第52話 立ちはだかったのは

「ないとは言えないかな。やりたいことが出来なかった、その挫折感は今でもあるよ」

「でも、先生は意図してあの論文を出したんじゃないですか。絶対に受け入れられない。それが解らなかったはずないですよね。それにこの論文、ちゃんと読み解けば、普通の物理学の論文です。先生は、悪戯しただけだった。このゲームみたいに」

 慧はそう言って、もう一つのレポートを差し出した。

 それは相川の論文を、物理学的に正しく書き直したものだ。いや、正確に言うと、相川が当時専門にしていた分野に書き直したものだ。

 それに相川の顔が驚いたものになる。

「これ」

「ああ。半分は山田先生が書いたものですよ。さすがに俺に、ここまでの数式は理解できませんから。全部書いてくれればいいのに、山田先生はお前も理解していないと駄目だって、なかなか許してくれなくて大変でしたよ。

 でもこれ、こういうことですよね。先生はどうして、これをSF仕立てにしたのか。それがこの論文の最大の謎なんですよ。真正面からこの論文を受け止めてはいけない。そんなトリックを仕掛けていた。さすがに俺がこれを指摘した時、山田先生は驚いてましたけどね。つまり、この二十年、誰も気づいていなかったんです。どれだけ物理の才能がある人も、額面通りに受け取っていた。

 そもそも、あれだけでもちゃんと論文として成り立っているのだから、他に読み方があるなんて誰も考えないんですよ。今では天文学や宇宙論の学者に引用されているほど、これはしっかりと書かれすぎていた。完璧な論文だった。さらに言えば、論文にこんなパズルを仕掛ける必要はないですからね。気づかれないのは当然って話です」

 慧の指摘に、そうだねと相川は笑った。その顔はようやく、吐き続けてきた嘘を見破られてほっとした、そんな顔だった。

「それで思ったんです。この理論は、ゲームの中の石見翔が提案したような、危ういものだったんじゃないかなって。それで、わざとSFの中に紛れ込ませたんじゃないですか」

「まあね。それほど危険な代物ではないけど、素直に発表するには時期が悪かったんだ。ここまで辿り着いたら隠す必要はないね。これを大学で発表できなかったんだよ。あの、東海村での臨界事故が起こってしまったからね」

「――それで、ですか」

 ようやく最後のピースが揃ったと、慧は頷いた。この難解な論文が生まれた背景。相川が基礎物理学から離れる原因。それは自分の力ではどうにも出来ない、社会的出来事のせいだったのだ。

 これも、あのゲームに一般人では対抗できない軍が出てくることで気づくべきだったか。ともかく、相川一人ではどうしようもない問題が、当時の彼の前に立ち塞がっていたのだ。

「問題が大きすぎたってことですか」

「そうだね。そしてナーバスな問題だった」

 そう、相川の論文はエネルギーに関するものだったのだ。正確には核融合に関するもの。書き換えられた論文に、どうして恒星のエネルギーが何で出来ているか。それを考えればすぐに辿り着ける。

 ではどうして、これを素直に発表しなかったのか。不可思議な論文へと変換されたのか。

 この問いだけが、慧には辿り着けなかったのだ。当時、慧はまだ生まれていない。二十年前にあった事故が関係しているとは、まったく発想できなかった。今、相川から聞き出して、それでかと気づいたほど縁遠いものだ。

 二十年前の一九九九年、茨城県東海村にあった核燃料再加工施設にて、原子力事故、正確には臨界事故が起こった。ウラン溶液が臨界状態に達し、核分裂連鎖反応が発生してしまい、二十時間も継続した。これにより、国内初の原子力事故の被曝による死者を出す事故となった。

 その時の状況を思い浮かべるには、二〇一一年に発生した東日本大震災。その影響で起こった、福島第一原子力発電所の原発事故があった時を思い出せば解る。

 事故の直後は原子力の印象は非常に悪いものとなっていた。原発は悪だと、議論もなく決めつけられていたところがある。もちろん、それがいいか悪いか。議論されてしかるべきだが、悪いものという印象がどうしても勝る。

 特に東海村の原発事故はウラン燃料の加工の過程で起こったため、より怖い印象を与えていた。暴走すると止められないもの。そんな印象が植え付けられたはずだ。

 実際に核融合の連鎖反応が起こると、簡単には止められない。事故の時は臨界状態を脱するのに二十時間も掛かっている。しかも、この事故では死者を出しているのだ。杜撰な管理体制が招いた結果とはいえ、より怖さが印象付けられただろう。

 そんな時期に、核融合によるエネルギー問題の解決の論文は、受け入れられるものではなかった。原発は核分裂であり、こちらは核融合だという主張さえ無理だ。

 さらに、たとえ物理学的に正しくても、自粛すべきというムードだったという。相川は純粋に物性物理学の分野からアプローチしただけだったが、それでも、簡単に受け入れられそうになかった。

「だから、意趣返しがしたくなったんだよね」

 相川はそこで初めて、暗い笑みを浮かべた。

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