第四話 意識-1

「起きたか? おはよう」

動き回る音に声が混じる。

(え?)

なぜまたこのベッドに寝ているのかが分からない。

 ジーンズにベージュの長そでシャツをラフに羽織った課長が手を拭きながら自分を見下ろした。胸元のボタンは2つほど開いて、袖は肘下まで捲り上げられている。どうやらキッチンで水仕事をしていたらしい。

「昨日……?」

「覚えてないってのは酔っ払いの常套文句だが、お前は本当に覚えちゃいないんだろうな」

目が点のジェイに河野は吹き出した。

「見事に酔い潰れたな。引き取り手がいないから俺がお持ち帰りした」

「俺、また迷惑かけて」

「いいさ、慣れるように努力する」

河野の顔がひどく優しく見えてどぎまぎしてしまう。

「お前、今日何か予定あるのか?」

「え? 今日? あ! 仕事、」

「池沢なら話通ってる。簡単な打ち合わせだそうだ。心配ない」

「わっ!」

「なんだよ、今度は」

「俺の下着じゃない!」

「水飲ませようとしたらお前、ひっくり返したじゃないか。おかげでシーツまで取り替えたんだぞ。お前が今着てるのは俺のだ」

「あ、あの」

「お前の下着は乾燥機の中だ。良かったよ、スーツ脱いだ後で。何焦ってるんだ? お前ちゃんと自分で着替えてたぞ」

 河野の言葉が頭に浸透してきて、ほぉっとため息をついた。そうか、自分で着替えたのか そんな安心した顔を見て、河野は正直複雑な気分になっている。

 キッチンへと向かう課長を見て、ジェイは慌てて起き上がった。着るものはスーツしかないからどうしていいかわからず、下着姿のままで身の置きどころがない。

 

「で? 予定は?」

「いえ、特には……」

フライパンを持った河野が振り返った。

「そうか。なら今日は俺につき合え」

そのにこりと笑った顔になぜかジェイは落ち着かない気分になった。

(なんか変だ、課長の笑う顔、ほっとする……)

 バスタオルを投げつけられた。

「シャワー浴びて来い。着替えはそこに買い置きのヤツを置いてある。多少サイズが違っても文句言うなよ。ほら、さっさと行け」

 遠慮する間もなくバスルームに追いやられたが、前回と違って頭痛も気分の悪さもそれほどじゃない。体が軽くて動くのがずっと楽だ。


 バスルームに入って改めて中を見直した。前回は出勤しようと焦っていたし具合も悪かったからまともに見ていない。

(コマーシャルで見る家みたいだ…)

あんまり綺麗に磨いてあるから使うのに躊躇いが出る。

(でもシャワー使うしか無いし)

 思い切ってシャワーの栓を捻ろうとして え? と手が止まった。自分の体に違和感を感じる。あまりにもすっきりしている。

(まさか、俺……)

 間違いない、あの感覚だ。最近いろいろあったからモヤモヤした気分も溜め込んでいた。でもそれじゃどうしてこの下着はさっぱりしてるんだろう……

 カッと顔が熱くなった。自分が着替えたのはどの段階だ? 水、いつ飲んだんだろう、その時にはもう出した後なのか? なら洗ってくれた河野にも知られたんだろうか。

「おい、どうした? 気持ち悪くなったか?」

その声に我に返った。

「いえ! 大丈夫です!」

「慌てなくていいぞ。ちょっと心配になっただけだ」

それきり声が止んだからキッチンに戻ったんだろう。


 河野の声が耳に残る、心地よく。まるで夢の中に戻ったような錯覚が起きる。河野の声が無いはずの形となって頭に響く。

(なんて夢見たんだよっ!)

 途端に素直な体に妙なこわばりが生まれた。栓を捻った。まだ温かくないシャワーを頭から浴びた。

 以前にも似たようなことがあった。その時の夢に出てきたのは、あろうことか高校の時の担任だった。

 もう湯になっている降り注ぐシャワーの中で頭を振る。

(今度は課長? 俺、どっかおかしいんじゃないのか?)

 なぜか女性が頭に浮かばない。そもそも興味が湧かない。忙しさの中でさほどそんなことを考えずに来た。けれどここまで来ると自分の異常を認めないわけには行かない。

 体の熱が冷めない、あの声を追いかけている自分がいる。

「は……っ……」

背中に密着する肌を感じる……

「ぅ!」

 声を出しちゃいけない、浮かぶ相手はこの家の中にいる。少し離れた空間で自分に朝食を用意してくれている……

 ひどく背徳的な思いに包まれる。大きく息を継いで喘いだ。

(どうしよう……)

これから河野の顔をまともに見れるんだろうか。


「ゆっくりだったな、大丈夫か?」

「はい……」

(聞こえなかったよな)

 気遣う声に後ろめたさが増す。俯いてしまう自分を河野が違う目で見ているとは気づかずに。

 河野は河野で、俯くジェイを思わず抱きしめたくなる衝動と戦っていた。


「少しは食えそうか? この前よりマシに見えるけど」

「はい」

「なんだよ、急に元気なくなったな。ホントに平気か?」

傍に来ようとするのを見て慌てた。

「あ、大丈夫です! ちょっと熱い湯に当たり過ぎて」

「ならいいが。どうする? 出かけるのやめるか? ここでのんびりしたっていいんだぞ」

 それは無理だ! そう叫びそうになるのをやっとの思いで踏みとどまった。今この状態でこの家の中で二人きり。その空気にとても耐えられそうにない。

「平気です、出かけられます。気分、良くなってきましたから」

無理やりに作った笑顔を貼り付けて、河野に頷いた。


 二度目のお茶漬けも美味かった。

「これ、どうやって作るんですか?」

「企業秘密だ」

途端にしゅんとした顔に笑ってしまう。

「しょうがない、特別に教えてやる」

 ジェイの空になった椀を取り、飯を盛った。戸棚から小さな袋を出してくる。破いてパラパラと飯に振りかけた。

(ふりかけ?)

その上にお茶を注ぐ。

「ほい! 食え」

「え? 終わり?」

「ああ。終わりだ。どうした?」

 かつがれたのだとやっと分かって不貞腐れた。

「もっとちゃんとした料理かと思ってました」

「なんだ、朝っぱらから俺にそんなのを要求してたのか?」

「いや、その、そうじゃないですけど……」

「お前のお母さんはよっぽど料理が上手かったんだな。こんなのを食べずに済んだなんて」

「母は料理が得意でした。いつも栄養考えて作ってくれて。俺が夜中勉強してる時も美味い夜食用意してくれ」


 声が止まった。何故か急に喉の奥が苦しくなった。頬に手をやった。指を見ると濡れている。


「あれ?」

ぽたぽたと涙が落ちているのに気づかなかった。

「なんで俺……」

 この頃泣いてばかりだ、それも河野の前で。頭に手が載ったから見上げた。優しい瞳が自分を見下ろしている。

「お前、ちゃんと泣いたのか? お母さんが亡くなった時。葬式とか」

「葬式、俺、出るの許されなくて……遠くから眺めて……父さんのも母さんのも葬式出てなくて……俺、東京に来たくて病気がちの母さん、俺を心配してついて来てくれて無理して、俺、無理させてばっかで……お前が殺したって……言われ……」

思わず河野は抱きしめていた。

「もういい、いいんだ。お母さんはきっとお前を見てるよ。お前だけを」

 絞り出すような苦痛の声に河野は痛みを覚えた。腕の中のジェイの頭が自分の胸で震えている。


 葬式にさえ出ていなかった……いや、出ることを許されなかった。怒りさえ覚える、自分のことのように。

「泣いてしまえ。泣かなきゃだめだ、そんなことしまい込んじゃいけない。こうしててやるから」

後はただ、声を上げて泣くジェイを抱きしめていた。


「すみませんでした。ちょっと顔洗ってきます」

 泣いても抱きしめてくれる相手がいる。それがこんなにホッとするものだとは思ってもいなかった。

 独りで生きていく。そう決めていたから精一杯突っ張って来た。優しさは要らない、他の誰の愛も要らない。母からの愛が最後だと思っていた。けれど今は、まるで閉じこもっていた心にトンネルが開いた様な気がする。泣いたことも、不思議に恥ずかしいと思わなかった。


 顔を洗って戻ると河野がコーヒーをくれた。

「どこか行きたいとこあるか?」

「どこかって……」

「どこだっていいんだ、今まで行きたいけど行けなかったってところさ。なんかあるだろう、周りの連中が喋ってるのを聞いていいなって思ったところ」

 パッと一瞬顔が輝いたから、どこを言うのかと受け止める気満々だった。ボーリングか、プールか、テニスや卓球、ビリヤード。苦手だけれどカラオケでもいい、我慢してきたところに連れていってやりたい。けれどいつまでたってもジェイは口を開かない。

「どうした、言ってみろ。無理なら無理って言うから」

何度か口を開いては閉じる。

「言えって」

「……課長、きっと笑う」

「笑わないよ! 大丈夫だ、どこだ?」

「……えんち」

「ん?」

「遊園地」

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