002_戦争無き世界/1/空虚な目覚め

 無限に続くような黒が、短いグラデーションを経て青へと変わる緩やかな境界線の下に、白と青に輝く惑星が見えた。

 視点を下へと移していくと黒っぽい大陸と青黒い海が地形を描き、白い雲が所々に広がったり、無数の線や点を描いている。

 さらに下へ広がる昏い闇の部分……そこは陸地から離れた海上の、恒星からの光が届かない“夜”の領域だった。その闇の部分に、何度も明滅する光が見える。

 視点は衛星軌道上から、光が明滅している“夜”の領域へ移った。暗い海の上で瞬間的に煌めく光条と、物理的な摩擦熱によって生まれる光が、特定の方向へ向かって発せられる。あるいは反対側からも飛んでくる。

 そして空中に、ぼんやりとした光が浮かんだ。“夜”の領域で球状に浮かび上がる光の中には、いくつもの影が見える。それらは幾何学的な形状をしていて、空中に整然と並び、摩擦熱の光を発するものを水平線の彼方へと撃ちだしていく。

 また視点が変わった。

 現代的なビル群が建ち並ぶ都市。それも百万人単位の人が住む巨大都市だろう。広い道路や高架線が整備され、海岸線は規則的に配された街路樹が美しい。

 しかし、美しい街であるにもかかわらず、灯火が少なかった。むしろ次々と消えていく。夕暮れから夜に入ろうとしている時間帯なのに。

 そして暗くなる空の下、街路に立つ人々は不安げに空を見上げていた。中には怯えた様子で、足早に逃げ出す姿もある。

 その視線の先で暗くなりつつある空を、白熱する光が切り裂いていく。落ちてくる何かが、最も高い超高層建築の頂に達しようとしたところで、視界は真っ白になっていった……。

 

 気がついた時には、両目が開いている。

 最近はいつもそうだ。目覚めた時、自分が誰なのかわからない、空虚な時間がある。それは一分足らずの間なのか、一時間以上なのか。

 睡眠導入剤を飲んだから、頭の中心がまだ痺れているような感覚がある――朝の光の柔らかさと外の静かさから、まだ午前七時を回ったくらいなのだろうなと見当をつけて、滝沢たきざわ陽輝はるきは上体を起こした。

 ベッドから立ち上がった陽輝は起きて早々、憂鬱な気分だった。しかし、尿意と空腹には耐えられない。

 寝間着代わりのTシャツの上に、スウェットの上下を着込んだ。薬の力で眠った時には珍しく夢を見たせいか、肌寒く思える。

 自分の部屋を出てまず、トイレに向かった。用を足して出ると洗面所に移り、素早く歯磨きと洗顔を済ませる。

 それから陽輝は、三階建て二世帯住宅の二階にある、家の中で最も広いLDKへと入った。ニュースを伝えるアナウンサーの立体映像が、宙に浮かび上がっている。壁に掛けられた投影モニターの映し出す配信テレビだ。

「おはよう、陽輝」

 母・佳枝よしえが声をかける。父の晴彦はるひこは地方紙の朝刊を広げていた。その隣で兄の陽太ようたも同じように、経済新聞の朝刊を読んでいる。それらは二一世紀までの紙ではなく、展開式の透過液晶モニターだ。

 収納も含めれば三〇畳あるLDKには兄夫婦とその娘たち、そして両親がいる。陽輝の二人いる妹のうち、下の妹である優奈ゆうな――高等教育課程の一年で今年、一七才になる――はまだ起きていない。

「おはよう」

 抑揚の乏しい口調で挨拶を返してから、陽輝は自分の日課を始める。

 まず冷蔵庫からヨーグルト飲料のパックを取り出してコップ一杯分を飲み、それからひとつかみほどの千切りキャベツに自家製ドレッシングをかけたもの、納豆を用意する。納豆にはおろし生姜を落としてかき混ぜ、さらに縮緬雑魚、刻みネギ、チューブの辛子を追加して混ぜた。

『……次に、西アラビアへの水源プラント建設を巡る入札で日本案の採用が決まりました。同プラントの入札には日本以外に東アメリカ、共和フランス、さらには中華民主連邦をはじめとする、アジア八カ国の合弁会社などが提案を行っていましたが、これまでの施工実績が評価された形です。日本の水源プラントはこれまでに東オーストラリア、ケープランド、パラオ、民主ペルーなど一六カ国で採用されており……』

 見るつもりもないニュースに時折目を向けながら、陽輝はまず千切りキャベツを食べ尽くした。それから納豆と母が焼いた炒り卵、ご飯茶碗に一杯の白飯を噛みしめるように食べる。

 広いテーブルの向こうでは、姪っ子二人が若い母親――兄嫁の早樹さきに叱られながら、朝食を食べ散らかしていた。

「ごちそうさま」

 トーストと目玉焼きにしたハムエッグの朝食をコーヒーで食べ終えると、陽太は立ち上がった。足早に洗面所へ向かう。一〇分後にはワイシャツにネクタイを締め、スーツのジャケット、鞄を片手に出てくる。

 その頃には優奈が大きな欠伸と共に出てきた。朝の挨拶は口にしたが、それ以上は家族と話そうとはしない。ただ、姪っ子たちには笑顔を向ける。陽太は間もなく出勤した。勤め先は都内にある官庁だ。

 午前七時四〇分。まだ公務員として市役所に勤めている父も朝刊をたたんだ。もっとも、こちらは既に身支度を終えていた。いつも朝食は早くに済ませ、家族が食べている間はお茶と朝刊を楽しんでいるのだ。

 席に着いた母がテレビのリモコンを操作した時、速報を知らせる音と共に画面上にテロップが流れた。

『アハル王国とレバープ共和国の資源採掘権問題で、調停紛争の実施が決定。期日は世界標準時の四月一二日から一三日』

 チャンネルを変えたばかりの朝の情報ワイドショーは臨時ニュースとなり、一家の主はそちらを見た。ワイドショーの類いを「俗悪メディア」と呼んで見向きもしないが、臨時ニュースとなると話が別だ。

『今回の調停紛争当事国である両国は、国境付近における地下資源の採掘を巡ってたびたび衝突を繰り返しており、世界調停機関・アカルナイ委員会は両国の申請を受理。調停紛争の実施を決定しました。この地域は……』

 アナウンサーが解説を始め、優奈はポタージュスープのカップ片手に、

「なに、明日、戦争なの?中継特番でテレビ、見れないじゃん!」

「俗悪番組なんぞ見なくていい」

 父がぼそりと言う。その言葉を無視した優奈は、

「ねえねえ、陽輝ハルにぃ。これってどこの国?戦争ってどこでやんのぉ?」

 妹の問いかけに陽輝は感情の無い表情を向けた。色白で高すぎないが鼻筋の通った、それなりに賢そうに見られた顔なのだが、最近はすっかり無表情になっている。

「陽輝、わかるなら教えてやれ」

 父からの言葉を受けた陽輝は妹の顔を一瞥して、すぐに視線をテレビの投影画面に戻すと、

「アハル王国とレバープ共和国はどちらも、中央アジアの旧トルクメニスタンが分裂した国だ。戦場と……開戦時刻は……当日まで……不明だろう」

 納豆を口に運ぶ合間に、陽輝は応える。

「元は同じ国なんだ?」

「『大分裂』時代に四分裂したんだ。それぞれ北方ロシア、東アメリカ、成都政府、南ドイツの傘下に下ってる」

「どーして戦争するの?」

 身を乗り出すようにして尋ねる優奈を陽輝は一瞥した。茶碗を置いて湯呑みを手にすると、

「天然資源が残ってるから。ガスとか石炭だ」

「ガスとか石炭って、そんなの使ってる国がまだあるんだ?」

「国内で消費するエネルギーを賄えるだけの核融合プラントを持ってる国は、世界でも限られてる。東中西のアメリカ三国ですら、国内消費エネルギーの五割は石油だっていう……」

 それからしばらく、陽輝は優奈の質問に答えた。理解しているというより、好奇心で聞いてくるだけにも思える。その間に父もタイを締め直し、出勤していった。

 姪っ子たちも兄嫁に連れられて、保育園へ登園する。

 陽輝がゆっくりした朝食を終えて茶碗や皿をシンクに戻していると、食べ終えて着替えた優奈も行ってきまーす、と言って出て行った。マルーンと白のタータンチェック柄の短めなスカートと微かにピンクがかったブラウスに細身のタイ、白いラインのパイピングが入ったネイビーブルーのブレザーという姿になっている。

「陽輝。今日はお医者さんでしょ」

 母に言われて陽輝は生返事を返した。

 トイレでゆっくり用を足した後、洗面所で改めて洗顔と歯磨き、髭剃りまでしてから、自分の部屋に戻る。最近は抗鬱薬を飲まなくてよくなったので、気分は楽だ。

 静かにニュースなどをチェックしてから、着替えて外へ出た。

 といっても、二二歳の陽輝が行く先は職場ではなかった。

 今の陽輝は無職――いわゆるニートに近い立場だ。鬱病患者として二週間に一度ほどの割合で、心療内科へ通院している身だった。

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