第二話 別れと出会い-2
みんなが退社した後。
「悪いな、この資料明日のプレゼンで使いたいんだ」
「いえ、仕事ですから」
後は黙々と作業をするジェイに河野は聞いた。
「履歴書では一人住まいだったね。家族は田舎かな?」
「いえ」
取りつく島もない返事に苦笑した。
「君、友人少ないだろう」
今度はしっかり顔を上げて答えた。
「いません。業務に支障ありますか?」
「いや。無いよ。悪かった、立ち入ったみたいだな」
キツい目が資料に戻っていく。終わった時には8時に近かった。
一緒に食事をという河野の誘いを何度か断り、終いにはつき合いも仕事のうちだと言われジェイは後ろについて行った。
「何が食いたい?」
「何でも食えます」
「じゃ、俺の行きつけの店にしよう」
こういう上司は小洒落た店に連れて行くのだろう。レストランや料理屋。住む世界が違う。そう思った。
行ったのは焼き鳥屋。小さな店だ。怪訝な顔で河野の後に暖簾をくぐった。
「あら、蓮ちゃん。金曜じゃないのに来たの?」
「今日は若いのを連れてきたんだ」
「まるで自分は若くないみたいじゃない?」
「もう29だよ。若いとは言えない」
「まだ20代じゃないの」
「辛うじてね」
まるで家族のようなやり取りに懐かしさを覚えた。母に見せたかった、スーツ姿を。
「どうしたんだ、俺、何か気に障ったか?」
オロオロする声に我に返った。頬に涙が伝うのを感じ慌てて拭った。
「目にゴミが入ったんです」
それ以上を河野は聞こうとしなかった。
「こういう店は初めてか?」
「はい」
「君は口数が少ないな。ずっとそうなのか?」
ビールを注ごうとした手を断った。
「酒、飲めないんです」
河野は驚いた。本当にこの若者は世間から隔たっているところにいるように見える。
「まさかと思うが……飲んだことがないのか?」
ジェイは頷いた。そんな余裕は無かった。大学のコンパも行ったことが無い。ファーストフード以外の外食はしたことが無い。
「一口でいい。飲んでごらん。これだって勉強だ。飲めないってね、ハンデになるよ、この先」
河野の声は優しかった。冷えたグラスを持って恐る恐る口をつけた。慌ててグラスを離す。
「苦い」
ひどいしかめっ面に河野が笑った。
「初めてビールを飲んだ時って、みんなそう思うんだよ」
「じゃ、なぜ飲むんですか?」
「その内それが美味くなるんだ。スキっとするようになる」
信じていないその顔つきに、河野はますます笑った。
「おばちゃん、日本酒と焼酎と水割りくれる?」
「そんなにどうすんの?」
「いや、こいつに合う酒を探してやろうと思ってさ。飲んだことないんだって」
「そうなの? じゃ、そんなのはダメ。チャンポンになっちゃうし。最初はこれになさいよ」
出てきたのはワインだった。
「焼き鳥にワイン? 合わないよ!」
「いいから。これ、甘口。こういうのから始めさせてあげなさい。それとも飲み潰すつもりだった?」
「敵わないなぁ。じゃそれにするよ」
注がれた赤い色はきれいだった。じっと見つめる顔が斜めになっていく。どきりとした。初めて見るジェイの子どものような顔。
「飲んでごらん、口に合えばいいけどな」
びっくりするほど綺麗な色の酒は美味しかった。
「これ、本当に酒なんですか?」
「ああ、そうだよ。良かった、飲める酒があったじゃないか。これに焼き鳥ってのは俺には抵抗あるけどな」
「どっちも美味いです、焼き鳥ってこんなに美味しいんだ!」
「お前、焼き鳥も食ったこと無いのか?」
串にかぶりつきながら勢いよく頷くジェイに、驚きが増す。どう生きてきたんだろう。
「いくらでも頼んでいいからな。好きなだけ食えよ」
その頃には2杯目のワインを口にしていた。ほんのり目尻が赤い。
「じゃ、ももとネギまと皮とハツと……」
普段と全く違うジェイがそこにいる。まるで少年のように頬を染めて。
「お前、メニューの端っこから言ってるだろ」
河野の笑いに、素直に笑い返した。
「だって食ったこと無いから」
「おばちゃん! 全種類焼いてやって!」
「あいよ!」
次々出て来る焼き鳥に目が輝いている。だいぶ酔っているのに本人は気づいてない。
「どれが一番美味い?」
「たれの皮!」
「なんだ、お子さまだな。おばちゃん、たれ皮3本追加。俺、レモン割り」
「レモン割り?」
「焼酎さ。それだけだとほとんど味の無い酒なんだ。だからいろんな味を付ける。フルーツが多いけど、お茶割り、梅割り、ひどいのになると牛乳割りなんてのがある」
「牛乳割り……俺、それ飲んでみたい」
「牛乳が好きか?」
「うん、牛乳ならきっと飲める」
――可愛い!
アルコールの入ったジェイは艶めかしかった。俯き加減に見せる笑顔。首を反らして笑う声。赤い唇。酔った目。
なのに、牛乳が好きだと言う。
「牛乳割り、くれる?」
「えぇ、それだけは勘弁って言ってたじゃない」
「違うよ、こいつが飲んでみたいってさ」
「ワインの後にそれはお薦めできないけどね」
「1杯だけだよ。それ以上はもう飲ませないから」
真っ白な液体がでかいコップに入って出て来た。ジェイにはとても酒には見えない。
「これ、本当に酒?」
「そうだよ。味はほとんど牛乳なんじゃないかな」
そう聞いた時にはジェイは一気に飲み干していた。
「お、おい! そんな飲み方するな!」
言った時には遅かった。すでに酔っぱらって、酒に耐性の無いジェイにはまともに効いてしまった。
「牛乳だあ、これ、酒じゃないよ、牛乳だよ」
「お前、彼女と飲みに行ったりしなかったのか?」
「俺? 誰かと付き合ったこと、ない」
「え?」
「酒もぉ、彼女もぉ、友だちもぉ、なぁんにも経験無し! 俺、セックスもぉ、経験無しっ!」
そのままテーブルに潰れたジェイに泡を食った。最後の言葉が店内に響いている。
「お、おばちゃん、勘定!」
「あ、そうね」
おばちゃんまでアタフタしていた。
「その子、ちゃんと送ってやってよ。あんたが潰したんだから」
「分かってるよ、きちんと送り届ける」
他の客の目を背中に意識しながらジェイを肩に担いだ。
「行くぞ、ジェローム、目を覚ませよ」
「うぅん……」
タクシーを拾って、やっとジェイの体を奥に押し込んだ。
「おい、家はどこだ?」
「うぅん、母さん、待ってる……」
(ん? 母親は……)
「だから、家はどこにある? どこに送ればいい?」
「俺……居場所なんて無いから……」
突き動かされるように自分のマンションの場所を告げた。
「ほら、しっかり歩け。すぐそこにエレベーターがあるから」
初めての酒に酔い潰れているジェイは、ほとんど意識が無い。引っ張られる方向に重い足がやっとついて行った。
抱えたままガチャリとロックを外す。靴も脱がせずに引きずるようにベッドに横たえた。目を開ける気配は全く無い。
靴を脱がせ、ネクタイを解き、スーツを脱がせる。逞しい体が現れていく。
「ジェローム、水飲んだ方がいい。ジェローム」
小さな呟きが聞こえた。
「かあさん ごめん かあさん ごめん……」
涙が一筋流れていた。
慌てて離れた。見てはいけないものを盗み見たような罪悪感が生まれた。しばらく続いた呟きの後、ジェイは完全に寝入ってしまった。タオルで目を拭いてやる。
明かりを消して自分はソファに横になった。
「きもちわるい……」
その声にパッと目が開いた。
「かあさん きもちわるい はきそう……」
「ま、待て、ベッドに吐くな!」
電気をつけてジェイを抱えてトイレに連れ込んだ。間一髪、間に合った。座り込んで吐き続けるジェイの背中をさする。
「悪かったな、あんなに飲ませて。初めてだったのにな」
もっと気をつけるべきだった。気持ち良さそうなジェイに見惚れてつい飲む手を止められなかったことを悔いた。
落ち着いたかと思うとまた吐き気が襲ってくる。背中が揺れる。
「かあさん……つらい……」
「いいんだ、全部出してしまえ。そばにいてやるからな」
無防備に弱音を漏らすジェイがたまらなく愛おしく見えた。
ようやく落ち着きを見せたジェイに水を飲ませた。顔を拭いてやり着替えをさせる。夢見心地のようで、されるがままになっているジェイを甘やかし続けた。
一通り終わってベッドを離れようとするシャツの端が掴まれた。
「かあさん……俺を置いてかないで……」
縋りつくような声だった。
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