007_戦争無き世界/6/懐旧

 陽輝は書籍の小さな文字を追っていた。

 若い母親や子供たちが不思議そうに見ていくそれは『二一世紀史』という、紙の書籍だ。いわゆる新書サイズで、オンデマンド印刷により手に入れた。最近では紙媒体の書籍が珍しい、とされる。

 この書籍にまとめられていた二一世紀後半の歴史は、世界調停機関・アカルナイ委員会に関わることばかりだ。そして現在も……。

「んー?……陽輝じゃないか?」

 男のような口調で耳触りの良い声に、陽輝は視線を上げた。

 濃いめのブラウンの髪がジャケットの背中に掛かっている、スラリとした長身の若い女が陽輝を見ていた。化粧っ気が少ない細面の顔は目鼻立ちが整っていて、若さと爽やかさが溢れるような印象だ。

琴音ことね?」

「ああ、やっぱ陽輝じゃん!」

 松宮まつみや琴音ことねは好意的な笑顔を浮かべた。

「久しぶりぃ!」

 眩しいほどの笑顔に「ああ」と短く応える様子を見て琴音は、

「あの、いろんなところから聞いてるよ……その、大丈夫なの?」

 心配げに尋ねる。

「なんとかな。琴音は外回りか?」

 彼女のスーツ姿を見て、陽輝は言った。

 琴音は初等教育課程の頃からの、地元の同級生である。高等教育課程ではそれぞれ異なる学校に進学していたが、その頃からの地元の友人グループでの付き合いは今でも続いている……はずだった。

「朝イチから、クレーム対応の帰りだよ……っと」

 パンツスーツの両足を投げ出すように、陽輝の隣に座る。

 身長一七〇センチを超えているので、並んで立てば陽輝とほとんど変わらない。今は都内の会社で営業をしていた。

「結構、キツいこと言われてねー。ちょっと憂さ晴らししたい時は、ここによく来るんだぁ……ほら、ここって緑が多いし、子供とか遊んでるからさ。なんか、優しい気持ちになれるじゃん?」

 陽輝は小さく頷いただけだった。

「陽輝、ここにはよく来てるの?」

 琴音の問いに陽輝は、

「近くに今、仕事で世話になってる会社がある。その帰りに、たまに寄る程度だ」

 改めて近況報告――主に琴音から尋ねられて、陽輝はフリーランスでやっている、と伝えた。

「へぇ、凄いなぁ!その年でフリーランスだなんて」

「フリーランスなんて言うと聞こえはいいが、実際は大変だ」

「でも、上司とかいないんでしょ?私も独立、考えよっかな~。上司とか取引先のオヤジとか、セクハラがひどいんだよね。巧妙だし」

 一時は女性が申し立てれば即、セクハラが成立していたが、それを悪用して示談金狙いのセクハラ申告や痴漢の狂言・でっち上げが増えたため、最近では当人の証言だけでは立件が不可能になっている。

「まあ、確かに冤罪はいけないけどね。しかし、第三者に見えなけりゃってのは問題でしょ?」

「気苦労が多そうだな」

 抑揚のない口調の陽輝が無表情のまま言うと、

「ホンット、そうだよ!顧客のおっさんはネチネチとケチつけては、私をジロジロと見てから「パンツは色気がないから、短いスカートで来い」とか言うし」

「ICレコーダーでも持って行けばいいんだ」

「やったよ……まあ、そのおかげで、ある取引先が今後十年間の長期契約を結んでくれたんだぁ。で、私はけどね。でもまあ、あの商談の時は痛快だったなぁ~」

 闊達に笑う琴音を見ていると、湿っぽい気分にならない。言いたいことを言ってよく笑った琴音は、

「あー、すっきりした!ありがとね、陽輝」

「俺は何もしてない」

「そんなことないって。充分、私を癒やしてくれたぞ……あ、そうだ」

 琴音は自分の携帯端末を取り出して、

「急で悪いんだけどさ……今度の二五日から月末までとか、予定とか入ってたりする?」

「なんだ、藪から棒に?」

「今年の大型連休、中教の頃のみんなとさ。パラオに行くんだよね……その。よかったら、一緒にどう?」

 少し頬を赤らめて尋ねる。

 『大分裂』時代以降、ご都合主義のグローバリズムや多文化共生という言葉は忌み嫌われた。

 また、人口の減少によって経済は交錯型ブロック経済と呼ばれる経済圏に移行している。そのため二一世紀前半までに比べると、国家間の往来は激減した。

 しかし、国交や国家間の往来が皆無になったわけではない。国交のある友邦国であれば、出入国は可能だった。

 それに交錯型ブロック経済の域内では渡航費用も安い。

 パラオは日本を中心とした、西太平洋経済域に入っている。現在の人口は一〇万人ほど。『大分裂』時代以後の世界では、珍しく人口が増えている国だ。

 海洋リゾートを中心に、観光地としての開発が進んでいる。年間に訪れる観光客数は延べ一〇〇万人以上と、人口の一〇倍以上が訪れる人気の国だ。

 そして日本との関係も密接で、常駐して働いている日本人も多い。

「たぶん、ホテルの予約はなんとかなると思うんだ。航空券も安いし」

「すまないが、いろいろと仕事があってな」

 気分が乗らない、というのが陽輝の本音だった。しかし、仕事があるのも事実だ。

「そっかぁ……まあ、仕方ないよね。陽輝って、いってみれば社長さんみたいなもんなんだし」

「零細企業以下だ、フリーランスなんて」

「ううん。凄いと思うよ。ごめん、いきなり変な誘いをして。今回さ、菜々美ななみとか懐かしいのが結構、集まるから」

 そう言って「あっ」と声を漏らした琴音は続けて、

「陽輝を誘わなかったのって、別にハブってるとかじゃないよ?退職したって聞いてから、その、誘ってもいいのかなって言ってる間に今頃になって……」

 琴音とは社会人になってから一度、取引先の関連会社に属する新人営業として、再会したことがあった。だから陽輝が退職した事情も知っている。

 うつむく琴音に陽輝は、

「気遣ってくれねのには感謝する。でも、当然のことだろう。鬱病を病んだ失業者なんて、誰も関わりたくないのが普通だからな」

 自嘲の言葉に琴音は立ち上がった。長身の肩を怒らせて、

「そんなことないっ!私は……私は陽輝を以前と変わらない友達だと思っているし、がんばって欲しいって思ってるんだから!」

 陽輝は小さく頷くと、

「お気持ちには重ねて感謝する。だけどな、琴音。鬱病に『がんばれ』は禁句だ」

 鬱病という病気については、既に社会的な認知や知識も広まっている。指摘されて琴音は、

「ごっ、ごめん。その、つい……」

「気にするな」

 そう言って陽輝は立ち上がった。


 琴音と別れた陽輝は代々木公園駅から地下鉄に乗った。都心部へと向かう。

 二重橋前駅で下車すると、歩いて東京駅の地下を八重洲方面へ通り抜ける。

 何度か曲がって大半が無人となっているビル街の間を抜けた先、辿り着いたのは唐突に始まる海だった。

 市街地が不意に途切れ、かつて昭和通りと呼ばれていた、今は車両が通ることの無い道路の向かい側には高さ三メートルもの波返しが立つ、護岸になっている。その向こうは何メートルも下を波が叩くのが、波返しのスリットから見えた。

 銀座岸壁と呼ばれているこの場所は、崩落対策工事が終了したつい最近まで、立ち入り禁止だった。

 東京は現在も日本の首都だが、かつてのような賑わいはない。

 かつての先進国では社会の発展から起きる少子高齢化に加えて、二一世紀半ばの伝染病流行による、世界的な人口激減の影響を受けていた。日本も例外ではない。

 しかし、この場所の変貌は人災だ。

 二一世紀前半は東京駅から海岸線まで直線距離で一キロ半ほどあったという。江戸が作られて以来、四百年かけて埋め立てた成果だ。東京周辺には埋め立て洲がたくさんあった。

 現在は竹芝から木場まで、かつての岸から一キロ近くが消失している。埋立洲も大半が消えたそうだ。

 十五年前の調停紛争の痕だった。

 離れたところでぶつぶつと声がした。

 見ると初老の女性が地面に膝をつき、海に向かって念仏を唱えている。それは弔いの念仏だろうか……最大で二〇万人とも言われた、調停紛争後の制裁による当時の犠牲者への。

 陽輝は打ち寄せる波の音を聞きながらしばらく立ち尽くして、それから岸壁を離れた。歩いて東京駅まで戻る。

 山手線で池袋まで戻ると、行きつけのラーメン店で遅い昼食を取ってから帰路についた。

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