第55話 希望の架け橋

 今年も俊介の中学校から全国ジュニア選抜テニス大会に推薦される部員はいなかった。

 テニスは個人の競技、団体戦もあるが強い個人がいなければ団体戦推薦などありえない。俊介は他の部員には目もくれず一人自分だけの道を走った。他の部員を相手にしても練習にならぬとばかりに部の練習は手を抜きクラブでの練習に励んだ。団体競技ではありえない個人意識。

 自己を磨き、競い、励まし、奉仕する、少年のスポーツの目的を忘れた傲慢な気持ちが芽生えていた。


 コート上ではダブルスの練習をしていた。俊介はポーンと軽くサービス球を打った。

 相手部員の強烈なレシーブはライン内におちた。

 俊介のフワリサーブを打てなきゃ不思議。レシーブエースは続いた。


 相手部員のサービス球が俊介のホアーハンドに来た。俊介は軽くポーンとレシーブした。

 相手部員の強烈なボレーがコートの中央に跳ねた。俊介のパートナーはただ見る他ない。

 俊介の投げ遣りな態度はその後も続いた。


「お前、真面目にやってんのか!」

 やる気の見えない俊介にコーチの声が響いた。

「チエッ!」俊介の舌打ちはコート上にいる全部員に聞こえた。


「お前こっちへ来い!」

 他の部員とは離れたコートに立った。

「オレのサーブを打ってみろ!」

 コーチは俊介に強烈なサーブを放った。俊介は脚を動かすこともできずにボールを見送った。

 2球、3球とボールは俊介の背後のネットに跳ねた。

「拾って来い!」

 コーチの声も聞こえない程に打ちのめされた。


「どうした、聞こえなかったか?もう一度いう。ヒロッテコイ」

 コーチはゆっくり穏やかに言った。


 俊介は立てなかった。膝が震えそのままコートの上に跪いた。

 うなだれて落としたラケットから振動止めのSのラバーが外れコートに落ちた。

 コーチは静かにコートを去り俊介一人残った。

 拾い上げたS のラバーをコートに叩きつけた。

「あれくらいオレだって!」


 他の部員に指示をだすコーチの声が聞こえた。

「上手く打とうとするな、パートナーを信頼して任せろ」


 コーチは元、問題児だった杏里の担任。俊介ごときは軽くねじ伏せる荒技も持てば舌も持つ。

 今日は軽くさばいた。奥の手はまだまだ持っている。


 吹奏学部の練習室に響く音はわずか10人の一年生だけの小編成である。

 だが足りない楽器を補い助けあう心は音にあらわれる。

 夏の月は薄明るい灰色から黄色い光をにじませ金色の輝が見えはじめていた。


 ドアーが開き先生が指揮棒を振りながら入ってきた。穏やかに首を上下に振りリズムをとりながら。壇上に立ち指揮棒を振り続けた。約4分 演奏は終わり指揮棒を下ろした先生はにっこりと笑い拍手をした。

「トラ、お前できるじゃないか。パーカお前もな、お前のトロも良かったぞ、バスも良かった」


「明日から合同練習に戻れ、みんな待ってるぞ」


 夏の月は灰色の雲を払い黄色い光を増し金色に輝いていた。


 理子に招かれ冴子は最上氏の自宅にいた。広い日本庭園に臨むリビングのテーブルの上に広げられているのは見取り図と完成予想図。予想図に描かれているのは赤い三角屋根の建物と手前にひろがる湖に映る富士の山。


「河口湖にレストランを開きたいと思ってるの、冴子さん手伝って」

「私に何が……?」

「ずーっとじゃなくていいの、開店までに従業員に作法の指導をして欲しいわ」

「私にはとても……」

「本当は店長をお願いしたいんだけどご主人と離れての生活は無理でしょ」

「どっちにしても無理です、私経験ありませんから」

「いいんですよ、開店の予定は来年の夏ですからまだ1年以上あります、考えていて下されば」


 1年以上先とは言え簡単に引き受ける訳にはいかない。本当に冴子には経験がない、

 銀座の店にいたころ簡単な作法の教育は受けた。赤坂でも受けたことがある。

 だがそれはBARとかクラブと呼ばれる店。客層も違えば店の形態も違う。

 そもそも理子は冴子のことをどこまで知っているのだろう。会ったのは今日で二度目。


 理解できないことばかりであったがその日は最上邸をあとにした。

 図面や計画書などズシリと重い封筒を渡された。


 和幸が河川敷のサイクリングロードから帰ってきた。

「アツウー、ママビール」

「ダメよパパ、はいこっち」


 萌音に渡されたウーロン茶で我慢した。最近の萌音は幸恵以上に厳しい。

「どうだい最近は」

 和幸の質問は具体性がない。どんな話に発展するかは相手の答え方ひとつ。

 妻の幸恵は「なあーんにも」としか言わない。だから会話がなくなる。


「名古屋の課題曲が決まったの」

「なんて曲?)

「やまがたふあんたじい~吹奏楽の~」


「ほおーう、山形?……他に何か」


「俊介がね最近ちょっと変なの」

「俊介君がどうかした?」

「俊介がねテニスクラブに来なくなったの。私のLINEに返事もないし」

   

 俊介は学校のテニス部の練習に来なくなったばかりでなかった。父も萌音も通う倶楽部にも現れなかった。

「俊介お前、夜どこへ行ってるんだ?」

「学校の部活」

 父には学校の部活と噓を言い、萌音に返信もしない殻に籠る少年になっていた。

 俊介の両親はテニスに熱心に取り組む息子に安心しきっていた。周りの親たちが高校進学に熱心な姿をみても関心を示すこともなく。


 振り返れば俊介の両親は期待していた有名私立中学校を諦めて落胆したこともあった。

 両親が俊介を信じるようになったのもテニスのおかげであった。そのテニスが俊介をまた希望のない少年に引き戻してしまった。


 俊介のスマホに冴子のLINEがあった。

「ドコニイル」

 あんなに待ち焦がれていた冴子のLINEにも返信できなかった。


「マドヲミテ」

 この窓は冴子との出会いの場であり希望が生まれる場であった。

 忘れていた訳ではない。待ち焦がれていた。この窓を見る日を。

 冴子の姿が見えた。眩しい光を放つ女神像を見るような不思議な感情に襲われた。


「ガステン」

 懐かしい冴子の指示があった。ガソリンスタンドで冴子の車に乗った。あの新鮮なわくわくする興奮に包まれた時と同じ、この車内、この匂い。


 冴子のメルセデスは首都高速を走り向かったのは横浜元町公園。


 この公園のテニスコートの入口に「日本庭球発祥の地」の記念碑がある。

 俊介は記念碑の前に立ちその発する ”気” に触れ、吸い、嗅いだ


 どんな説教よりも尊い教えを授けてくれる無言の空気である。先人の残した偉大な魂が人の心を洗う。俊介は自分の愚かさを詫びた。


 丘の上の公園から見た横浜ベイブリッジは希望の架け橋であった。

 

 冴子と俊介は中華街でラーメンを食べた。


「俊介、あの子とどこまでやったの?分かってるのよ。テニスクラブの子」


 今日の冴子には隠し事はできない。自分から正直に言った。

「キスまでしました、あとはまだです」

「やりたいんでしょ。でもダメよ子ども相手は」

「はい!」


 俊介は一瞬期待してしまった。だがそうはいかない。マンションの前でおでこにキスをして車  を降りた。テニスと同様、また冴子に教えられた。


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