第四話 意識-2

 固まった。遊園地。ハードルが高すぎる……

「他には?」

ジェイは首を振った。

「いいんです、気にしないでください。課長の行くところについて行きます」

(遊園地かぁ……)

 さすがに即答が出来なかった。でも考えたらそうだ。きっと小さい時から行きたかったに違いない。田舎では無理だし、東京に来てからは経済的にも余裕が無く時間も許さなかっただろう……


「おい、支度しろ。お前の家に行くぞ」

 河野の顔をチラッと見て黙って支度を始めた。明らかに諦めた顔になっている。そんな思いには慣れてしまったのか。

「着替えないとな、どこにも行けないだろ? ジーンズくらいはあるんだよな?」

「それしか無いです」

「上等だよ、それで。ちょっと待ってろ、俺も着替えるから」

 出て来た河野の姿を見て心臓が跳ね上がった。デニムのジャケットに真っ白なシャツ。洗いざらしのジーンズ。家にある自分の服を思い浮かべる。

(碌なの無い、どうしよう……)

「行くぞ」

昨日のスーツのままその後に続いた。マンションの地下へと入っていく背中に戸惑った。

「どこ行くんですか?」

河野は後ろを見ずにポケットから出したキーをジャラジャラと音を鳴らして聞かせた。

「車」

目を見開いた。

「大人だ!」

言ってからバカなことを言ったと後悔した。

「お前なぁ……」

振り返った河野は笑いを堪えていた。

「大人を大人かどうか心配してたのか?」

声を上げて笑いながら白いオデッセイに向かってキーをカチッと鳴らした。『キュキュッ 』と反応する音を聞いて河野の背中を見つめた。

(カッコいい!)

 あちこちで見慣れているはずなのに自分の周りに運転する者はいなかったし、河野の仕草は流れるように自然だった。

「乗れ」

「はいっ!」

 当然助手席に乗るのも初めてのこと。河野の一挙手一投足から目が離れなかった。

 ゆっくり駐車場から通りに出る。

「運転に興味あるか?」

チラッと横を見ると頷いている。

「教えてやるよ。今日じゃないけどな」

「ホントですか!?」

「ああ、ある程度分かるようになったら免許取れ。ローン組んで車も買うといい。最初は中古車にしろよ、うんと慣れてから新車を買えばいい」

 夢のような生活だ。



 スーッと車がこじんまりした古びた店の駐車場に入った。

「ここは?」

「俺がよく来る古着屋だ。来いよ」

 中にはたくさんの服があった。壁にもところ狭しとぶら下がっている。

「結構いい服が安く売ってるんだ、お前も買い物ここですればいい」

(古いって……ほとんど新品じゃないか!)

 課長はどれだけ行きつけの店を持っているんだ? もう河野の存在そのものがびっくり箱に見えて仕方ない。

 初めはおっかなびっくりで手も出せずにいた。河野が「俺も買う」と物色し始めたのを見て、それに釣られるように少しずつ手に取り始めた。

「お! それいいじゃないか」

「いや、そりゃないだろう!」

 あれこれ考えずに服を選んで行くのは楽しかった。ふと気づけば左腕にかかっているのはジーンズが2本、ジャケットが3着、シャツが4枚、そして靴を2足掴んでいる。

 ジェイは現実に立ち返った。

 今は4月の下旬。4月の入社、初給料は5月20日だ。勤務のためのスーツや靴は、細々と貯めてきた貯金を使い果たして買った面接用をそのまま使っている。給料日までの生活費は会社から出た準備金でぎりぎり何とかなる。でもこの買い物は…… ただの贅沢だ。自分には過ぎたものだ。けれど河野との外出にどうしても新しい服が欲しかった。

 ジェイはジーンズ1本、選び直した上着1枚、シャツを一枚残して、こっそりと他の物を元の場所に戻した。迷って靴も戻した。これなら昼飯を抜けば、何とか20日までもつだろう。


 買い物を終え車に戻った。河野は真っ直ぐにジェイのアパートに向かう。

「俺のアパート、分かるんですか?」

「上司っていうのはそういうのを知っておく必要があるんだよ。何があるか分からないだろう?」

言われれば確かにそうだと思った。

 アパートに近づくにつれ、不安になっていく。中に上げなきゃいけないだろうか。礼儀としてはどうぞと言うべきだ。でも河野のマンションとは比べものにならないほど貧相だ……

「駐車場、無いみたいだな」

「すみません、安いアパートなんです……」

「お前が謝ることじゃないだろう? ここで待ってるよ。早く着替えて来い」

口元が笑っているからホッとして車を下りた。

 中に飛び込んで急いで着替えた。小さな鏡に映してみる。白いデニム生地の上着。中はネイビーの無地のTシャツ。ジーンズはちょっと色あせた感じの細身。

「悪くないよな? ね、母さん、大丈夫だよね? 靴も買えば良かったかなぁ。失敗したかなぁ」

遺影に向かって語りかけた。小さな写真の母はいつも笑いかけてくれる。

 質素な組み合わせだが持っているくたびれた服よりうんといい。古い靴に目を瞑って足を突っ込み外に飛び出して階段を駆け下りた。


「お待たせしてすみません!」

「大丈夫だから慌てるな。お前……」

姿を見て声が途切れた。

(組み合わせ、悪かった? もっとお洒落な方が……)

「私服、似合うなぁ! さっぱりしていいじゃないか! いかにも若い! って感じでさ。俺、もうちょっと若く見えるのにすれば良かった」

 嬉しいのと、河野を慰めようと思うのと……

「課長! 大丈夫です、若く見えますよ!」

河野は吹き出した。

「お前、それで慰めてるつもりなの? 参ったな、お前って」

何がいけなかったんだろう? そう考える頭に河野の手が乗った。

「フォロー、ありがとな」

そう笑って言う河野の目にジェイの足元がチラッと見えた。


 高速に乗った。そのスピード感に、飛んでいく周りの景色に目を奪われた。

 列車に乗ったのは高校2年の終わり、田舎から出てきたあの日が最後だ。タクシーでさえ河野に乗せられたのが初めてだった。

 ただ窓の外をじっと見ていた。こんな日が来るとは思ってもいなかった。ジェイの頭にあったのは、会社に入ってがむしゃらに働いて上の地位に就くことだけだったから。

――そうすればきっとお祖父様も母さんの墓参りを許してくれる……


「おい、あれ見えるか?」

指差された方向に、高い丸い物が見えた。

「あれ……」

「ご希望の観覧車だ」

 実際に二人で観覧車に乗るとは河野も思っていない。

「すごい! 大きい、コマーシャルで見たまんまだ!」

(ここでこんなにはしゃぐなら向うに着いたらどうなるんだろう)

内心河野は焦っている。

(子どもなら問題無いが)

「課長、見て!」

その振り向く顔を見て笑みが浮かんだ。

(ま、いっか。そんなに喜ぶなら何十回でも連れてきてやるよ)

「駐車場、出来れば入り口近くがいいよなぁ」

ぐるぐると駐車場を回ったが近くは空いていない。同じように回っている車が数台ある。

「あ! あそこ!!」

見ると、斜め前方に車に乗り込もうとするカップルがいた。音を立ててドアを閉める様子からするとケンカでもして帰るんだろう。

「早く、早く!」

反対側の車が気が付いたらしくてスピードを上げて来る。

「課長!」

「任せとけ」

勢いよくバックしてその車が出た途端に車を突っ込んだ。前をさっきの車が通り過ぎて行った。ドライバーが睨んでいたが、取ったもん勝ちだ。


「良かったな、ここならたいして歩かないで済む」

期待に胸を膨らませているだろうジェイに河野は体を向けた。

「ジェローム、言っておきたいことがある」

 目の前に夢にまで見た遊園地がある。なのになぜ課長は厳しい顔をしているのだろう。

「なんですか、課長」

急に不安になる。さっきここに車を止めてくれと騒ぎすぎたのかもしれない。

「車を下りたら『課長』は無しだ。遊びに来たのに職務名で呼ばれたくない」

「じゃなんて……」

課長は課長だ。それ以外の呼び方なんて思いつきもしない。そうだ!

「『こうのさん』、そう呼べばいいんですね?」

河野は首を横に振った。

「それもお断りだ、しらける」

――違う? 他に呼び方なんて無い

「蓮」

「はい?」

「『れん』、そう呼べ」

「れん……さん?」

「バカ、違う。蓮だけでいい」

「えぇ!?」

――それは無理だ、そんなの無理だ! 蓮さんでも厳しいのに!

「だめか」

「無理です、そんなの!」

河野はエンジンをふかした。

「じゃ、帰るか。観覧車も見たし駐車場にも止めた。後は帰るだけだ」

容赦なくハンドルに手をかける。

 横を見ると泣きそうな顔をしたジェイがいる。心を鬼にした。

(今呼ばせなきゃ俺は一生こいつにはただの課長だ)

車を動かし始めた。

「待って!!」

 まるで悲鳴のような声。無茶をしている、酷いことを。ここまで来て諦められるわけがないじゃないか。それは百も承知だ。

 でもここが自分にとって分岐点だと思っていた。ジェイと今の関係を変えたい、少しでもそばに寄り添うために。

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