第54話 流れ流され着いた娑婆

 七十士会の会長、最上氏は都内に数店舗ある焼肉店のオーナーであった。奥様が社長、最上氏は会長であった。経営は奥様が担っていた。奥様の名は理子という。

 この文字を持つ女性は多い。呼び方もいろいろ。

 りこ さとこ まさこ ゆうこ かなこ さえこ たかこ 等々、彼女は ” みちこ ”という。


 築地本願寺のパーティーで紹介されたときお互いの名前の由来で話が弾んだ。

「私の理子はあなたと同じ、 ”さえこ” とも読めるんですよ、銀座時代は ”たか子” と呼ばれていました」

「銀座にいたんですか!私も同じ、 冴子は ”たか子” とも読めるんですよ」


 理子は理想は高くから”たか子”となり。冴子は冴えわたる空高くから”たか子”となる。


 銀座の源氏名は複雑にして単純。文字通りに読まないのが銀座流。意味ありげに見える。

 キラキラネームは銀座には似合わない。ネオンが霞む。銀座に流れる昭和の匂い。

 たか子さん、みち子さん、さよ子さん、いっぱいいいます。夜の蝶は子の字が似合う。   


「まあ同じ蝶だったのね。並木通りですか?」

「そえそうです、6丁目です。私まだ主人に抜けてないって言われます」

「何が?」

「銀座臭さ」

「じゃあ私はどうしましょう。焼肉の匂いがプンプンしてますわ」


 蝶と遊びし花も散りネオンの川に浮きし花びらは、流れ、流され、過去を捨て、情に拾われて、着けばそこが女の娑婆。順風満帆幸いなれどおごるは久しき爵のつゆ。


 理子も冴子も夫に救われ今を得た。

 理子は ”たか子” を捨て ”みちこ” に還えり、冴子は空しい空から ”さえこ” を取り戻した。


「今度新しい店を出そうと思っています。銀座じゃありませんけどね。冴子さんに手伝ってもらえたら嬉しいわ」


 その理子の焼肉店の店舗のひとつが敦也と冴子が通うゴルフ練習場の近くにあった。

 冴子は焼き肉店に3人の席を予約した。


 2022年 5月 21日(土)東京スタジアム 15:00

 明治安田生命カップ Jリーグ 第14節 FC東京VS柏レイソル


 冴子はチケットを2枚購入した。日立柏サッカー場のチケットを用意しながらも、台風のため中止になった幻の試合の替わりである。場所は変わった。柏から調布へ。組み合わせも違うが元々自分が見るためではない。

今日冴子が購入したのはフランチャイズ、FC東京のサポーター席。ここに座るのは隼人と杏里の二人。


 冴子は隼人にLINEを送った。


「ドコニイル」

「ネテル」

「スグニデテコイ」

「ハイ」


 豪雨にみまわれ曇るガラスの車の中で、冴子は隼人にチケットを渡した。

「彼女と一緒に行くのよ、隼の聖地を二人で感じるのよ」」

「冴子さんは行ってくれないのですか?」


 あの時も金網の蜂の巣の間からチケットを受け取った。

「彼女と行っといで」

 今日は「彼女と一緒に隼の聖地を感じて」と言った。

何故なのだろう。隼の聖地とは何を言ってのだろう。隼人は冴子の言葉の意味を知るにはその聖地なるところに座ってみようと思った。


「7時に焼肉屋で待ってるわ、試合が終わったら二人で報告に来るのよ」

 何やらさっぱり分らない。だが冴子の命令には素直に従ってしまう。

 上官の命令のような冴子の口調は隼人の頭を混乱させる。

 かき乱されたの隼人の唇に、冴子の舌が分け入ってきた。


「いいこと、これは飛び立つ戦士に贈る銃後の愛よ」

 銃後といわれても隼人にはその意味さえ分らない。分かるのは確実に冴子の柔らかな唇と胸の鼓動。隼人は冴子の肩に回した腕を引き寄せた。互いの胸の鼓動が共振し、大きく揺れた。


 この冴子とのキス、そして胸の感触はもうすでに聖地にいるような夢の数秒間であった。

 このまま何処か飛んでしまいたい。着いた先がどんなところでも受け入れられる。

 わずか数秒間でも永遠に残る記憶となる。わずか数秒前が過去のできごとに感じた。


 冴子の胸に顔をうめ鼓動を感じ忘れゆく時間を追う隼人の耳にスマホの着信音が響いた。

 攻めいる敵機のような無慈悲な別れを促す音に聞こえた。


 「たとえ一人になっても必ず戻ってくるのよ。報告を待ってるわ」

 冴子の言葉の意味は不明のままであったが忘れられない感情が残った。


「あのな、お前たち耳もってんだろ」

 吹奏楽部の練習室の今日は1年生だけの特別練習。


「おいパーカお前の音は工事現場か!。

先生の言ったパーカとはパーカッション担当の男子生徒。


「おいトラ、お前の音は工場のサイレンか。うるさくて聞かれやしない」

 トラと呼ばれたのはトランペット担当の女子生徒。

先生の怒りの相手は1年生部員全員であった。杏里も萌音も。

「自分たちで考えてやってみろ、出来なきゃみんなチームから外すぞ」

先生は練習室を出て行った。


「みんなどうする?」

 誰も声を出せないでいた。静まり返った練習室にトランペット担当の女子生徒が最初に口を開いた。

「この10人だけで1曲完成させましょう」

 他に誰からも声はなかった。一年生10人の受け持ちは木管、金管、打楽器と平均に別れていた。

「アルトがいないよ」言ったのはテノールサックス担当の女子生徒。

「アルトのパートを誰か他の楽器で補うのよ、私がオーボエでやる」杏里が言った。

「じゃあ、それでいこう」


 「ユーフォがいないよ」

 「ユーフォニアムも私がやるファゴットで」 


 「トロは?」

 「トロンボーンはボクがホルンで」


 自主的なグループ練習はこれが初めてであった。足りない楽器のパートを他の楽器で補おうというのだ。他人の音を自分の持つ楽器で鳴らす。完全な曲とはならないが工夫する気持ちが湧いてくる。

 サックスはソプラノ、アルト、テナー、バリトンと本来4本あるがそれもい1本でやる。

 クラリネットも同様に1本でやる。

 足りない音の隙間を補う工夫は他人を理解することに繋がる。

 今までは目立ちたい気持ちが先走り、大きな音を出していた。打楽器はガンガンと鳴り管はビュービューと吹き荒れていた。


 運動部の応援だけの音を出していた季節はもう終わった。相撲部 柔道部 レスリング部 その他各部の応援には張り叫ぶ音は効果的である。選手の力を助ける。だがそれはただの激励音。

 これからが自分たちの音である。音楽である。練習室から10人の和音が聞こえてきた。







 

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