第15話 初めて聞いたマドンナの声
杏里を失った俊介は寂しさと悲しさに耐えきれず一人街をふらつくようになっていた。街に何か目的があるわけではない。だが一人だけ孤独に部屋にいることが苦しくて人の多いところを選んだ。
今日はショッピングモールでアイスクリームを舐めながら、中央広場のベンチで杏里の仲間の女の子二人と無駄な話をした。杏里も最近は仲間とは離れている。
髪は黒く戻し制服も規則に従い、普通の中学生になった。隼人との恋人関係を続けたかった。隼人が真面目に高校生生活を送る事を選んだのをきっかけに、杏里にも心の変化が起きていた。隼人と同じ高校に入りたい、少し勉強もしなければならない。
「ねえ俊介、私と付き合わない?」女の子の一人が冗談を言った。
「駄目よ俊介には私がいい、私のほうがうまいよ」もう一人の女の子も冗談を言った。
少し前までの俊介なら、もうこの時点で下着を濡らしていただろう。
だが今は少しだけ大人になっていた。この子たちとやったら永久に杏里は戻ってこない。わずかに残された杏里との絆が切れるのが怖かった。
「ねえ、隼人の練習みにいかない?」「俊介も一緒に行こう、杏里もいるよ」
杏里に会えるとはいっても、隼人に夢中になっている杏里を見るのはもっとつらい。
「俊介もサッカー部に入ったら?」女の子二人の冗談は俊介の心を無視してかってに弾む。それに俊介の中学校にはサッカー部はない。
「野球部もあるよ」俊介はそれまで運動部に入って男だけの世界に入り、つらい練習の毎日々を過ごすなど、考えてもみなかった。キャッチボールさえ経験がない。
「野球部に入ったらもっとモテるのにな」女の子の一言は少しだけ俊介を動かすものがあった。運動部はモテる。杏里が隼人を選んだのもサッカー部にいるからなのか。
俊介にほんの少しだけスポーツへの関心が湧いてきた。
「女の子もいる部はないの?」俊介の関心はやっぱり、女の子だった。
「テニス部はどお?コートも練習の時間も男女別だけど」
テニス部と聞いて俊介の頭に浮かんだのはスコート姿で動き回る女子選手たちであった。理由はともかくテニス部に入る決心をした。
テニス部には俊介と同じ1年生の男子生徒がすでに10人ほどいた。
3か月ほど遅れたがなんとかなるだろう。
コーチは杏里の担任の先生であった。入部届けの用紙に記入した時、俊介の心に一瞬だけなぜか過去と別れる儀式をしているような気がした。ペンを持つ手が少し震えた。
コーチから練習の日程表と用意すべき用品のリストを渡された。
運動靴、タオル、Tシャツ、それだけであった。
初日、男子部員全員の前で挨拶が必要だった。約30人の前で自己紹介をする。
コーチに大きな声でと言われたが難しかった。大きな声でたくさんの人の前で自己紹介をするのも初めてのことだ。ぼそぼそとだが挨拶は終わった。ストレッチと準備運動にかける時間の長さに驚いた。すぐに練習に入るものと思ってた。次はコートの周りを走る。3周する。次は逆回りに3周した。なんとかなると思ったのは甘かった。
2年生と3年生の練習が始まった。もう一人のコーチの先生が指導している。
1年生とは違うようであった。1年生の中でも俊介は特に違う。ラケットを渡された。「右手の親指と人差し指でできるVの字を八角形の右の角に合わせる。ラケットの面を垂直にして左手を添える。胸の前で構えて腰を落として、まえを見る」
俊介一人だけの特別メニューである。基本の基本を先ず教わった。
「次の練習日に要るのはこれ」俊介に渡されたリストにようやくラケットの名があった。リストに学校指定のテニス用品店の名があった。ショッピングモールの中にあるスポーツ用品店の名ではなかった。
両親はテニス部に入りたいと言った俊介に大賛成した。俊介が自分の意志で何かをしようとする姿を初めてみた。コーチに言われた予算はすぐに渡された。
学校指定のテニス用品店は、俊介のマンションから歩くと1時間ほどかかる国道沿いにある。
店員さんは先ずシューズを出した。「えーと、俊介君の学校はクレーコートだったよね?」俊介はクレーコートと言われてもなんのことやら分からない。
店員さんはノートを見て確認した。「大丈夫だ、クレーコートだ」
コートに合わせてシューズを選ぶのも初めて知った。
ラケット選びも店員さんにお任せした。3種類ほど持ってみた。コーチに教わった親指と人差し指のVの字を合わせてみる。
「どお?握った感じ」よく分からない。「何が違うんですか?」「グリップのサイズ、もう少し太い方がいいかな?」店員さんの選んでくれた3/8インチに決まった。「ストリングだけどね。ナイロン、ポリエステル、どっちがいいかな」
俊介には分からない事だらけだ。店員さんの独り言と思うようにした。
「ポリエステルで50ポンドにしておこうか」もう数学よりも難しい。
真新しいラケットを抱えて店を出ると白い車が停まっていた。女の人が俊介のほうに顔を向けた。サングラスをしていたがその人の顔はすぐに分かった。向かいのマンションのブラインドの隙間からいつも見ているあの人だと。
車のガラスが下がり女の人の声が聞こえた。
「乗ってかない?君の家知ってるよ」
俊介の心臓がドキドキと音をたて震えるように感じた。脚はもっと震えていた。
しかしその脚は俊介の考えも聞かず勝手に動き、冴子が開いた後部ドアーの中に吸い込まれた。
「テニス始めたの?学校はどこ?」
初めて聞いた冴子の声は受験勉強の時にラジオで聞いた、深夜のディスクジョッーの甘い声を思い出す。
「応援に行ってもいい?」応援といわれても試合はおろか、まだボールを握ってもいない。
どう返事をしたのかも覚えていない。頭の中は他人の脳と入れ替わってしまったかのようになり、ぼおーっとしたまま家に着いた。
冴子の化粧品と大人の女性の香りが俊介の意識の中にしっかりと残った。
今日は初めての両方向有線通信であった。
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