の未来を自分が摘み取ってしまうかもしれない。

 冴子は獲物を目の前にして、仏心を抱いてしまった雌野獣になっていた。


 仏心を隠すように冴子は今日も敦也を捕食した。「助けてくれ、オレを殺す気か」






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