第53話 東京の空に舞う五輪
冴子のメルセデスは中央高速を走った。調布インターを降りると味の素スタジアムとも呼ばれる東京スタジアムが見える。ここには冴子は沢山の思い出がある。家を建てようと土地を見に来たこともあった。億の金が要ると知り逃げるように帰った記憶もある。
清水エスパルスとFC東京の試合を見に来たこともあった。清水エスパルスの惨敗の苦い記憶もあるが、その後の敦也との熱い思い出も。翔馬と会ったのもここであったが、翔馬のことは冴子の意識の外である。
東京スタジアム、この場所はかって、旧陸軍航空隊の基地であった。
東京スタジアムの建設が始まるまで広大な基地の跡地には、戦闘機の格納庫がポツンと残り、ドーム型の壁は朽ち、ガラスは破れ、戦後の東京の一部がそのまま残っていた。
昭和の終わりごろから整備が始まり、徐々に現代の顔に変わってきた。
ここは最も最近まで戦前の東京の面影を残す場所のひとつであった
昭和とは様々な文化が生まれ、そして壊され、新しい社会を作りだす時代でもあった。
昭和20年、東京の空を襲ったアメリカのB29爆撃機を迎撃する日本陸軍航空隊の戦闘機がこの地から飛び立ち、大空で死闘を繰りひろげた。
基地を北に向かえば、陸軍航空隊の誇る傑作機を次々と生み出した飛行機工場があった。
”中島飛行機製作所武蔵野工場”
創業いらい3万機近い飛行機を生産した名門である。現在は4輪駆動車で有名な自動車メーカーとなっている。
この当時日本は何故か、陸軍と海軍は反目しあっていた。影響は民間企業である航空機製造会社にまで及んだ。
結果として陸軍、海軍それぞれに傑作戦闘機が生まれた。
陸軍 一式戦闘機 「隼」
海軍 零式戦闘機 「零戦」
優秀な技術によって生み出された両機も、敗戦の色濃くなる中で悲劇の翼となった。
物資乏しく劣勢に立たされた日本と日本人を守るため、自らの命を捧げた戦士たちの魂と共に、南の空に舞い本土の空に舞い、そして散った。
平和が訪れた日本は驚異的な復興をとげ、東京オリンピックを開催し、平和国家とし再び世界に向かって羽ばたいた。
オリンピックの花、マラソンで日本の円谷幸吉選手とエチオピアのアベベ選手の映像はいまでもTV でよく放映される。
そのマラソンの折り返し地点がこの競技場のすぐ近くにある。
まさにここは隼が生まれ隼となって飛び、平和の空をとぶ不死鳥となって甦った奇跡の地。
1964年10月10日、東京五輪の開会日、東京の空には航空自衛隊の戦闘機が描く五輪の煙の輪が広がった。
平和の翼が描いた五輪は、東京の青い空に描かれ、宙に消え、そして心に残った。
規模は小さくなったが飛行場は今も、調布空港として運営されている。
八丈島との定期便など近距離の旅客便として、重要な地位を占めている。
その空港の一角に整備工場を兼ねたコーヒーショップがある。
この店のコーヒーの香りは
〈懐かしく新しく〉〈戦争と平和〉〈挫折と希望〉〈悲しみと喜び〉〈過去と未来〉 それぞれにそれぞれの想いを抱かせる。
東京スタジアム、隼の翼そして負けても甦る不死鳥。サッカー少年の聖地といえる。
隼人が隼の聖地を訪れるのはいつになるのか。その日を待とう。今はただボールを蹴るのみ。
敦也になきふ会のメンバーから次々とお誘いのLINEが舞い込んだ。
予想通りであるが何しろ相手は多士済々、歴戦の猛者ぞろいである。昔から広く浅く付き合うことは難しいといわれる。同じように均等に付き合ってもそうは思われない。誰かと深く付き合っているに違いないと思われる。国と国でも同じようなことが起きている。
こんな時の処理に長けた人物が実は敦也の身近にいるのだが、敦也に果たしてその人物が誰なのか分かるだろうか。分かっても相談できるのか。これが最も難しいことかも知れない。
もしこんな嬉しくて嬉しくない複雑な悩みを抱えている人が身近にいたら勇気持って進言しよう。「冴子さんに相談しなさい」いや冴子でなくてもあなたの奥様なら誰でもいいと。
ともあれ旦那様がもてるのは危険が多いのは事実である。
奥様がもてるのは問題はほとんどない。黙っていれば分らないことだから。
☆☆☆
「パパもう諦めちゃったの?」同じことをまたいわれた。
萌音に言われるのも当然、和幸のマウンテンバイクは埃を被っていた。このバイクは幸恵と萌音のプレゼント。贈り主が毎日見ているのに使わなければ、家庭崩壊の引き金になりかねない。
和幸はマウンテンバイクの埃をはらった。メーターの積算計は20㎞で止まっていた。
河川敷のサイクリングロードを走った、もう10㎞は走ったろうとメーターを見たらまだ3㎞しか走ってなかった。Uターンして戻ろうかと思ったが、幸恵と萌音の声を思い出し、小休止してまた走った。あのいやな思いでがあるゴルフ練習場が見えてきた。
自動販売機のお茶を飲みながら金網の先の打席を見た。蘭が自分とよく似た体形の男と仲良く練習をしているのが見えた。またいやなものを見てしまった。
男は蘭の後ろから背を回し、抱きかかえるようにして、一本のクラブを振っていた。
女に教える男にはこれが目的のヤツもいる。和幸にはあの五反田の未遂事件が思い出された。よかった。新しい男が出来たのか。これで自分は災難から免れる。心からそう思った。
和幸の目は冴子を探していた。見当たらない。今日はお休みか、少々寂しさを感じた。
和幸がゴルフを始めたきっかけはこの場所で始まった。目の前に有るバンカーで男に教わる冴子を見たのが始まりだった。教えていた男は自分と同じくらいの歳に見えたが恰好よかった。
ムラムラと嫉妬のような気分が生まれ、ゴルフショップに走った。若い高校生のような女の子に指導されながらクラブを選んだ。
ゴルフは女の子に接近できるモノとその時思った。確かに女と接近できた。結果生まれたのは蘭との恐怖体験。その蘭に男が出来た。気持ちがまたゴルフに戻って来た。
帰りのサイクリングロードを一気に休まずに走った。運動をするのも気持ちしだい。いや女しだい。
河川敷の対岸から管楽器の音が聞こえてきた。ここは吹奏楽部の生徒の練習の場でもあった。
和幸よりも辛い練習をしている子どもたちを見習ってほしい。女なしでもしっかりとやっている。
幸恵の前では音楽しか聴かなかった。だがあれは実際には幸恵の声を聞きたくないので逃げていたことを自覚した。萌音とは会話ができていたのが何よりの証拠であった。
いずれにしてもマウンテンバイクもゴルフクラブも、無駄にならずに済んだ。
睡蓮のレプリカにはやや不安が残る。不満が溜まった幸恵の拳が睡蓮の池にかかる橋を殴らないかと、本気で心配になった。
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