第54話 二十年前

「人生を決める選択、か」

 慧が帰った後、相川は散らかった研究室で一人、コーヒーを飲みながらぼやくように呟いていた。

 あの時、自分は大きな決断をした。しかし、その時の選択は消極的な行動の結果だったと言うしかない。

 まったく前向きじゃなかった。

 むしろ、成功するなんてこれっぽっちも思っていなかった。

 ただ、しがらみのない場所に行きたかっただけだ。

「そういうところは、気づかないんだよな、彼」

 真っ直ぐに自分を見つめて、真相を暴いた慧を思い出し、抜けているんだからと笑ってしまう。

 ひょっとして、彼の中では天才は後悔しないものとなっているのだろうか。

 翔の言動にも違和感を覚えていたようだし、そういうものなのかもしれない。

 相川が持つ天才のイメージとは違うようだ。

「まあ、俺は天才ではないけど」

 常に前向きだと思われていたのは意外だなと、相川は苦笑する。


 二十年前。相川成人を襲ったのは、とんでもない選択を迫られる状況だった。

 卒論として用意していた理論を発表するかしないか。自分の生涯を、くだらない争いに投じるかどうか。

 もちろん、発表しなければ卒業できない。しかし、このまま発表するのは、あまりにリスクのあることだった。

 周囲から成人を見る目が、どう変化するか。そして研究者としての人生がどう変化するか。そんな大きな問題を含むものだった。

「どうするかは、君が決めてくれ」

 山田在大は、申し訳なさそうにそう言った。

 論文そのものに問題がないだけに、こういう事態になって申し訳ないと思っているのは、間違いない。しかし、その奥に潜むのは、このままでは受理できないという態度だった。

「解ってます」

 成人がその場で答えられたのは、この一言だけだった。

 別に自分が書いた論文は、原発に直接かかわるものではないと、大声で主張することもなかった。

 ただ、恩師の困惑した目を見て、この人も前代未聞の事態の中にいるのだと理解していた。

 それに、世間では核分裂と核融合の差を理解していない。それに誤解を招くことは避けるべきという、大学の中に漂う微妙な空気が解らないほど、鈍感ではなかった。

 ただし、どうしてという思いがないわけではない。

 素直に取り下げるのは、自分の研究の負けを認めるような気がした。新たな可能性が、ここで握りつぶされるような気がした。そこで成人が取った作戦が、あのSF仕立ての論文というわけだ。

 元ネタを知っているのは、山田と同じゼミのメンバーだけ。彼らを説得すれば誤魔化しが効く。

 ただし、実行に当たって、それを誰かに相談することはなかった。あの時、自分の意見を全面的に受け入れてくれそうな人は、残念ながらいなかったのだ。ただ、どうするんだと、面白半分に見ているだけだった。


 ゲームの中で今の自分が宇大として登場するのは、あの時にこういう人がいたらよかったなという、ちょっとした願望によるものだ。

 周囲は敵ばかり。いや、態度を決めていない人が大多数だったから、味方がゼロだったというのが正確か。ともかく、そんな状況だった。

 自分の意見が正しいのかどうか。常に不安になり、疑心暗鬼になったものだ。だからせめて、ゲームの中では理解者を登場させよう。そう思ってのことだった。

 せめて、ゲームの主人公には、自分を貫いてもらいたかったから。

 それが死という結末であっても、自分の信念を、自分の研究を曲げてほしくはなかった。

 自分が、大きくねじ曲げてしまったからこそ。

 自分が、研究人生を賭けることが出来なかったからこそ。

 石見翔には、それがどんな困難なことでも、最後まで貫き通してほしかった。

 たとえそれが、残酷な結末だとしても――


「こういう形に持って来るとはね」

 書き直された論文を受け取った山田は、呆れたように言った。たしかに、これでは正式な論文とは呼べない。証明不可能なことを、小説のようなことを書き連ねただけだ。それは百も承知で賭けに出た。

 成人はぎゅっと拳を握り締め、ここで決別しなければと決意した。

 これ以上、山田の傍にいるのは辛かった。

 この人が何か言ってくれれば。

 そんな思いが、論文を書き換えてみて大きくなっていた。

 でも、この人は未だに決断できずにいるのだ。

 だったらもう、この人から教えを請うのは間違っている。

「卒業させてもらえれば、それでいいです。大学院に関しては、別の分野に移りますから」

「ほう」

 この時、すでに十月になっていた。

 大学院の院試があるのは六月頃。成人は今年の六月の試験で、ちゃんとこの大学の大学院に合格していたのだ。当然、物理学研究科だった。

 将来、物理学の研究者になるはずだったのだ。それを、の瞬間に辞める決断をした。そういうことになる。

 二度とこの大学には戻らない決心も、同時にしていた。

「大丈夫なのか」

「ええ」

 一年、留年した方がいいのではないか。

 ほとぼりが冷めた頃、ちゃんとした論文を提出すればいいのではないか。

 そして気兼ねなく大学院に進めばいい。そんな山田の提案に、成人は首を横に振った。

 この段階で、すでに人工知能の研究者にアポイントを取っていたから、ずらす必要はなかった。すでに退路は断った後だった。一年間はその人に教えを請うつもりだったので、ここで下手に卒業できないのは困る。

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