第二章 愚者の旅路
第44話 「コヒナ」の誕生
私の名前は
片田舎で自営業をする両親の元に生まれた。大変仲の良い夫婦で結構なことだろうと思う。昔はよくケンカをした、というのは兄たちから聞かされているが、私自身はそんなもの見たことがない。
兄弟は歳の離れた兄が二人。
末に生まれた女の子であったため親の情けも勝るもので、さらに二人の兄にもずいぶん可愛がられて育った。
我ながら少々我儘に育ったかもしれない。
多分、我儘で頑固で、臆病で、泣き虫に育った。
ごく一般的な家庭のごく一般的な女の子だろうと思う。
何不自由なく育った私が家のことで不満があったとすれば、電動のコーヒーミルの音くらいだろうか。
両親は大変コーヒーが好きな人たちで、忙しい朝でも一回分ずつ毎朝豆を挽いてコーヒーを入れる。この時使う電動コーヒーミルが古い機械であって音が凄いのだ。
ざりざりざりざりというコーヒー豆が削れていく音は、大きな音を苦手としていた幼い私にはかなり怖いものだった。それを誰かに伝えたことは無い。忙しい両親が大事にしていることに触れるのはなんとなくしてはいけないことだと思っていた。
兄弟が男二人ということで家には兄たちが集めた少年漫画とゲームが溢れていて、私はそれを教科書として育ってきた。また兄たちも外を走り回って遊ぶ人たちであったので、遊びとはそういう物だと思っていた。なんとか兄たちついて行こうとしていたものだから、ある程度の年齢になると同い年の女の子たちとは少々話が合わなくなった。
男の子たちとゲームしたり川で釣りしたりしている方が楽ちんだったわけだ。
いじめにあったとかそういうのは無いんだけれど、変わった子扱い位はされていたようで、お母さまはもう少しお淑やかにならない物かと私のおてんばを大層心配なさっていた。
しかしお父さまはずいぶん私に甘い人で、元気で良いじゃないかみたいな感じだったし、兄たちも完全に私の味方だったので私のおてんばはかなり長く続いた。まあ人には向き不向きというのがあると思う。
そんなわけで私の新たな趣味の「占い」はお母さまには大変受けが良かった。なので占い―タロットカードに嵌ったきっかけが兄たちの集めた少年漫画であったことと、この新しい趣味が原因で学校での私への変人扱いは加速していったということは、今でもお母さまには内緒である。
陽菜子、ヒナコという名前はわりとよくある名前のようで、中学の一年生の時にはクラスにもう一人ヒナコちゃんがいた。髪が長くて大人しい、雛子ちゃんという漢字そのままのお雛様みたいな子だ。雛子ちゃんと区別するために体の小さかった私はコヒナちゃんになった。この名前とは中学を卒業して後もずいぶん長く付き合っていくことになる。
中学、高校、大学。いずれも楽しく過ごさせていただいた。
大学を卒業すれば就職という物をしなければならないのだが、ここで私は都会に出ると駄々を捏ねだした。
兄たちはその頃には家を出て都会で立派にやっていたわけで、上のお兄ちゃんは結婚して子供までいる。下のお兄ちゃんだって一人暮らしをしている。
何でも兄たちの真似をしたがる私は自分にもできると思ったのだ。
説得が大変なのはお母さまくらいだろうと思っていたのだが、もう家を出ている兄たちを含め全員から猛反対を頂いたのには驚いた。お父さまが私にダメという言葉を使ったのは初めてではないだろうか。
しかしその時の私は何としてでも都会に出るんだと決心していたらしく、考えを曲げなかった。当時見たテレビか何かにでも影響されていたのかもしれない。
それならまあ、いつでも帰ってきなさいと家族がみんな根負けして、私は意気揚々と家を出た。
私だって一人で立派にやっていけるんだ。いつでも帰ってこいなんて馬鹿にしないで欲しい。兄たちにできて私にできない理由があるものか。この時はそんな風に思っていた。
住むところとか、一人暮らしを始めるための資金とか、揃えなくてはいけないものだとか、全部両親や兄たちが面倒見てくれていたのだけれど、私はそんなことにも気が付いていなかった。
こうして私は一人暮らしを始めることになったのだが、田舎娘が上京を志したとて、世間の風が冷たいのは世の常だ。
私は一人では何もできないという事実を、これでもかというほど突きつけられることになる。
入社初日に大遅刻をかました。
電車に乗れなかったからだ。
満員だったから、乗れなかった。何を言ってるかわからないと思う。しかし上京したての私にはあのパンパンの乗り物に乗り込む方法がわからなかったのだ。
不思議なことに後から来た人たちが満員のはずの乗り物にすいすいと入っていく。中には動けないでいる私にちっと舌打ちをしていく人もいる。
おろおろと電車を三本ほど見送って、見かねた駅員さんが強引に押し込んでくれたおかげで何とか乗り込めた。
で、まあその後。
同じ理由で降りられなかったわけだ。
さらに駅から降りてからは道に迷った。
私はここで初めて自分が深刻な方向音痴であることを自覚した。うすうす気が付いてはいたのだけど、ヤバいレベルだとは思ってなかったのだ。
三時間ほど遅刻して、大変不名誉な有名人になった。
二日目には初日より早く出た。
皆、凄い早さで歩いていく。その波に乗れずにいる私を、迷惑そうに追い抜いていく。
電車が大きな音を立ててホームへと入ってくる。
ざりざりざりざり。
駅の改札口に、困っているおばあさんがいた。
遅刻するのが怖くて、私は声を掛けられなかった。
そんな生活も一月もすれば慣れてくる。
段々と電車に乗るのも上手になってくるし、歩くのだって早くなっていく。
生活そのものに慣れてはいったけど、同時に何かがざりざりざりざりとすり減っているような気がした。
それが無くなってしまうととても怖いことが起こるような気がして、
でも日々の生活ではやっぱり「それ」はざりざりと減っていってしまうのだ。
お仕事が終わってまっすぐ家に帰って来て、何もしないですぐにお布団に入る。できるだけ何も考えないで、何も思い出さないで眠る。
そうして貯めた一日分の「それ」は、家を出て五分後に後ろから来た自転車のベルと舌打ちでたちまち底をついてしまう。
今日の分の「それ」が無くなってしまったら、後は何も起こらないのを祈りながら一日が終わるのを待つことになる。もし今日のうちにもう一度何かが起きたら、一日分の「それ」を生み出している大元がざりざりと削れてしまうからだ。
それが無くなってしまうことはとても怖いことのような気がしていた。
電車が大きな音を立てて、ホームに入ってくる。
駅員さんが、大きな声で怒鳴られている。
駅の改札口に、困っているおばあさんがいた。
急いでいた私は、声を掛けようと思わなかった。
五月の連休に実家に帰った私は大分やつれていたようで、両親とお兄ちゃん達を心配させた。でも心配してくれたのは家についた直後の短い時間の間だけだった。
上のお兄ちゃんがお義姉さんと赤ちゃんを連れてきていたのでお父さまもお母さまも初孫である赤ちゃんに夢中だったのだ。
私だってお兄ちゃんの赤ちゃんは可愛いと思う。それにお義姉さんは美人で優しい。でももともと大好きだったお兄ちゃんを取られたような気がしていた私は、みんなほど赤ちゃんに夢中にはなれなかった。
つまりここに帰ってくればちやほやしてもらえると思っていた私は、赤ちゃんに嫉妬していたのだ。大変恥ずかしい話だと思う。
下のお兄ちゃんはそれに気が付いたようで、お仕事のこととか、休日何をしているのかとか色々聞いてくれた。私はここぞとばかりに愚痴を聞いてもらった。
仕事から帰ってきたら寝ている。休日は家でテレビを見ている。ご飯はコンビニで買って食べる。それ以外のことはしていない。そんな余裕はない。こんなに頑張ってるの。偉いでしょ?
私の生活スタイルを聞いて、お兄ちゃんは大変心を痛めたようで、なんか趣味でも始めたらどうだと言ってきた。ゲームとか好きだったろう?
しかしゲームもお兄ちゃんやお友達がいるから楽しいのだ。一人用RPGゲームにしても、お兄ちゃんがやるのを見てたり、見ててもらったりするのが好きだった。
あまり一人でやって楽しそうな気はしない。
そういうと下のお兄ちゃんは困ったような顔をした。
また困らせることを言ったんだなと思った。
丁度その時、お母さまがコーヒーを入れようとして、古いコーヒーミルからざりざりざりと大きな音がした。
その音で赤ちゃんが泣いて、おばあちゃんになったお母さまはあらあらごめんなさいと、コーヒーを入れるのをやめた。
ざりざりざりと、大きな音がした。
下のお兄ちゃんは、困った顔でしばらく考えていたけれど、ふと笑顔になって一つの提案をしてきた。
「ヒナコ、ネットゲームやってみたらどうだ?」
「ネットゲーム?」
「そうそう。MMORPGってやつ。何人かで一緒に遊べるようなゲームあるじゃん。それをインターネットの中で大人数でみんなでやるんだよ」
「大人数で、ってボスとかどうするの? 誰かが倒しちゃったらお話終わっちゃうじゃん」
「いや、そうはならなくてだな。それもみんなで寄ってたかって倒したり、プレイヤーごとに設定されてたり、その辺はゲームによって色々違うんだけど。なんていうか、戦闘だけでもなくてな。上手く説明できないけど、みんなその中で生活してるんだよ」
「生活? 」
「そうそう。プレイヤーがな、その辺にゴザ引いて露店やってたりするんだ。俺も一時期凄いハマってな」
お兄ちゃんがそういうならやってみてもいい気がする。確かに面白そうである。お仕事から帰ってきた後、休みの日、誰とも話をしないで過ごすというのは良くないような気もしていた。
「俺やってたのは結構昔からあるやつで、ネオデ、ネオオデッセイって言うやつ。昔のだけど自由度は高いしシステムも秀逸だから割とおススメだぞ」
まあ、他のはやったことないけどな。
「んじゃ、それやってみる」
「ノートパソコンあるよな。んじゃあとはソフトと……」
下のお兄ちゃんに必要なものを教えてもらった。ちょっとだけ、一人暮らしのあの部屋に戻るのが楽しみになった。
連休最終日。
明日からのざりざりに備えて新居で寝て過ごす予定だった私は<ネオオデッセイ>のソフトを購入。インストールの間にネットで情報集めをする。様々な情報に触れているとワクワクする。こういうのは久しぶりだ。ゲームは本気でやった方が面白い。手を抜いてはゲームに申し訳ない。
インストールが終わると、<ネオオデッセイ>のオープニングムービーが始まった。
そこは正義が敗北し、邪悪が
善性の化身たるボナは、己の最後の力を使い、異世界から邪悪を払う勇者を召喚することを決意する。この代償としてボナ自身が世界への干渉を行うことは一切できなくなるだろう。
それは善を広めることを己の存在意義とするボナにとっては死と同義。
だが今邪悪を
この世界の邪悪は強大だ。いかに異世界の勇者と言えど、太刀打ちできないかもしれない。
一人では駄目だ。たくさんの善なる力が、勇者の力が必要だ。
ボナは自分の身体をいくつもの小さな欠片に分けた。
無数に分かれたボナは最後の力を振り絞り、「門」へと姿を変える。
この世界で使われる移動用の魔法<ゲート>によって作られる、二つの離れた場所をつなぐ青く輝く門と似てはいるが、実態は大きく異なる。
それはこの世界の外にある、様々な世界の、様々な時間と場所に繋がる門。
いくつもの理を超えて、世界を渡ることを可能にする「
世界を、時を、理を超えて。
ボナが認めた善なる力を持つ者の元に、今、真っ白な光に包まれた
[system: 名前を入力して下さい]
<コヒナ>
Enter。
[system: 新しいアカウントが作成されました。コヒナ様、ようこそネオオデッセイの世界へ!]
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