第21話 外したストリングのS&残ったS

 夏の強い太陽が西の空に消え、残された雲を赤く染める。白いマンションの壁に描かれた光のアートもやがて消え、各戸の窓に明かりが灯りだし遅い都会の夜が始まる。

 明かりも点けず壁に背を預け床に座り込み、膝の上に置いたラケットを見る。

 ストリングに挟まれた振動止めのS&Sのマークが、俊介の心を打ち付ける斧のように見えた。

 一個を外し、壁に投げつけた。ころころと転がり。足元に戻ってくる。拾って握りしめた手に涙が落ちた。震える手にもう一滴の涙が、その手をじっと見つめる。あの日ストリングにS&Sと挟んだ冴子の指に触れているように感じた。


 どうして、どうして、あの人はボクにあんなに優しくしてくれたんだ。あの日がなければ今日こんなに悲しい気持ちになることは無かったのに。

 ボクはあの人を窓から見ているだけで幸せだったのに。


 ばかやろうと呟いた口とは裏腹に胸の中にはもう一度あの人の声を聞きたいと思う自分の声が聞こえた。涙で濡れた振動止めをポケットに収めた。

 捨てることができない自分に弱さを感じた。

 濡れた手でストリングに残された&を外しポケットに収めた。

 ストリングにはS一個が残った。俊介一人。


 窓を開けばあの人は見えるはずだ。だが今は窓を開ける勇気がない。

 カーテンの隙間に目を当てたが涙で見えなかった。いつまでも眠れない。

 あの頃は辛い毎日だった。受験勉強の辛さに戻りたい。今の気持ちを消し去ることができるなら。初めて味わう失うつらさの涙の味だった。


 5階の彼女は不思議な気持ちで過ごしていた。上の階のあの女はガソリンスタンドのオープンの日、少年を車に乗せた。年下の男が趣味だったのか。それは自分と同じだ。自分は翔馬以外は考えられない。同じ趣味とすればあの女は翔馬には関心はないのかも知れない。なぜ自分はあの女にライバル心を抱いていたのだろう。


 冴子に対して持っていたライバル心は急速に変化した。相手はあの女ではない、翔馬自身の心の変化だ。自信はあった。自分の才覚とまだまだ衰えなど感じないこの体がある限り若い男はいつでも手に入る。優れた経営管理能力を持つ五反田の彼女は新しい目標を企画書に書き入れた。翔馬よりもっと若い男と。


 五反田の彼女との別れを決めた翔馬は彼女からのプレゼントの処理を始めた。

 (時計は残す、高級店だし時計に罪はない、貰っておく)( 靴にもベルトにも罪はない、貰っておく)( ネクタイ、いっぱい貰った。貰った手前、締めてみたことはあるが趣味が悪い、捨てる) ( ブレスレット、売れば金になる、貰っておく)

( ゴルフクラブ、若い部下にあげれば喜ばれる。オレの言うことを聞くようになるだろう、貰っておく)

 Tシャツが残った。さてこれをどうしよう。ウエスにするには高級品だしもったいない。利用方法があるかも知れない、貰っておく。


 ゴルフクラブを車のトランクに収め、Tシャツは助手席に置いた。

 駐車場を出て走り出してから気が付いた。

 オレが今掛けているサングラス、忘れてた。これもあの女のプレゼントだった。

 翔馬はサングラスを外すとドアーガラスを下げ、ポーイッと捨てた。

 対向車線に落ちたサングラスはトラックのタイヤの下でグシャッと潰れた。

 スッキリした。これで全部なくなった。


 今日は本社で所長会議がある。翔馬の車は玉川を渡った。

 首都高速道路の芝浦の近くにきた。清水エスパルスの親会社の倉庫がたくさんある。静岡にいた頃を思い出す。近所には同じ会社に勤める人が多かった。子どもたちはみんなエスパルスを応援していた。


 そうだ、このTシャツはエスパルスのフアンの少年にあげよう。知っている少年がいる訳ではないが誰でもいい。処分が目的だから。


 所長会議は終わった。翔馬の営業所は成績優秀で担当取締役から握手を求められた。

 午後、翔馬は東京本社時代のお得意先を挨拶に訪れた。三つの会社を回り横浜へ帰ろうと一般道を走ると高校生がサッカーの練習をしている。車を停めしばらく見ていた。一人の少年がネット近くまでボールを追ってきた。彼は一番よく走っている。

 目立った。少年はなんども翔馬の近くまでくる。


 この少年にあのTシャツはを上げよう。エスパルスのフアンでなくてもいい。

 練習に取り組む熱心な姿をみて翔馬は決めた。

 練習が終わるまでその場で待った。

 いつも通りネットの近くまできた。


 「君、これ上げる」包をネットのなかに投げ入れた。

 少年は驚いた顔をみせたがペコリと頭を下げ校舎へ向かって走っていた。


 マンションで包を開いて驚いた。あの女の人に貰ったTシャツと同じデザインだった。貰った場所も同じ、ネットを超えてポーンと投げたやり方も全く同じ。


 不思議さを感じながらもこれをどうしようと考えた。交互に毎日着るか、でもそれなら同じものを毎日着ていると思われる。高校生になって少しお洒落になっていた。


 そうだ杏里に上げよう。ペアールックでデートすると恰好いい。

 このデザインなら女の子でも可愛い。杏里の喜ぶ顔が浮かんだ。

  № 8810 ハ ヤ ト    

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る