第七話 恋人-2
「ジェローム! ジェローム、聞いてるの?」
三途川の声にハッとした。
「起きてて夢見てんの? あんたらしくないわよ、なんかあった?」
「いえ、何も! 大丈夫です、えと……」
「分かった! 好きな子のことでも考えてたんだろ! ゴールデンウィークだしなぁ。俺もデートしたい!!」
「哲平はまず、あんたみたいんでもいいっていう物好きな女の子探さなくっちゃね」
「ええ、酷いっすよー。俺だって結構人気あるんすよ、」
「飲み屋の姉ちゃんにね。この間の経費で落とせなかった居酒屋代、ちゃんと払いに行きなさいよ」
話が横に逸れて行って助かったと思う。どうも誤魔化すとか嘘を言うとか、そういうことが苦手だ。連休をどうやって過ごすのか? などと聞かれたらどうしていいか分からなくなってしまうだろう。
「ジェロームさ」
思いもしない声がかかった。宗田華。あまり仕事のこと以外では口を挟んで来ない、ちょっと冷めた先輩。ブログラミングが専門の彼は、開発部の花形であるシステム構築の野瀬チームには行かなかった。理由は『チーフの野瀬さんの声が嫌いだから』。
それを通してしまった辺りが、華の強さかもしれない。
――いろんな感性の人間を認め合うのがこのチームの気風
そう言っていたことを思い出す。きっと華も自分と同じような空気の中にいたのだろう。
「休み、ヒマ?」
言葉に詰まった。普通に『予定がある』と言えば済むのにしっかりと間が空いてしまった。
「いいんだ、気にするなよ。ヒマならどっか行こうかって誘おうと思っただけ」
「珍しいわね、あんたがそんなこと言うなんて。ヒマなら私とおいで」
「やだよ、
「山?」
「教えといてやるよ、ジェローム。三途さんが重い物持ってても『手伝います』なんて言うなよ。この人ロッククライミングやってるからやたら力あるからな」
「ロック……三途川さん、お幾つなんですか?」
さすがに華も黙った。みんなが黙ってしまったことにも気づいていない。三途川は溜息をついた。
「32よ。どうして?」
「すごい! 32でも山に登れるんですか!? 女性なのに」
「ジェ……」
助け船を出そうとした哲平が睨まれた。
「子どもの言うこと一々気にしてらんないわ。哲平、華! あんたらが言ったらただじゃおかないからね! あのね、ジェローム。覚えときなさい。女の人に歳を聞いちゃだめ。たいがいいざこざが起きるから。どうやら純粋培養されてきたようね。少し鍛えないと」
いつの間にかそばに来ていた池沢はハラハラしていた。
「頼むよ、みんな。きっとこいつはみんなの地雷を踏みまくる。面倒見てやってくれよ」
「任せて、私が面倒見るから。ジェローム、私が山から戻ったらしばらくの間、私とペアで仕事よ。いいわね?」
何がいけなかったのか分からないまま、ジェイは頷いた。三途川が帰ってくるのは連休も開けて5月10日からだという。連休についての追及は何とか逃れた。
ホッとした顔で何気なく課長席の蓮を見た。書類に目を通す蓮がふと顔を上げる。髪を左手でかき上げる。
(やっぱり切った方がいいのかな……)
鳴った電話を取り上げて話し始めた。声は聞こえないが動く唇が見える。
(あの唇が……)
愛を囁いてくれた……
「大丈夫? 顔が赤いわよ」
心配した堂本千枝が額を触ろうとするのを思わず避けた。
「あ、ごめんなさい、あの、大丈夫です。ちょっと暑くて」
「上着脱いだ方がいいわ。今日は暖かいからこの中じゃのぼせちゃうわよ」
8階にあるオフィスに開けられる窓は無い。
「ちょっと冷たい物、飲んできます」
喉まで乾いている。
4階には広いフリースペースがあり、自販機もたっぷりある。アイスミルクティーを買って空席に座った。今は2時前。中途半端な時間だからあまり人がいない。
頭の中に、またあの唇が蘇ってくる……頭を振って別のことを考えようとした。
(昨日、少しだけど泳げた。蓮のお蔭だ)
浮くことは出来た。わずかだが蹴伸びも出来た。けれどそこからが大変だった。
「力抜かなきゃだめだ、俺の手にふわっと掴まれ」
それが出来なかった。ついしっかりと蓮の手を握ってしまう。水にちゃんと顔をつけられるのに、目を開けることが出来ない。息をしっかり止めるから胸に力が入る。だから肩にも力が入る。
「よし、休憩だ」
30分もして蓮が肩を叩いた。ジェイは(いい歳をして)と、恥ずかしくてたまらない。
「泳いだこと無かったんだ、仕方ないさ。でも無理だっていいながら浮いたろ? たいした進歩だよ。何も今日いっぺんに泳げるようになる必要は無い。また来よう」
「でも……俺、ホントに何も出来なくて……」
きっと夜のことも気にしているのだと蓮は感じていた。まだ本当には結ばれていない。それが大きく尾を引いている。もう少し泳ぐ練習をしてからと思っていたが、蓮はジェイを連れて帰ることにした。
「おい、出よう。支度して帰るぞ」
「え? なんで?」
(きっと出来の悪い生徒だからだ……)
何に対しても自信の無いジェイは、今は些細なことも卑屈に考えるようになっていた。入社するまでの勢いが消えていた。母が亡くなってからの張り詰めた糸が切れていた。
それは蓮に出会ったせいばかりではない。母が亡くなって2年。ずっと耐えて来た、耐えている実感もなく。ジェイは限界を超えていたことに気づいていなかった。独りで2年を過ごしてきたことの反動が今来ているのだ。
「どうした、しょぼくれて。明日仕事だってのを思い出して早めに出ようって思っただけだ。ちゃんと泳げるようにしてやる。そしたら二人で海に行こう」
「海? 海で?」
「泳ぐんだよ、海で。行ったことはあるのか?」
「小学校の時に学校で潮干狩りに……」
「そうかぁ、懐かしいな。それもやろう! 俺も一人じゃそんなこと出来ないが、お前が一緒なら楽しめそうだ」
「ほんとに? ほんとに俺といて楽しい?」
驚いてジェイを見た。泣きそうに歪んだ顔……肩に手を置いた。人目がある。こんなことしかしてやれない。
「ばかだな、楽しくなかったらお前といないよ。言っただろ? 俺を信じろって。何も疑うな。そうだ、こう言ったら分かるか? 俺は何でも正直に言う。イヤならイヤ、困るなら困る。はっきり言ってやる。だから信じろ」
やっとジェイは頷いた。
(蓮は嘘を言わない。信じていい。いつも見守ってくれる)
ただの恋人ではない、蓮に対して父性を感じていた。父を知らない。頼りになる男性というものを知らない。母は守るべき存在だった。幼いころから母を守るために必死だったから保護されたことが無い。蓮に向けている思いは、憧れであり、恋であり、依頼心だった。ジェイの中にまだ真実の愛は生まれてはいない。
帰りの車の中で、ジェイは大人しかった。小さな音で流行のオルタナロックを流している。その中に浸ることもなく、ジェイはただ蓮の手と足を見ていた。とうとう蓮が口を開いた。
「元気が無いな。疲れたか?」
初めての体験ばかり。夜を共に過ごしたことも含めて。疲れていないわけがない。
「運転、覚えたいから」
「ん?」
「教えてくれるって…… そう言ってくれたから。泳ぎはダメだったけど運転はちゃんと覚えようと思って」
「そうか。安心しろ、今年中に免許取らせてやる。会社にな、提携してる自動車メーカーがあってその関係で免許を取るのを奨励してるんだ。買う時に安く買えるし合格すると手当ても出る。表に出る仕事を任されるようになれば車も日常的に貸与されるんだ。そういう点は他の会社よりずっと待遇いいんだよ」
ジェイの顔がパッと輝いた。実は内心不安だった。免許を取るにも車を手に入れるにも、自分には貯金さえない。夢が膨らんだ分、それを抑え込むことが難しくなっていた。だが、今の話で夢が現実へと近づいた。何かを手に入れる。そんな贅沢な思いに酔った。
(蓮といると全てが変わっていく)
拠り所を得た。それだけで幸せだった。
アパートに近づくにつれ、ジェイの気持ちがまた折れ始めていた。あのアパートで独り眠る。これまでは何でもないことだった。蓮とはたった2晩を過ごしただけだ。なのに、もう独りになることが怖かった。
『一緒に暮らさないか?』
蓮が言った言葉が耳に響いている。あの時、どうして返事をしなかったのだろう。悔いても悔いてもあの時間は戻らない。きっと蓮はもう同じことを言ってくれないだろう。
アパートが見えてくる。
(子どもみたいだ……)
泣きそうになる自分を持て余す。唇を噛んだ。別れる時くらい笑顔を浮かべたい。
(『それじゃ、また明日!』 元気な声で言うんだ、『それじゃ、また明日!』)
心の中で繰り返す。会社に行けば会えるのだから。アドレスももらった。いつでもメール出来る。
(だから言うんだ、『それじゃ、また明日! 今日は楽しかったです!』)
気がつけば見えているアパートの周りをぐるりと回っていた。近くにあるコンビニの駐車場にすっと車が入る。
(どうするんだろう? ここで下りろってこと?)
「下りるぞ」
途端に気持ちが萎れた。そうか、ここでお別れか。ドアを開けて中に頭を入れた。
「それじゃ、また」
「手伝ってやるよ」
「え?」
「入ってもいいだろう? お前の部屋。そうじゃないと手伝えない」
「あの、なんの……」
「何、言ってるんだ。引っ越し。ほら、行くぞ」
車をロックした蓮がさっさと歩き出したのを慌てて追った。
「蓮! 蓮、待って!」
どうした? という顔で蓮が振り返った。
「ホントに? ホントにいいの? 俺、蓮のとこに行くの?」
「そう言っただろう? 完全に引き払うわけじゃない。住民票、俺の所に移すわけにはいかないからな。だから取り敢えずしばらく必要なものだけ持って行こう。後はのんびり運べばいいさ。それで構わないか?」
泣きそうになるのを堪えて、何度も頷いた。
(不安だったのか。そうか。もうお前をここに一人で寝せないからな)
ジェイの帽子を前に下げてやった。涙が一粒足元に落ちて行った。
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