第22話 紹介するのも趣味のうち
冴子は神宮前の美容室にいた。定期的なカットとカラーリングである。それぞれ別の担当者がいる。赤坂時代から指名をしていたカットの担当美容師は辞めたという。独立して開業の準備中らしい。店長から若い男性美容師を紹介された。
美容師らしいと言えばいいのだろうか、やや中性的な衣装を纏ったその姿は一般的な会社勤めの男性と明らかに違う個性を感じる。辞めた前の担当者もそうだった。
他人と同じことはしない。技術の追求のためにだけに生きる。そんな人だった。
「目の前にいる美容師の男性もそんな感じをもっている。
「ご要望はありますか?」
「お任せします。あなたの考えでお願いします」
初めての美容師に全てお任せするのは勇気が要るものである。
特にカットは元に戻せないものであるから慎重になる。客も美容師も。
普通、美容師はそれまでのイメージを大きく変えるカットは選択しない。
今日の冴子のように、全てお任せとは難しい客の部類に入る。
冴子はこの美容師の力量を試してみたくなった。出来上がりが少々自分にあっていないと思っても数か月もすれば髪は伸びる。
彼は鮮やかなシザーさばきでカットを進める。シュッ、シュッと髪をカットする軽い音と同時に床にはサラリと冴子の髪が落ちた。切りすぎでは、と思うほどであるが彼は躊躇せず進める。
「いかがでしょうか」鏡に映った冴子の後ろに立った彼の顔は自信に溢れていた。
彼は手鏡を持ち、冴子の後ろを半周した。
「お任せしてよかったわ。素晴らしいわ」
「これからもよろしくお願いします、鈴木といいます」
「鈴木さんは出身はひょっとしたら静岡?」
「はい、加美町です。加美出身の加美容師です」
しゃれも上手い。
鈴木さんの姓は全国にいるが静岡は圧倒的に多い。
あの小型車で有名な自動車メーカーの社員の約半分は、鈴木さんと言うらしい
加美町にはその自動車メーカーがある。今は合併して浜松市の一部となった。
浜松とは言わず、加美町と言ったのはあの町に強い思い入れがあるのかも知れない。
帰宅した敦也はヘアースタイルを変えた冴子を見て。バッグを床に落として冴子を抱きしめた。熱いキスをしたあと「どこでやったの?すごくいいよ」子どものように喜んで見せた。今夜のベッドの様子が想像できた。
しばらく俊介にショーをみせていない。冴子の部屋の明かりは消したが俊介の部屋も暗いままである俊介の窓は西に向いている。
強い夏の西日を避けて午後になったらすぐにカーテンを降ろす。
カーテン越しでも様子は分かる。いまは明らかに俊介の部屋には誰もいない。
俊介にはまだ電話番号を教えていない。新しい通信方法を考えよう。
俊介の父はテニス倶楽部の会員となっていた。俊介のテニスに打ち込む姿をみて自らも中高年の初心者向け教室に通うようになり、その面白さを知った。会員となることで夜遅くまでコートを使用できる。熱い日中を避けて夜、練習をするようになっていた。
今日は俊介がコーチとなる。
「違うよ、バックハンドは右手のV字を左の角に持ち替えて」
俊介は学校でコーチに教わった通り父に教える。自分が教わった何倍もの厳しさで。
「お父さんシューズが会ってないよ。ここはハードコートだからハードコートように履き替えなくちゃ。テンションは48ポンドくらいがいいよ」
テニスショップで得た知識をここでも披露した。
俊介にとって生まれてはじめての体験である。父に教えるとは。新鮮な喜びであった。夏休みの間は毎夜の恒例になっていた。
今夜は父にとってもうれしい夜である。ビールがうまかった。
明日体が痛くて動けないのは分かってる。分かっていてもやりたいのは独身の時に経験済みだ。相手は妻ではなかったが。
冴子は最近下の階のあの女の車が動いていないことに気付いていた。翔馬との関係が終わったのだと考えるのは当然である。
あの美容師の鈴木さん、彼を紹介したらどうなるだろう。
鈴木さんは私と同じくらい、25歳くらいだろう。彼女の趣味に合ってるはずだ。面白い。
鈴木さんに恋人がいたら?
ふふふ。もっと面白い。奥さんがいたら?もっともっと面白い。
冴子のいたずら心は留まることを知らない。
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