第57話 片翼を失った隼の戦士たち
新宿から東京スタジアムへ向かう電車に隼人と杏里がいた。杏里は隼人と一緒に電車に乗るのは初めてであった。
ウキウキの旅気分であったが八王子行き急行電車は、調布駅まで途中停車駅は明大前駅1個のみで、アッと言う間に調布駅に着いた。待つ間でもなく、各駅停車電車が来た。乗り換えて僅か1駅。飛田給駅で降りた。東京スタジアムは目の前。歩いて5分。新宿を出てから僅か25分。
東京スタジアムは以外に近いところであった。杏里はサッカーよりももっと電車に乗っていたい気分であったが、今日は隼人のための1日。隼人もワクワク気分でスタンドに着いた。冴子が言った隼の聖地の意味も何もかも忘れて試合開始を待った。
2022年 5月 21日(土)明治安田生命カップ Jリーグ 第14節
FC東京 VS 柏レイソル
午後3時 定刻にキックオフ。
試合開始から30分。杏里はいささかゲームに飽きていた。無理もない。杏里は隼人がサッカー好きだから合わしてるだけ。吹奏楽部で応援している時は自分も動いているから時間も忘れる。
だが座って見るだけでは徐々に眠気に襲われる。ふと気が付いて隣の隼人を見ると、声を嗄らして応援していた。サッカーフアンの隼人が寝る訳がない。
この席はFC東京のサポーター席。回りの客は熱心なFC東京の応援団。
チャンスにはワーと盛り上がり外せばアーとため息が。ピンチには悲鳴をあげる。
それはどこでも同じ、名古屋でも大阪でも京都でも。
でも不思議?隼人一人だけレイソルのチャンスにも盛り上がっている。周りの客からすれば許せない。「なんだこの野郎!」この席でこの態度。下手すると事件が起きかねない。
杏里は心配になり眠気も忘れ、興奮する隼人に聞いた。
「ねえ、隼人はどっちのフアンなの?」
「どっちでもないけど何で?」
「回りの人が恐い目で見てるわ」
試合の結果は二人に味方した。0 対 0 運よく引き分けに終わった。
もし柏レイソルが勝っていれば間違いなく事件は起きていた。
だがやっぱり事件は起きた。
「隼人はどうしてこの席を買ったの?」
隼人は正直に答えれなかった。冴子に貰ったとは言いにくい。
台風で流れた試合のチケットは冴子の払った金。その金は杏里へのプレゼントになった。
今度も同じく冴子のプレゼント。言える訳がない。
杏里とて女、女の感は鋭い。
「あの人に貰ったのね」
雨の中コンビニから杏里のマンションまで乗せてもらった。あの時に冴子が言った。
「二人で食べて」
貰ったお菓子の中に冴子がそっと入れたあのメモ。88101
隼人はもう忘れかけていた。そんなことまで杏里はしっかりと覚えていた。
「メモに書いてあった88101とは隼人が一番好きの意味でしょ!」
新宿駅の人の流れの中を杏里は涙をこらえて走った。
隼人は今になって分かった。冴子が言ったあの言葉の意味が。
「たとえ一人になっても必ず戻ってくるのよ」
隼人は知った
(冴子さんは分かっていたのだ。杏里が去ることを)
冴子が言ったあの言葉
「これは飛び立つ戦士に贈る銃後の愛よ」
銃後とは、死を覚悟で飛び立つ戦士の無事を祈りながら待つ、妻や恋人たちのことである。
戦場で知った愛の重みと愛の苦しみ。
今の隼人は片翼を失った隼になった。帰らねば、飛びつづけねば。
冴子の待つ店に向かって歩きだしてまた襲ってきた。
杏里からの愛を奪ってしまった自分の罪悪感が。
翼を失ったのは杏里も同じ。杏里の翼を奪ったのは自分の翼、そして翼に隠された背徳の銃。共に傷つき共に墜ちる翼たち。勝も負けもない、あるのはただ残された愛の悲しさ。
「すみません、行けなくなりました」と、隼人からLINEがあった。
よかった、隼人はやっぱり心を持つ男だった。嬉しそうな顔をして現れたら許さないわ。
隼人のLINE が冴子は心から嬉しかった。
「まあ、冴子さん久しぶり」
声をかけてきたのは何とあの蘭であった。
「知ってるわよね、私の旦那様、玉川さん」
知らぬはずがない。蘭がナンパされた時、一緒にいたではないか。フルフルまでしてしまった。
「ちょうどよかったわ、ご一緒しません、この席空いてますの」
「蘭さん、玉川さんおめでとう」
思わぬ形で二人を祝福する場になってしまった。
思わぬ言葉は蘭からも。
「私と主人は今度ある会社の役員になりました。冴子さんにも聞いて欲しいわ」
「どんな会社?」
「高級リゾートホテルを経営する会社よ」
冴子には分かってきた。あの話だと、最上邸で理子に聞いた話、そして預かった書類の中の高級リゾートホテル。あの書類の中の理事の名簿に玉川の名前があった。蘭の名もあった。
「冴子さんが私の会員になって、その会員さんが新しい会員さんを集めたら、冴子さんにお金が入るの、私にも少しだけ。少しだけよ。冴子さんにはいっぱい」
これはマルチ商法の典型的な形で、れっきとした犯罪である。今時こんなあからさまにマルチ商法を計画するとは見上げた根性だ。しかも影も形もない架空のホテル。考えてみればこれはうまいやり方かも知れない。ホテルの完成までは何年もかかる。騙されたと気づくのも何年も先のこと。騒ぎだした時にはもうドロン。
「蘭さんは役員でしょ。会長は誰なの?」
「冴子さんも銀座にいたことあるんでしょ。知ってたりして」
「知らないわ、教えて」
「理子さんて人、この店のオーナーの奥様よ」
「奥様が会長なの?旦那様は何をしてるの?」
「旦那様はゴルフに熱心で経営は全部理子さん任せ。この店も」
玉川が言った
「会長の最上さんはもう歳だから、引退を考えているようだし、後のことは私たちに任されています」
冴子は玉川から名刺をもらった。玉川未来研究所 代表 玉川 信
「こいつもう出てきたのか、永久に務所にいりゃあ良かったのに」
冴子の見せた玉川の名刺を見て敦也が言った。
玉川 信と言う男は詐欺士として有名であり、戦前は〇〇機関と呼ばれ、旧日本軍の裏の資金調達係として名をはせた組織の末裔であった。
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