第六話 夜を漂う

 背中をドアに預けた。


――俺を好きだと言った?


 蓮の方こそ混乱した。でも目の前のジェイはしっかりと蓮の目を見つめていた。後ろ手にドアを開ける。ジェイは自分から先に部屋に入った。遅れて蓮が入り鍵をかける。向うを向いたまま動かずにいるジェイを後ろから抱きしめた。大きくビクリと体が震え、ジェイは目を閉じた。

 夢に見たもの。それが今、現実になっている。怖さと期待と。怯えと高揚感と。部屋に自分の鼓動が大きく響いているような気がする。蓮の手にその音が伝わっているような気がする……


「れ……」


 掠れる自分の声が遠かった。首筋を蓮の唇が下りていく。もう何も考えられない…… ただ身を預けた。上がって来た蓮の口が耳元に囁く。


「シャワーを浴びよう」

 一人では立っていられないほどにガクガク震えはじめるジェイを抱きしめた。

「歩けないか? 連れてってやる。一緒に浴びよう」

 シャワーの温度が上がるまで震えるジェイの体を包んだ。分かっている、寒さから来る震えではないことを。女性とさえつき合ったことの無いジェイが、なんの抵抗もなく自分に抱かれるわけがない。蓮は焦るつもりは無かった。

 湯に当たり、少しずつジェイの気持ちが解れ始めた。いいか悪いかなんて、そんなことは欠片も頭に過らない。ただ、持ったことの無い自分の感情に圧倒されていた。

 こんな風に人を思ったことが無い。まして体の欲求がこれほどまでに自我を失わせるものだと思ってもいなかった。

 泡で滑りのいい蓮の手が動き回る。頭を蓮の肩にもたれさせて、ジェイはひたすら息を継いだ。

 欲しかった感覚。誰かの手が直に自分に触れる感触。

 頭からシャワーを浴びせられ、バスタオルで包まれて自分の息が荒いことに気づいた。

「ベッドまで行けるか?」

 コクンと頷いて先にバスルームから出た。

 ベッドが二つ。どっちに? そんなどうでもいい疑問にしがみついた。何も考えられないし、考えたくない。どっちを選べばいいのか分からない。

 突っ立っているところに蓮が出て来た。ジェイの様子を見て、口元に笑みが零れる。

――今日は自分は後回しだ。こいつを満たしてやりたい。


「ジェイ」

まるで夢を見ているような顔でジェイが振り向いた。

「ジェイ、愛してる。どうしてそうなったか聞くな。俺にも分からない」

 手を伸ばす。顎から頬へとゆっくり手のひらを広げた。その手にジェイが頭を預ける。斜めに傾いていくジェイの顔が幼く見えた。目は閉じない、ただじっと蓮の目を見ている。親指でそっと唇をなぞる。小さく開いた口から熱い吐息が漏れてくる。

「何もかも初めてか?」

 手のひらの上で顔が揺れた。次の瞬間、蓮はジェイを引き寄せた。茶色の巻き毛の中に指を埋める。髪にキスをする。

「大事にする。お前のことを」

 少し屈んで口付ける。そっと優しく。唇を啄むように。その唇が少しずつ塩辛くなっていく。涙を口に感じた。

「ジェイ?」

「大事に? 俺を?」

「ああ、そうだよ。お前を大事にする」

「蓮を……見てていい?」

「いいよ、目を開けていられるなら」

もろく傷つきやすい心。外側だけ否応なく大人になってしまったジェイ。

「俺の前ならお前は自分の好きなようにしていいんだ」


 ベッドに導いた。縁に座るジェイの体をゆっくり倒していく。自分を見つめているジェイの目を意識しながらその顔に覆いかぶさった。若い弾力のある唇が自分の口づけに応えつつあった。さざ波が走る。首筋へと下りていく。びくんびくんと体が撥ねる。

 あ……や、だ……

「本当にいやか?」

 そのまま首を這いまわり口へと戻る。いつの間にか目は閉じられていた。

 ぅ はっ

 味わったことの無い愛撫に全てを素直に曝け出していくジェイの姿は、今まで見た誰よりも美しかった。

 そして自分の中に育っているこれは何なのだろう。今まで、相手よりも自分が感じることが全てで、相手は自分のしている愛撫で勝手に快感を拾ってくれた。けれど、今、違うものを感じる。

 ジェイのこの寝乱れる姿を見ていたい。全部を味わいたい。感じさせてやりたい。そして大きな海の中に溺れさせてやりたい。

「ジェイ」

呼ぶ声に目を開ける。見下ろせば蓮の目がしっかりと自分の目を掴んだ。

「気持ちがいいか?」

 夢見心地に頷いた。内腿を撫で上げられ、それだけで息が上がる。目を開けたり閉じたり。でも見下ろせば蓮の目がひたりと自分を見つめていた。

 頭がベッドに落ちた。何かが弾け飛んであっという間に波に呑み込まれて行った……

 蓮は上体を起こして口付けた。またジェイの隣に頭を落とす。天井を見上げ、目を閉じた。


 初めての大きな快感にジェイの心はまだ震えていた。生きてきてこれほどの衝撃を体に味わったことが無い。しばらくの間呆然としていた。その内に気が付いた。体が解放されている。隣を見た。蓮が目を閉じてそこに横たわっていた。

「蓮……眠ってるの? 蓮」

 声が掠れている。すぐに手が伸びてきて髪の間に指が潜った。

「起きてるよ、ジェイ。少しは落ち着いたか?」

 そう言われた途端に顔が熱くなった。正体を失くして、自分はどんな顔をしていたんだろう。行為の最中、自分はどうしてたんだろう。

「俺……変だったですか……?」

「何が?」

「だって……蓮、もう嫌そうに見える……」

顔をジェイに向けた。そうか、初めてだから不安なんだ。自分がどうだったか。

「きれいだったよ、お前、本当にきれいだった。どうしていいか分からないほど俺はお前に惚れてるよ」

今度は別の意味でジェイの顔が熱くなった。逃げ出したい、何を言っていいか分からない……

「こっち来い」

 引き寄せられて蓮の胸に頬を当てた。蓮の鼓動が聞こえる。筋肉が発達していて締まった体。なぜかテーラーの牧野の言葉が浮かんだ。

『もう少し肉をつけないと』

――本当だ、固い

それがなぜか可笑しかった。体が少し揺れる。

「何、笑ってるんだよ。お前、色気無いぞ」

「だって、蓮、固い」

自然、ジェイは蓮に甘えるような口調になっていた。そんなジェイが愛しくて可愛い。蓮はそっと囁いた。

「お前を俺のものにしたい。でも力づくにはしたくない。俺はお前を傷つけたくないんだ」

 鼓動が駆け出しそうだ。誰かのものになる そう思うだけで安心感が湧いてくる。

「俺と蓮はどういう関係になるの?」

見上げて来るジェイの額にキスを落とす。

「恋人だ」

声が出ない、胸が一気に高鳴る、手が蓮の体に回って力が入った。

「いいのか? それで」

頷いた。もう家族はいない。友だちもいない。けれど恋人が出来る。

「陽は当たらないぞ。誰もそんなこと認めちゃくれない。人前では他人でいなくちゃならない。俺とお前は上司と部下だ。他の者と選り分けてお前に接することは出来ない」

 分からせておかなければならない、ジェイの心を守るために。上司として叱責する時もあるだろう。ジェイより他の者を優先したり褒めたり。自分が以前と態度を変えるわけには行かない。だが、いつかきっとそれはジェイを大きく傷つける。そういうことにきっとジェイは耐えられない。

「俺は今までと同じでなくちゃならないんだ。お前、それに耐えられるか? 分かっておいてほしいんだ、俺にはお前が一番だ。けどそれを表に出すことは出来ない。辛いぞ、これから」

 こうなる前ならジェイには自分を守る外壁を自分で作ることが出来た。でももう、それはきっと出来ない。ジェイにはそれがまだ解っていない。

「蓮は……俺とのこと、困るって言ってるの?」

「違う。こんな話するのはお前が心配だからだ。お前が見かけ通り強いヤツならいいんだ。もしそうならこうはならなかっただろうけど。でもお前は」

背中を撫でた。髪にキスをする。傷つけたくない、どんなことでも。

「お前は違うだろう? そういうんじゃない。自分を守るために一生懸命強い振りをしてきただけだ」


 お化け屋敷の中、『たすけて』と囁いた声を思い出す。自分と出会うまでの間、どれだけの数、それを心の中で言い続けてきたんだろう。

「だから俺はお前を守りたい。知っておいてほしいんだ、俺を信じていいんだってこと。例え何があろうと、俺が何を言おうと、お前は俺のものなんだ。お前が俺を必要とする限り」

 現実がどうなのか、ジェイには見当もつかなかった。男同士だ、人前で手を握ったり甘えたり抱きついたり出来ないことくらいは分かる。でも信じ合ってるなら何を辛く思うことがあるだろう。

「俺は……大丈夫だと思うんだけど」


 どうやったらこの若者を守って行けるだろう。こんな関係にしておきながら、今さらのように自分の取った行動が浅はかだったのではないかと思えて来る。もしかしたら自分は守るのではなく、真逆のことをジェイにしようとしているのではないのか?


「ジェイ。いいか、俺のことを信じろ。どんな時でも。俺を信じることがお前を守る。苦しかったら二人きりになった時に苦しいと言え。辛い、不安だ、寂しい、全部俺に正直に言え。ずっとお前を守りたいんだ」

「信じるよ。大丈夫だよ、そんなに心配しなくても大丈夫」

蓮は腕の中にいる脆い青年を抱きしめた。何かあればきっと壊れてしまう……ジェイは強くなんかない……

「苦しい、蓮  俺、大丈夫だから」

 愛しさが溢れ、その体に覆いかぶさった。戸惑う唇を塞ぐ。僅かな回数のキスでもう感じることを覚えている。口の中を刺激すれば体が反応してくる。

 唇を離して髪をかき上げた。

「お前、キスに弱いんだな」

 赤くなったジェイに笑いかけ、また唇をそっと舐めた。もう胸が喘ぎ始める。感じやすい体は、そのままジェイの繊細な心を表わしていた。母が亡くなって、よくここまで生きて来れたものだ。どれだけ強固な壁を張り巡らしてきたのか。

「ジェイ、俺の恋人になるか?」

「そしたら……ずっと一緒にいられる?」

 泣きたくなるほど悲しい問いだった。『置いてかないで』その声が響く。縋りつくようなその問いに誰がNoと言えるだろう。

「ああ。一緒にいる。お前を離さない」

「俺を……蓮のものにして」

 もう充分だった。自分にはもう不可能だ、ジェイを独りにするのは。

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