第52話 泣くなファゴット泣くのは名古屋の空
月見ず月、早苗も雨の如く乱れる花は五月の空。高校生の運動部は各地区毎の大会の真っ最中であった。全国大会を目指して試合に臨む各運動部の壮行式に杏里と萌音の吹奏楽部は連日の出番であった。
隼人のサッカー部は目指すは冬の国立。全国高校サッカー選手権。各県代表決定予選は9月から行われる。今は地区予選前の交流戦。地区予選前の最終調整である。1回戦は杏里のファゴットの応援も空しく残念な結果に終わった。だが泣くな目指す国立の予選はまだ先だ。
杏里も泣くな、泣くのもまだ早い。吹奏楽部の本当の目標は全国吹奏楽コンクールにある。
勝って泣くも負けて泣くも自分の舞台で泣け。吹奏楽部の諸君、君たちの舞台は10月の名古屋のはず。
運動部の応援はいわば家庭の事情。運動部のない学校はどうすればいいのだ。
社会人の楽団はどうする。
全日本吹奏楽連盟主催、全日本吹奏楽コンクール。今年は記念すべき第70回大会。
目指すは名古屋国際会議場。秋の空に慶音を捧ぐはいずこのチームか。
課題曲は4曲 そのⅠ ”やまがたふあんたじぃ~吹奏楽のために~”
杏里と萌音にそれぞれファゴットとフルートのパート譜が渡された。
「お前な、これも練習しとけ」
先生が杏里に渡したのはオーボエのパート譜であった。
曲によって楽器編成は変わる。二刀流の杏里は役に立つ。先生と部員の期待に応えよう。
萌音にはピッコロのパート譜が。二人とも揃って二刀流。
バズーガ砲のような大きなファゴットと、手のひらに隠れそうなピッコロが共に活躍するのが課題曲の妙。高音と低音の色と艶と渋みは君たちしだい。響かせよう尾張の空に。
杏里にとってオーボエはいわば本業回帰。借り物ではない使い慣れた自分の楽器が使える。
机の引き出しにしまっておいた、葦の木を二枚重ねたオーボエのリードを唇にあてた。
リードは適度の湿りを保ち、唇になじませなければならない。隼人の唇の感触が甦った。
冴子のスマホに信じられないLINEがあった。相手は蘭。蘭にはLINEも電話も教えたことがない。どこから情報が漏れたのか。いろいろ考えた末に思い出した。ゴルフ練習場で冴子と蘭は昔風のナンパをされて、昔風に喫茶室に冴子と蘭は誘われた。冴子はナンパ男と蘭を残してスッと消えたはずであったが一つだけミスをした。
男が蘭にLINE交換をしましょうと言った時、冴子も思わずスマホを振ってしまった。
冴子自身は意識しなくてもLINE の「ふるふる」機能が働いてしまった。
文明の発達の裏には必ず不便が付いてくる。
別れを惜しんで去る列車に手を振ると、知らぬ間に友達が増えていた。
信じられないのはLINE の中身である。目を疑った。ハズキルーペをTVの通販番組でやってた時どうして注文しなかったのかと悔やまれた。目をこすってもう一度見た。間違いではなかった。視力が落ちていた訳でもなかった。
「けっこんします」
これ以上の驚きは経験したことがない。なんでも起こりうるのが人間社会だと痛感した。
相手はあの男以外には考えられない。あのゴルフ理想体型の男。
信じられない気もちで返信した。
「おめでと、ふるふる、よかったね」
「ふるふるって、なに? かれしょこん」
「ふるふるちがいよ」
「かれのもの、かたかったわよ」
どこまでも一致することがない冴子と蘭であった。ともかく楽しみが一つ消えたことは確かであった。
蘭ほど楽しませてくれた人はいない。代わりを探すのは至難の業。諦めるしかないのだろうか
柄になく気分は落ち込んでいた。
蘭とLINE の「ふるふる」で冴子はもう一つのミスに気が付いた。築地本願寺で盛り上がった時全員でやってしまった。一斉に「乾杯 」ふるふる
案の定、その日から敦也が悩まされることとなった。お相手は勿論、なきふ会のご婦人たちである。危うし敦也。不惑とは40歳だけを言うのだろうか。45歳は違うのだろうか?いずれにしてもグループ交際とは必ず一組が残る仕組みになっている。それだけは避けたい。そういえばあの蘭のお相手もそんな歳。ましてやあの蘭のこと。蘭が戻ってくる可能性は十分ある。なにが起きるか分らないのが人間社会。
蘭を七十士会のLINEに招待すれば何かが起きそうな気がする、面白そう。結婚した蘭だからこそ面白い。冴子にとって七十士会のLINEは希望のふるふるになりそうな予感がした。
冴子に隼人から電話があった。「負けました。隼の聖地をお願いします」
試合に負けた時の男は女に縋りたくなるものらしい。杏里がファゴットとオーボエで忙しくなったので隼人の縋る相手は冴子だけになっていた。
プロの幻の夢から覚めたばかりの俊介と、テニスクラブで見たあの彼女。
試合に負けて落ち込む隼人とあの雨の日に車に乗せたあの彼女。
落ち込む男とときめく女たち。
4人まとめて合わせたら何が起きるだろう。想像できない程の何かに違いない。
冴子の夢と空想の世界は初夏の空のように広がった。
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