第二話 別れと出会い-3

 天井を見つめた。ゆっくり周りを見回す。

――ここ、どこ?

 温もりを感じて隣を見た。たっぷり2分近く息を呑んだまま。唾をごくりと飲んで、やっと声が出た。

「あの!」

「んん? 起きたか」

目をこすりながら起きたのは河野課長だった。

「あの!」

それしか言葉が出て来ない。

「気分はどうだ? ちょっとはマシか?」

そう言われれば少し気持ちが悪い。頭が痛かった。河野が半身を起こした。

「水持って来てやろうか?」

確かに喉が渇いている。

「悪いけど頭どかしてくれないか?」

その言葉に下を見た。枕じゃなかった。河野の腕だった。

「わ! あの!」

 慌てて動かした頭の中が揺れる。

「あ……」

額を掴んだ。

「頭が痛いのか。待ってろ、薬持ってきてやる」

少しして頭がそっと持ち上げられた。

「ゆっくり飲め。先に薬を口に入れてやるからな」

丸い錠剤が2粒口に入れられた。冷たいグラスが唇に当てられ、喉の渇いていたジェイは勢いよく飲もうとした。

「ほら、言ったのに!」

むせるジェイの頭が胸にもたれる。苦しそうな息に背中を撫でた。

「まったく、子どもみたいなヤツだな」

 

 頭が痛い。気分が悪い。起き上がれない。

(酒なんてひとっつもいいとこ無いじゃないか)

そう思うのに、あの何もかも忘れられる時間をまた欲しがっている自分がいる。ふわふわと気持ち良くなって浮かんでいくような気がした。重い物を忘れられた。

「すみません、俺、迷惑かけました」

「気にするな。それを言うなら俺がお前に飲ませ過ぎた。悪かった」

(悪い人じゃないんだ……)

河野がそれを聞いたら頭を抱えるだろう。


「どうだ、何か食えそうか?」

キッチンからカチャカチャと音が聞こえてくる。

「いいえ」

 とても口にものを入れられる状態とは言えなかった。しばらくその音だけが室内に響いていた。

 聞こえる音。フライパンで何かを焼いている匂い。伝わってくるほのかな温度。

(母さん)

目を開ければそこに母が立っているような気がする。まるで夢でも見ているような……。あれから2年も経つというのに。キッチンの方から顔を背けた。

(母さん、俺……)

『あなたにも愛する人が出来る。愛してくれる人が出来る。忘れないで、あなたは独りじゃない』


――無理だよ 失うのが怖い 持ってなきゃ何も失わないんだ


 コトリと音がした。

「これなら食えるだろう」

かけた声に振り向いた顔が涙に濡れていた。慌ててジェイが顔を拭うより先に背中を向けた。

「ゆっくり食えよ。舌、火傷するから」

(見られた?)

でも河野課長は何も聞かなかった。見られてないのかもしれない。

 脇を見るとトレイに湯気の立つどんぶりが一つ。氷の浮かんだ水が一杯置いてある。台所の様子を窺った。どうやら洗い物をしているらしい。

 ため息が漏れた。

(食えないって言ったのに)

でも上司が作ったものだ。口にしないわけにはいかない。しぶしぶどんぶりとスプーンを取った。

 一口目。さっぱりする味だった。わさびの風味がある。2口目に手が進んだ。そこから先は次々と。

「どうだ、美味いか?」

煽るように食べているところに声をかけられた。

「はい! これ、なんですか!?」

「何って……お茶漬けだよ、普通の」

「へぇ! 聞いたことある」

最後の方は呟きだった。


「行けそうか?」

「行きます、仕事休みたくないです」

 まだ顔の青いまま、ジェイは靴を履いた。いったん家に帰って着替えたいから朝早くに出て行く。休んで構わないと河野から言われたがそうは行かない。自分はまだ新米だ。

「頑固だな、お前も。俺は初めての二日酔いでトイレ行くのがやっとだったよ」

「若いですから!」

「それ、俺が20の頃の話だ。お前もう22だろう?」

マズいことを言ったと思わずしかめた顔を見て河野は笑った。

「いいよ、大目に見てやる。誰にも話すなよ」

「俺、口固いです」

真面目にそう答えるジェイに、そうかと思い当った。

(人を拒んでいるだけじゃない、不器用なんだ)

 夕べからの様子を見て、まだ心が子どものままなんだと思う。きっと成熟する前に何かがジェイをこうしてしまったのだろう。


 オフィスではいつもと変わらず動き回るジェイをいつの間にか目が追いかけていた。あれから3日間ジェイを見ている。

 あの夜のことがあってからどうしても惹かれる。あの子どものような姿は消え、ここにいるのは時折り厳しい表情を浮かべる面接のときのようなジェイだ。まるでスイッチで切り替わったかのように見える別の顔。

 1ヶ月も経たないのに彼はすでに有能だった。判断が早い。しかも的確。真剣に仕事に取り組む顔。常に何かを考えながら動いている。失敗を恐れない。マズいことをすると保身に走るより先に皆に伝え早い修復を図ろうとする。誰を相手にしても臆さず質問し、仕事を吸収することに貪欲だ。

 ここに部下の理想像がいる。こんな部下を初めて持った。仕事に対する真面目さでは自分は誰にも負けていないつもりだったが、ジェイのそれはまるで仕事にしがみついているようにも見えた。


「久しぶり。頼みがあるんだけどな」

 人事部の関裕子とは、古いつき合いだ。一時期は恋愛関係にもあったがふとしたことで上手く行かず、それが何度も重なって別れた。でも悪い別れ方はしていない。お互いに納得していた。ちょっと波長が合わなかっただけ。裕子もあれから河野が誰かとつき合っている話を聞いていない。だからしこりのない別れになったことを喜んでいた。今では右手の薬指に指輪が光っている。

「何? 珍しいじゃない、ここに来るなんて」

「新入りのことを知りたくてさ。ジェローム・シェパードっているだろ? あいつの履歴書とか関係資料見たいんだけど」

「それ、困るわ。人事なんて個人情報の塊なんだから。知ってるでしょう?」

「俺、あいつの面接官だったんだぜ。全部一度は見ているよ。確認したいことがあるだけなんだ」

 少しの押し問答で、河野の手にジェイの資料が渡された。

「その代りここで読んでって。外部に出しちゃマズいの」

頷くとそばのデスクに座った。

「椅子に座って。まったくもう」

「はいはい」

椅子に座り直して手早く紙を繰っていった。


 一人暮らし。家族無し。21の誕生日の前に天涯孤独になっていた。成績は抜群。奨学金を幾つも受けていた。得意なスポーツはバスケットとなっている。新卒の情報は少ない。


「ありがとう、助かったよ」

「困った子なの?」

「ある意味ね。仕事は出来る。あれはモノになる」

「なら問題無いじゃない」

「仕事って意味ならね」

怪訝な顔をする裕子に礼を言ってオフィスに戻った。

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