010_戦争無き世界/9/狼の目
メールを送信すると、陽輝は全身の力を緩めた。メッシュのハイバック・チェアに身を委ねる。
今送ったメールは三日かけて作ったアプリケーションを、ネットワーク上の複数のストレージへ分割してアップロードしたことを知らせる内容だ。
セキュリティ機能の充実したメールソフトで送ったので、送信時には自動で暗号化されている。相手にアドレスやパスワードを知らせることはしなかった。そんなものは必要ない。
構築するのに二日、作動の検証とバグ出し・修正に一日をかけた。
といっても、それほど大した内容ではなく、既にあるものをリファインするような作業だった。基本は仕様書に従うだけだ。
陽輝は使い勝手やチェック機能など若干の改良を加えて、そのことは発注元にメールで知らせている。
しかし、この一件の仕事だけで、陽輝は十分な報酬を得ていた。実家住まいで療養しながらの身には過分なほどだ。
あとは発注元からの受領確認を待つだけだ。検証のログは一緒に提出してあるし、検証作業の手順と工程数も発注指示に沿っている。
メールは外にいても受けられるし、遠くにいかなければ対応もすぐできる……陽輝は立ち上がった。
着替えて出掛ける。といっても、目的はただの散歩だ。医者に言われているのもあるが、最近は外の風を心地良く感じることもある。
平日の午前中だから、住宅街は静かだった。
光が丘公園まで歩く。ここに来ると子供連れの母親たち、定年退職した老人以外にも、平日の休みを楽しんでいる人の姿が見られる。
陽輝は園内の芝生広場で足を止めた。桜は既に葉桜になっているから、花見客などもいない。
桜の花が散っていても、この季節の風は一年のうちでもっとも優しく、爽やかに感じられた。日中の昼間、木陰にいるとビールなど爽やかな酒が飲みたくなる。
陽輝は点在している大きなケヤキの下に腰を下ろした。新緑の中の空気を深々と吸っていると、携帯端末が音を発する。
取り出して操作すると、短い距離に投影される映像画面が開いた。
『ハーイ、ハルキ、元気ぃーっ?』
「君ほどじゃないけどな、トモエ」
画面に一人の少女が、弾けるような笑顔を見せていた。
色白の肌理が細かな若い肌に、鼻梁がくっきりとした小さな鼻と慎ましやかな唇で、瞳は「狼の目」と呼ばれる琥珀色だ。長いレッドブラウンの髪には癖がない。
トモエと呼んでいるこの少女は取引先の人間で、人種・国籍は不可解だった。実際に会って話しても日本語に不自然さはなく、それでいて世界のさまざまな言語を淀みなく話し、読む。日本人にもヨーロッパ系にも思えた。
『若いのに、元気がなきゃ駄目だぞーっ。しかもまだ、昼間なんだし』
「さっきまで検証をしていた。納品のメールは送ってる」
『へっ……あ、本当だ。納品してくれたんだね。えーと……うん、問題はないよ。すぐに受領メール送るね』
間もなく、携帯端末の画面にメール受信の通知が出た。
「ありがとう、トモエ。それで、今日はどうした?」
『ひどいなぁ。女の子がわざわざお話をしたがってるのに、理由なんて聞く?』
「君の場合は、どう返せばいいのかな」
『大丈夫だって。あたしが普段、ハルキと話す時はプライベートな話題だから……別に監視してるとかじゃないんだよ?』
「監視ならトモエがしなくても出来ているだろう?」
唇を歪めて言った陽輝は、それとなく周囲を伺う。
『大丈夫だよ。今、半径三〇メートルの空間に誰もいないから』
そう言ったトモエは、
『この前の調停紛争の後からハルキ、なんか落ち込んでるみたいだったからさ』
先日のトルクメニスタン調停紛争を結末まで見た後からずっと、妹・優奈の機嫌は悪いままだ。
「戦争代理人なんて最悪!あいつらがヘマをしたら、何の関係もない人たちが殺されちゃうじゃない!」
と、陽輝に怒りをぶつけてきた。
『災難だよね。妹さんの気持ちはもっともだと思うけど、ハルキがやったわけじゃないんだし。一番問題なのは調停紛争を選んだ人たちだもんね』
『鉄槌』と呼ばれる攻撃衛星からの制裁は、為政者たちが安易な調停紛争を選択しないための箍だ。
しかし、それがあっても調停紛争は絶えない。
「仕方がない。優奈には怒りのぶつけ所が、他になかったんだろう」
『優しいね、お兄ちゃんは』
優奈にしてみれば長兄の陽太は歳が離れすぎ、姉の沙也香は大学生で実家を出ている。身近にいるのは陽輝だけだった。
「ところでトモエ。君は普段、何をしている?」
『おっ、トモエさんに興味、あるんだね?』
「他にも、その……俺みたいなのを担当しているのか?」
『他はよく知らないけど……あたしはハルキだけの担当』
「そうか。いつもは何をしているんだ?」
『いろんな業界や業種向けのシステムとか補助アプリの設計もしてるよ。UIの改良とか、環境改善とか、要望はいろいろ寄せられてくるからね。それと……情報収集かな。ハルキが必要な時に情報提供が出来ないとダメでしょ?』
「いろいろ大変だな」
『そんなたいしたことでもないよ。システムを動かすだけのことなんだし』
笑顔の応えに、陽輝は変化の乏しい表情と抑揚のない口調で、
「トモエは趣味はあるのか?」
『うーん、オシャレかなぁ。ミリタリー系のコスプレとかも好きだけどさ』
「それは初めて聞いたな。そのうち、見る機会でもあるかな」
陽輝は無表情なまま言った。
『そのうち、見せられると思うよ』
応えたトモエの笑顔は曖昧だった。
映像通話を終えると、陽輝は立ち上がった。公園を歩いて一周してから帰宅する。時間は午後に入っていた。
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